襲撃⑤
こいつが……ギルタブルルなのか。
その人間ならざる悪意と威圧感に全身で耐えながら、俺は、そいつのすました細面をにらみ返してやった。
やっぱり、女だ。幻獣というやつは、全員女なのだろうか。
それも、人間離れして美しい……ただし、そいつの美しさは、邪悪で、ラケルタ以上に悪魔じみていた。
色が白くて、髪が長いのも、トラメやラケルタとおんなじだ。が、腰まで届くその髪は、赤サビのようにくすんだ赤褐色をしていて、白い肌は、軟体動物のようにぬめりを帯びている。トラメのようなきめのこまかい白さとも、ラケルタのような陶磁器ぽい白さとも異なる、不気味な青白さ、だ。
その目は切れ長で、呪われたルビーのように赤く、その唇もまた、血をすすったように赤い。こんなに邪悪で美しい女が、ただの人間であるはずはなかった。
俺と同じぐらい背が高く、そのすらりとした長身に、不気味なマントのように見える漆黒のロングコートをまといつけている。幻獣というよりは、女吸血鬼のような風貌だ。
「ふん……もう片方は、大喰らいのグーロだったか。何日か前に、この場所にいた気配の主は、お前たちだな? 隠り世の住人を二人同時に相手どるのは面倒だと思ったのだが、コカトリスにグーロでは身を隠す必要もなかったな」
「ほお。ずいぶんな大口だな。そんな簡単に我ら二人を滅する自信があるのか?」
ふだん通りの不機嫌そうな声でトラメが応じると、魔性の女は、赤い唇をねじ曲げて笑った。
「その片方が、こんなちっぽけな子トカゲではな。……しかし、別にお前たちは私の標的ではない。面倒だから、そこで黙って見ていろよ、グーロにコカトリス。お前たちは、私が解放して隠り世に帰してやる」
「……それでは貴様は、あくまで我らの契約者に害を為そうというのか?」
「もちろん。それが私の主の、望みだ」
「……望み?」
トラメの黄色い目が、すっと細められる。
ラケルタは、怯える八雲の頭を抱えこみながら、わめいた。
「どうしてだヨ? どうしてミワやミナトが殺されなきゃいけないんダ? 手前の契約者は、ミワたちと顔を合わせたこともないはずだロッ!」
「さあな。人間の考えることは、よくわからん。だから、主の言葉をそのまま伝えてやろうか? ……『この力は、俺だけのものだ』だそうだよ、片目のコカトリス」
「何だそりゃァ……ウチらはたまたま同じ時期に召喚されただけで、世界中には山ほど幻獣使いがいるはずだロッ! どうしてミワたちだけが狙われなきゃいけないのサッ!」
「それは、主の目がまだそこまでおよんでいないからだろう」
謎めいたことをつぶやきながら、ギルタブルルはクックッと笑う。
「まあそんなわけで。お前たちなど、眼中にないのだ。どうせ契約者を失えば、お前たちはすみやかに隠り世に引き戻されるのだからな。ならば私の主も満足するし、お前たちも痛い目を見ずに済む。しかし、私に逆らって現し身を滅ぼされれば、百年間の眠りだ。……どちらが利口かは、考えるまでもあるまい」
「うるさいッ! ミワには指一本ふれさせないゾッ! この毒虫ッ!」
藍色の瞳を激しく燃やすラケルタの姿を、ギルタブルルは小馬鹿にしきった目つきで見返す。
「……お前は利口ではないようだな、コカトリス。しかし、グーロ、お前ならわかってくれるだろう? 勝ち目のない戦いに挑んで百年の眠りにつくか、おとなしく引き下がって隠り世でまたのんびりと過ごすか……どうせその人間が死ぬという結果に変わりはないのだ。それにつきあって百年もの眠りを強いられる義理もないだろうさ」
「本当に、貴様を滅することができないのならば、な」
トラメは、半眼のまま、ギルタブルルの嘲りきった顔をにらみ返す。
「ギルタブルル。貴様は強い。我とコカトリスが力を合わせて、ようやく対等に戦えるぐらいだろう。……しかし、それは、あくまで五分の条件ならば、だ」
「……何?」
「この場には、我らの契約者が二人ともにそろっている。この者たちが、正式な作法に則って貴様の滅びを望みさえすれば、我らは隠り身の力をすべて解放することができる。貴様がまだ正式な望みを託されていなければ、いかにこのコカトリスが弱っていようとも、我らが遅れを取ることもないだろう」
「ああ、言わずもがなの話だな。もちろんそんなことは百も承知で語っているよ。残念ながら、その人間どもの滅びは、我が主の正式な望みなのだよ、大喰らいのグーロ」
したたるような悪意をこめて、ギルタブルルは赤い双眸を瞬かせる。
「それでは、お前たちが下らぬ期待を抱かぬよう、私がいかなる望みを主に託されたか、教えてやろうか。主は、こう言ったのだよ……『俺が気に食わないやつを、この世から消せ』とな」
「……そんな大きな望みを唱えて、無事でいられる人間などいるものか」
「それが不思議と、本当のことなのだよ、大喰らい。私もその望みの言葉を聞き、契約者の魂が砕け散るのを待ち受けた……しかし、主は平然とそこに存在したままで、私の力は、解放された。主の望みは、かなえられつつあるのだ、今もなお」
トラメは、いっそう不機嫌そうに口を引き結んだ。
俺には今ひとつ理解できないのだが、何か、おかしなことが起きているらしい。
「思うにな、グーロ、私の主は、とても小さな世界に生きているのだ。気に食わない、と思った人間が、主の周囲にはほんの数人しかいなかったのだよ。これなら確かに、身にあまる大きな望みとは言えない……しかし、その数人を討ち滅ぼしても、私は隠り世に引き戻されなかった。主の望みは、まだ果たされていないのだ。そうして主は、ぽつりとつぶやいた……この力は、俺だけのものだ、とな」
「……それでお前は、石版を買った連中を手当たり次第に襲いはじめたってのか?」
苦い怒りに衝き動かされて、俺はつい口をはさんでしまった。
「その六人を皆殺しにすれば、そいつの望みは無事にかなって、お前の役目も終了する、ってことか……?」
「さてな。そうしているうちに、今度はまた新たに気に食わない存在を見つけだしてしまいそうだ。何せ私の主は偏屈なので……気に食わない人間が数人で済んだのも、それは主が数人の人間としか交流していなかったせいだ。有り体に言って、主は、自分の関わっていた人間のすべてが気に食わなかったのだよ」
そう言って、ギルタブルルはさも楽しそうに笑い声をあげた。
「おそらくこの先も、関わる人間のすべてが気に食わない、と思うのだろう。そうしてその数が百ほどに達すれば、主の生命力も尽きて、私も隠り世に帰ることができよう。馬鹿馬鹿しい話だが、正式な作法で召喚され、正式な作法で望みの言葉を唱えられた私には、主の意志に従うしかない。だから、どうあってもお前たちには死んでもらう他ないのだ、人間どもよ。恨むならば、私の主と関わってしまった己の不運さを恨むがいい」
「うむ。いかなる顛末であったのかは、理解できた。およそ信じ難い話だが……やはり人間というものは、世代を重ねるごとに愚かさを増していっていると考える他ないな」
トラメの声からは、怒りも不満も感じられない。
ただ、その不機嫌そうな声ににじんでいるのは、侮蔑の念……愚かな人間に対する、深い嫌悪と蔑みの念だけだった。
「それはまったくの同感だよ、グーロ。しかし、お前たちはまだ契約の絆に縛られてはいない。だから、そこでそうしてじっとしていればいいのだ。隠り身の力を行使できる私を止めることなど、お前たちにはできないのだからな」
「……」
「どうした? まだ何か釈然としないことでもあるのか? それともまさか、私の言葉を疑っているわけではあるまいな?」
「ふん。人間じゃあるまいし。隠り世の住民が虚偽の言葉を吐けぬことぐらいはわきまえている。ただ、思っていただけだ。……その底抜けに愚かしい人間に召喚されたのが我でなくて、本当に幸いだったな、と」
言いながら、トラメはちらりと俺の顔を見た。
何か、複雑な感情のもつれあった目つきで。
「ただし、ギルタブルル、貴様はひとつだけ間違っている。それは我が一番最初に指摘した通りだ」
「……何?」
「貴様が隠り身の力を十全に解放できるとしても、五分の条件ならば、我とコカトリスは十分に対抗できる。ならば、貴様を止めることはできない、という貴様の言葉は、間違っていることになるだろう」
「そうサッ! こっちも隠り身の力をぜぇんぶ解放できれば、五分じゃないかッ!」
ラケルタが叫び、その足もとに取りすがっている八雲を、鋭く見おろした。
「ミワ! 望みの言葉を唱えロッ! ウチに、アイツを滅ぼせと、望むんダッ!」
「ええ? だ、だけど、そんなことしたら、ラケルタが……」
「ウチは負けても、隠り世で眠るだけサッ! ていうか、負けないヨ、バカッ! ウチは負けないし、ミワも殺させないッ!」
「で、でも……」
「でももへったくれもないのッ! アイツは契約者の望みに従って動いてるんだから、ミワたちを殺すまで、自分の意志でも止まれないんだヨッ! だったら、アイツを滅ぼすしかないッ!」
「……そういうことだな」
トラメは、腕を組み、俺のほうは見ないまま、言った。
「それでも我らの力がおよばなければ、ギルタブルルに殺されるか、あるいは望みを打ち砕かれた代償として魂を滅せられるか……あやうい賭けだが、望みの言葉を唱えなければ、確実な死だ。ミナト、貴様たちに選択の余地はあるまい」
「何を言っている……どうして自ら人間たちをそそのかすのだ、グーロよ?」
けげんそうに言ってから、ギルタブルルはまた悪魔のように笑う。
「ああ、そうか。コカトリスのみならず、お前もまだ年若いのだな、グーロ。お前たちは、いまだに現し世で滅ぼされたことがないのだろう? 百年の眠りとは、そんなに気楽なものではないのだぞ、グーロにコカトリスよ。……現し世で滅ぼされた隠り世の住民は、百の年が巡る間、暗黒の中で、無限とも思える再生の苦しみに苛まれることになるのだ。それはもう、再生などされなくて良いから、このまま消えてなくなってしまいたい、と願いたくなるほどの苦しみなのだよ。ちっぽけな人間の生命ひとつと引き換えにするには、あまりに大きすぎる代償ではないか?」
「……貴様の言は正鵠を得ているし、そこのコカトリスはおそらく滅せられた経験もないのだろうがな。我にそのような注釈は余計だ、ギルタブルルよ。我は以前、魔術師同士の愚かな闘争の際に召喚され、力およぼず、滅せられたことがある。あれは確かに、選択の余地があるならば、我が身の消滅を望みたくなるような苦しみであったな」
ぶっきらぼうに言い捨てて、トラメはラケルタのほうを見た。
「まあ、そのトカゲの子にそんなことを言いきかせても、おそらく気持ちは動くまい。あれはトカゲらしからぬ直情の気性であるゆえ、な。現し世の言葉にもあるだろう、馬鹿は死ななきゃ治らない、と」
「うっさいなッ! なにトラメまで一緒になって悪口を言ってるんだヨッ!」
ラケルタはわめき声をあげ、草むらにへたりこんだままの八雲の両肩を小さな手でわしづかみにする。
その右まぶたからこぼれる血が数滴、八雲の顔にしたたり落ちた。
「さ、ミワ、望みの言葉を唱えてッ! ミワは、ウチが守ってあげるからッ!」
「だ、だけど……」
「だけどじゃないヨッ! どっちみちウチはアイツをぶっ殺すって決めたんだからッ! 隠り身の力が解放できないと、ホントに負けてバラバラになっちゃうヨッ!」
「……まったく、救いのないうつけ者だな、コカトリス……」
ざわっ、と大気がゆらめいた。
ギルタブルルのすらりとした長身から、何か不可視の圧迫感が……津波のおしよせる前兆みたいに不吉な波動が放たれはじめている。
「お前ごときが力を解放したとて、私に傷ひとつつけられるものか。再生の暗黒の中で、己の愚かさを悔いるがいい……」
「それでは貴様が滅びたときは、愚かな人間に召喚されてしまった不運を呪うがいいさ」
トラメの言葉に、ギルタブルルが振り返る。
その白い面から嘲笑は消え、ただ真紅の瞳だけが火のようにギラギラと燃えはじめていた。
「正気か、グーロ? お前まで邪魔立てしようと言うのか? ……何故だ! そんなことをして、お前たちに何の得がある? 失敗すれば、百年の苦しみ、成功しても、得られるのは、そこの人間たちの生命だけだ。お前たちには、何ら利のない賭けではないか!」
「そうだな。うんざりするぐらい、我には利がない」
やはりふだん通りの不機嫌そうな口調で、トラメは応じる。
「ただ、ひとつだけはっきりしていることがある。……我は、貴様と、貴様の契約者が気に食わんのだ、ギルタブルルよ」
「何だと……?」
ギルタブルルが低くうなり、じりっと俺たちのほうに近づいてこようとしたとき。
その声が、響いた。
「八雲美羽の名において、コカトリスのラケルタに命ずる。我の望みをかなえよ……かのギルタブルルを、滅ぼせ……」
語尾が、か細い嗚咽に変わる。
その涙でくしゃくしゃになった顔を見下ろしながら、ラケルタは笑った。
「コカトリスのラケルタ、ヤクモミワの望みを承認す。……それでいいんだヨ。ありがとうネ、ミワ」
ラケルタの、初めて見せる天使のような笑顔が、白い光に包まれていく。
目もあてられぬほどのまばゆい光が、ラケルタ自身の肉体から放たれはじめているのだ。
そして、その光をも圧する青い炎が、ラケルタの左目のあったあたりから、突如として火を噴いた。
「ギルタブルル! 手前は、絶対にブチ殺すッ!」
金属をかきむしるような甲高い怒号が響きわたり、大気を、びりびりと振動させた。
ラケルタが、その本性をあらわにしようとしているのだ。
ギルタブルルは、その光の塊にむきなおりながら、哄笑を爆発させた。
「愚かなトカゲの子め! 本気で私を倒せるとでも思っているのか?」
ギルタブルルの肉体もまた、白い光に包まれはじめている。
しかし、俺にはそちらに目をむけるいとまもなかった。
八雲だ。
ラケルタの身体が光を放ちはじめるなり、八雲は、すべての力を失って、草むらの上に崩れ落ちてしまっていた。
「まずいな……」
トラメがつぶやき、俺の右手首をひっつかんだ。
そうだ。惚けている場合ではない。俺はトラメとともに、倒れこんだまま動かない八雲のもとへと走り寄った。
その姿を、おそらく横目で確認してから、巨大な光の塊と化したラケルタが、跳躍した。
同じように本性を現しつつある、ギルタブルルのもとにむかって。
「八雲、大丈夫か!」
沼のほとりに倒れふした八雲の身体を抱きあげて、のぞきこむと、その顔は真っ青で、完全に意識を失ってしまっていた。
「望みが、大きすぎたのだ。やはりコカトリスだけでは、ギルタブルルを滅することなどできようはずもない。このままでは、コカトリスが滅せられる前に、この小娘の魂が砕け散ってしまうことだろう」
感情のない声で言い、トラメが、顔を近づけてきた。
「覚悟を決めろ、ミナト。その前に貴様が望みの言葉を唱えなければ、四人全員が現し世から消えてなくなることになるぞ」
「だけど……それでも負けたら、トラメはひどい目にあうんだろ? このまま俺が何もしなければ、トラメだけは安全に元いた世界に……」
最後まで言い終えることはできなかった。
トラメがいきなり、俺の額に頭突きをかましてきたからだ。
目の前に白い火花が散り、それが消えると、またびっくりするほどの至近距離にトラメの顔があった。
「何を血迷ったことをぬかしておるのだ。貴様自身の生命と、ついでに言うならあの鶏がらみたいな小僧の生命も、それで不如意になるのだぞ? それが貴様の本意なのか?」
「だって……そんなのは、俺たちの都合じゃねぇか!」
俺も負けじと、怒鳴り返す。
「俺も、宇都見も、この八雲だって、みんな自分の意志であの石版なんかに関わっちまったんだ! 浦島さんだって、あんなものを意地汚くオークションなんかに出したんだから、自業自得だ。それに、ラケルタは……自分の意志で、ああなることを望んだ」
何か凄まじい格闘の気配が伝わってくるが、今はトラメの姿で視界がいっぱいになり、どのような有り様に成り果てているのか確認することもできない。
ただ、金属をかきむしるような咆哮が、ひっきりなしに聞こえてきた。
「だけど、お前はそうじゃないだろ? ただ、考えなしの俺たちに召喚されただけで……お前が身体を張る理由なんて、ひとつもないじゃねェか……?」
「……それを本気で言っているのか、貴様は?」
トラメは、怒りの表情を消し、妙に冷めた口調でそう言った。
「ならば、あのコカトリスの生命も……そして、ひいては貴様たちの生命も、風前の灯火だな」
言いながら、すっと身体を後ろに引く。そうすると、その肩ごしに、この世ならざる二体の怪物が対峙している姿が、はっきりと見えた。
それは、あまりにも信じ難い、現実離れした光景だった。