⑨大団円
『本当に、世話になったなあ、湊くん! この恩は一生忘れへんで!』
電話口の向こうで、若菜さんが明るい声をあげていた。
バイコーンとの死闘から、三日が明けての昼下がりである。
昼食を終えた俺とトラメは、三日前と同じように、リビングでそれぞれくつろいでいる最中だった。
『末坊もすっかり正気に戻ったわ! まだ身体のほうはちいっとばっかり養生が必要やけど、若いんやから、まあ大丈夫やろ』
バイコーンを始末した後、俺とトラメはホテルに戻り、若菜さんは末継氏を病院へと搬送した。
バイコーンは、契約の外で現し身を砕かれただけなのだから、末継氏の魂に危険はない。が、女怪に精気を絞り取られて、肉体のほうはかなりのダメージを負ってしまっていたのだ。
それでも生命に支障はないとのことであったので、俺たちはホテルで一泊したのち、病院に詰めていた若菜さんに挨拶をしてから、帰還した。
帰り道は、新幹線だ。
で、さらに二日が経過しての、本日である。
『まあけっきょく、末坊が弐藤の家を飛びだしたのも、お兄に対するコンプレックスだったんよ。そんでも修行を投げださなきゃあ、いっぱしの術者にはなれたはずなんやけど。何せ、我が家のお兄は才能のカタマリやったから。……そんで、お兄を見返したろ思て、あないあやしげな西洋魔術やらに手ぇ出してもうたみたいやわ』
「なるほど。もうずいぶんと落ち着いたんですかね?」
『ん。おかげさんで、文字通り憑きものが落ちたいうやつや! 湊くんたちのことも、しっかり説明しといたで。ゴメーワクヲオカケシマシタ、マコトニモウシワケアリマセン、やて。身体がもうちょい元気になったら、きちんとわびを入れに行かせたるわ』
「いいですよ、そんなの。こっちの魔術師どものほうも丸くおさまったことですし」
キャンディスと七星には、すでに事情を通達してある。
バイコーンを始末して、末継さんの無事を確保し、なおかつ弐藤流陰陽道なる一派を敵に回す羽目にもならなかったのだから、誰に文句をつけられようもなかった。
ただし、トラメが契約の力を使わずにバイコーンを倒してしまった、ということで、またキャンディスの興味をいっそう強烈にかきたててしまった、という弊害は残ったが。こればっかりは、しかたがない。どうやら魔術師どもも使い魔だか何だかを使って遠巻きに一部始終を観察していたようなので、下手にごまかすことはできなかった。
『魔術師がどうとか、うちは知らへんよ。うちは湊くん個人に感謝してるんや! ……あ、あともちろん、湊くんの相方にもなあ』
そのトラメは、相変わらずの仏頂面で煮干しをかじっている。
もちろん理性の徒として復帰した俺は、その姿を見てももう心を乱されたりはしない。しないったらしない。あの夜の一幕は、きっと淫魔たるバイコーンとの接触で俺の理性が弱体化をヨギナクサレたために生じた、不慮の事故みたいなもんだったのだ。絶対にそうなのだ。
ただ……昨日の朝ぐらいまでは、俺が寝ている間に寝床へと忍びこんでくるトラメの猫みたいな習性が、とほうもなく心臓に悪かった。
だけどそれも、それだけのことだ。
『トラメちゃん、やったよな? 最初ん頃、バケモン呼ばわりして悪かったわ。うちからもおわびしたいんやけど、そこにおるんか?』
「いますけど。何を言ったって返事なんてしないでしょうから、放っておいていいと思いますよ?」
『そうか。そんなら、末坊を連れてくときに、まとめてわびるわ。湊くんとトラメちゃんは、うちと末坊の一生の恩人やからな』
「おわびとかは本当にいいですってば。俺は俺の都合で動いただけなんですから、そんな気にしないでくださいよ」
『そらあ無理な相談やで。そんならミナトくんは、おんなじ立場でもおんなじ台詞が言えるんかいな? 例えばうちがトラメちゃんの生命を救うような大事件がボッパツしたとして、その礼をこないな電話一本で済ませられるような不義理に耐えられるんか?』
「いや、まあ、それはそうかもしれませんけど……」
『そないに迷惑そうな声ださんでよ。傷つくなあ。うちなんかとはもう一生顔も合わせたくないとでも言うつもりなんか?』
その声は何だか本当に悲しそうな感じに聞こえてしまったので、俺は思わず苦笑してしまった。
「まったくそんなことはありませんよ。……わかりました。それじゃあまあ、お礼とか何とかそのへんのことはいいですから、ひまができたら遊びにでも来てください。またバイクとかにも乗せてくださいよ」
『ほんまか? 湊くんは単車なんてもうこりごりとか考えてたんちゃうの?』
「いや、気持ち良かったですよ。さすがに四時間の道のりはきつかったですけど、俺もちょっと免許とか欲しくなってきちゃいました」
『……感動した! そんときは、うちが手とり足とり教えたるわ!』
あれ、ちょっとまずいことを言っちゃったかなと思いつつ、俺も何だか楽しい気分だった。
しかし、楽しんでばかりもいられない。
俺はそんなにお気楽な身の上ではないのだから。
「でも、ひとつだけ言わせてくださいね。俺は、あやしげな魔術結社なんかと関わっちゃってる身分なんです。本当は、若菜さんも俺なんかとは関わらないほうがいいんじゃないかな、っていう気持ちもあるんですよ」
『何やそら? 魔術師なんて関係あらへんわ! そいつらが、うちと湊くんの仲を引き裂こういう腹づもりなら、うちがまとめて相手したるよ?』
と、若菜さんの声も、少しだけ真剣味をおびる。
『なあ、湊くん。あんた今回、人の世話をやいとるばかりやったけど、あんた自身は何か困ったりはしてへんのか? あんたのためなら、うちはなんぼでも力を貸したるで?』
「いえ。今のところは平和なもんです。あいつらも、そうそう俺にちょっかいを出していられるほどヒマではないんでしょうし」
『ふむ。まああのトラメちゃんがそばにいんなら、うちの出番なんてないのかもしれへんけど。困ったときは、いつでも連絡してな? うちとあんたは、もう仲間やで!』
「……ありがとうございます」
自分で考えていた以上に、俺は何だか嬉しい気分になってしまっていた。
今の俺の身の上では、そうそうカタギの人間と仲良くはしていられない。身近な人間が、かつてのナギと同じような災厄に見舞われてしまったら……と考えたら、いっそすべての友人知人らと縁を切ってしまったほうがいいのではないかとすら思えてくる。
しかし、若菜さんは、何の力も有していない一般人では、ない。
なおかつ、魔術結社とも邪神教団ともしがらみのない身の上で、それどころか、敵に回したくない、とすら思われているぐらいなのだ。
もしかしたら――若菜さんとなら、普通に友人づきあいができるのではないだろうか?
そう考えたら、本当に胸が弾んできてしまった。
俺はこのお姉さんの破天荒な人柄に、けっこう心をひかれてしまっているらしい。
『そんじゃあな。まだしばらくは末坊も入院生活やから。そっちが落ち着いたら、また連絡するわ!』
そうして、若菜さんとの通話は終了した。
俺はソファに座りこみ、仏頂面の同居人と相対する。
「……何を浮かれておるのだ、貴様は。馬鹿面をさらすな。せっかくのニボシが不味くなる」
「何だよ、ご機嫌ななめだな。……まさか、また心臓でも痛むのか?」
俺が身を乗り出そうとすると、トラメは威嚇するように犬歯をのぞかせた。
鼻の頭にしわが寄って、そんな顔をすると本当に猫そっくりだ。
「傷は順調に回復していると言うておるだろうが! 何べんも同じことを言わすな、うつけ者め」
元気いっぱいなのはめでたいことだが、そんなおっかない顔をしなくてもいいではないか。
俺は浮かせかけていた腰を降ろして、「やれやれ」とソファの背もたれに体重をあずける。
何はともあれ、大団円だ。
ここ二ヶ月で、実にさまざまな騒動に巻き込まれてきたこの俺であるが、こんな風に悪い後味も残さずスッキリと事件が片付いたのは非常に珍しいのではないだろうか。
もしも俺が浮かれているように見えるのだとしたら、そのあたりの達成感やら何やらも少なからず作用していると思われる。
そんなことを、考えるでもなしにぼんやり思っていると――
携帯電話が、再び、鳴った。




