⑧決着
「べつだん、難しい話ではない。五分の条件で、我があやつを討ち倒すだけだ」
ついさきほどまで居座っていたシティホテルにおいて、おかわりのハンバーグをむさぼり喰らいながら、トラメはしゃあしゃあとそんな風に言ってのけたのだった。
「五分の条件って……でも、あいつはお前より格上の相手なんだろ」
「本来ならば、そうだ。グーロが、バイコーンなどに勝てる道理はない。おたがいが《風》と《地》の属性であり相克の関係もないのだから、その格付けは絶対だ」
相克?……よくわからないが、アクラブやトラメは水が苦手であるとか、そういう類いの話だろうか。
なるほど。相手にそういう弱点が存在するならば、格下の幻獣にも勝機が生まれるのかもしれない。
「いや、だけど、そういう弱点も存在しないなら、なおさらお前に勝ち目はないんだろ?」
「勝ち目は、ある。というか、あのバイコーンよりも、我のほうが、地力は上だ」
「何でだよ? さっぱり意味がわからねえぞ?」
「……それが如何なる理によって生じるものなのかは、我にもわからぬ。わかるのは、我があやつよりも高い力を有している、ということだけだ」
何でもないことのように言いながら、トラメはつけあわせのマッシュポテトを頬張った。
十人前のディナーを完食した直後であるのに、ものすごい食欲だ。
「あのバイコーンには、他者の力量を測る目がそなわっていないようだな。ゆえに、グーロなど下等の種族と侮っておる。その慢心につけいれば、五分の勝負を挑むことも可能であろう。五分の条件ならば、我は負けぬ」
トラメは、グーロにしては妙に強い、と、ずいぶん前からあちこちで取り沙汰されていた。
七星も、アクラブも、果てには敵方のキャンディスのやつさえも、その不可思議な強さには注目していたのだ。
それはもしかして、契約者との親和力が原因なのかもしれない、という話だった。
契約者――つまりは、俺だ。
俺と、トラメの、親和力。それがいったい何なのか、どういう意味を有するのか、魔術師ならぬ身の俺には、ちっともわからない。
ただ、七星のやつなんかは、その親和力こそが、『名無き黄昏』との闘いにも影響を及ばすかもしれない、なんて言っていた。
アクラブは、グーロとコカトリスごときにギルタブルルが倒せるのかと、ずいぶん不審そうにしていた。
キャンディスは、その一点だけで俺とトラメに執着し、仲間になれよとか馬鹿げたことを言いだした。
そして……そうだ、あの包帯野郎、憎き『ダブル・ゼータ』である。
あいつも、俺とトラメの親和力だかに注目して、わざわざ接近してきた輩なのだ。
(あなたは、トラメを愛していますか?)
(あなたは、磯月湊を愛していますか?)
くそ。
よけいなことまで思い出してしまった。
「おい。本当に勝算はあるんだな、トラメ?」
俺が呼びかけると、トラメは実にうるさそうな顔つきで見返してきた。
まださきほどの醜態を忘れられずにいた俺は、ひるみそうになる気持ちを抑えて、トラメに詰め寄る。
「お前があいつより強いってんなら、それでいい。何せお前は、色んなやつからお墨付きをいただいた、規格外に強いグーロであるみたいだしな。……だけどお前、まさかまた自分の生命を削ってまで闘うつもりなんじゃないだろうな?」
「馬鹿か、貴様は? どうして我が見ず知らずの人間を救うために、己の身を危うくせねばならぬのだ? 現し身を砕かれても、再生の試練に耐えればまた百年ののちに蘇ることはできるが、生命の火を燃やし尽くせば、魂そのものを失ってしまうのやもしれぬのだぞ?」
「だけど、お前はこの前、一日に二回もそんな無茶な真似をしでかしたじゃねェかよ?」
「……だからそれは、契約者の身を守るためであろうが? 契約者を害されるのは、隠り世の住人にとって大いなる恥であり不名誉であり……」
「わかったわかった。そこまで言うなら、信じるよ。そういえば幻獣は嘘をつけない生き物なんだとかって言ってたもんな」
「ふん。……あとは、いかにして五分の条件に持ち込むか、だ。たとえ地力でまさっていても、相手方に契約の力を使われては台無しだからな。……まあ、誓約でおたがいに契約の力を使わぬと宣言すれば、それでよかろう」
*
そうして、この先端は開かれた。
すべてはトラメの思惑通り――で、あるはずなのだ。
トラメは自分で言っている通り、見ず知らずの相手を助けるために、自分の身を危険にさらすようなやつではない。
だから、トラメの言葉を疑う理由はどこにも見当たらないのだが――それでもやっぱり、へらへらと笑っていられるような気持ちにはなれなかった。
「まったくもって、くだらぬな。このような真似をして何が楽しいのだ、貴様は」
着衣としての役目を失ったぼろきれを足蹴にしながら、トラメがつぶやく。
「同種喰いは他者の血を求め、淫魔は他者の精気を求む。それは生まれついての性なのだろうが、そもそも己以外の存在などに執着するその性根が理解できぬわ」
「ふうん? まあ、喰らうことにしか興味のないグーロには理解できないのかもしれないねェ。……だけど、そんなお前が快楽に酔いしれてむせび鳴く姿を想像するだけで、私はたまらない気持ちになってくるよォ」
女怪の口から、異様に巨大化したピンク色の舌が、でろりと垂れた。
その気色の悪い肉の塊が、まるで生あるもののように蠢き、虚空をなめ回す。
「お前はいったい、どんな顔をして、どんな声で鳴くんだろうねェ? その精気が最後の一滴までなめつくされるまで、私を楽しませておくれよ、グーロ……」
「……貴様の戯言もいいかげんに聞き飽きた。そろそろ塵に還れ、淫魔よ」
トラメの足が、石畳を蹴る。
フェイントも何もない。トラメはただ一直線に、女怪へと跳びかかった。
「はンッ!」
侮蔑に満ちた声をあげて、女怪は真上に跳躍する。
トラメはその足の鉤爪でガリガリと石畳を削って急停止して、右腕を振り上げた。
「我が同胞たるネヌファの子らよ。我に害なす敵を斬り裂け!」
「ネヌファの子らよ、我は汝らの同胞なり!」
びゅうっと一陣の風が吹き抜け、そして消えた。
落下してきたバイコーンが、トラメの頭上に蹄を振り下ろす。
トラメはすぐさま身をひるがえそうとしたが、そのむきだしの右肩を、背後から女怪につかまれてしまった。
トラメの身体が、固い石畳に組み伏せられる。
「《風》は種子にして、《地》は苗床。奇遇なことに、私たちは同じ精霊王のもとから生まれてるんだよねェ。それなら格でまさる私にお前の精霊魔法なんぞが効くわけないだろォ?」
どすん、と巨大な蹄が、トラメの背中を踏みつけた。
トラメは石畳に両腕をついて、それをはねのけようと試みたが、バイコーンの蹄は微動だにしない。
「無駄なあがきはおよしよ、グーロ。しょせんグーロなんざが私に逆らおうってのが間違いなんだからさァ」
動けぬトラメに、バイコーンが顔を寄せる。
そして。
右の指先が、トラメの胸もとに。
左の指先が、甚兵衛の下衣の内側へと、するりとすべりこみ。
バイコーンの顔が、喜悦に引き歪んだ。
その軟体動物みたいに肥大した舌先が、トラメの頬を、なめ回す。
「さあ、可愛い声で鳴いておくれよォ……この世で最高の快楽を与えてあげるからねェ……」
バイコーンの指先が、トラメの華奢な身体をまさぐり始める。
そのおぞましい光景を目の当たりにした瞬間――俺のこめかみのあたりで、何かの切れる音が聞こえたような気がした。
「あかんて、湊くん! 手を出したらあの娘は死んでまうんやろ?」
若菜さんの手が、俺のえり首をひっつかんでいた。
俺は完全に無意識のうちに、キツネたちの織り成す結界から足を踏み出そうとしてしまっていたらしい。
「……貴様は《火》の精霊王に謁見を賜ったことがあるか、バイコーンよ?」
そんな俺の耳の中に、まったくふだん通りのトラメの声が飛びこんでくる。
「我が古き友にして偉大なる精霊王、炎のウルカヌスよ、汝の忠実な友に、ひとしずくの憐憫を」
「ぎゃあああああああああッ!」
どこからともなく噴きあがった真紅の炎が、女怪の顔面を灼く。
トラメはすかさず身を起こし、女怪の腹を蹴って、距離を取ろうとした。
「おおおォのおおォれええェッ!」
そこに女怪が、ねじくれ曲がった角を振り下ろす。
「ふん」とトラメは左手の鉤爪を一閃させ、バイコーンの右の角を、叩き折った。
さらに、そこから右足を旋回させて、女の左脇腹から右の肩までを、逆袈裟斬りの格好で、えぐりぬく。
天女の羽衣めいた薄物が闇に舞い、鮮血が、しぶいた。
「馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿なァッ! 何だお前の、その力はッ!」
血まみれの胸もとをかき抱きつつ、女怪がよろよろと後ずさる。
「だから何べんも言うたであろう。我は貴様よりも強大な力を有しておるのだ」
トラメの全身に浮かんだ呪術的な紋様が、いよいよ鮮やかに黄金色の光を放っている。
いっぽう、銀色をした女怪の紋様は、明らかに光を弱めていた。
「五分の条件ならば、貴様なぞに負けはせぬ。百年の眠りを悔恨の念とともに過ごすがいい」
トラメが、左腕を振りかざす。
右の角を失った女怪は右腕でその攻撃を受け、また闇に鮮血が飛び散った。
黒い蹄が、トラメの胸もとに繰り出される。
トラメは、ひらりと跳びあがり、今度は右足の鉤爪で、女怪の顔面を引き裂いた。
女怪は苦悶の絶叫をあげて、背後の闇へと逃げまどう。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だァ! こんなことがあっていいわけがないッ! グーロなんぞが、私よりも強い力を持っているなんてェ……!」
「策が尽きたのなら、おとなしくその首を引き渡せ、バイコーン。誓約は成されたのだから、貴様の現し身が砕かれるまで、この闘いは終わらぬ」
「くそォォォォォッ! ふざけるなよォッ、グーロごときがァァァァァッ!」
バイコーンは血に濡れた咽喉をのけぞらして、天に吠えた。
その傷ついた漆黒の肉体が――青白い、不気味な燐光に包まれ始める。
俺は。
無意識のうちに、驚愕の声をあげそうになってしまった。
ゆらゆらと燃える、凍てついた炎――自分自身を灼く断罪の火にも似た、青白い破滅の光。
あの不気味な輝きを、俺は知っている。
トラメは、忌々しげに「ちっ」と舌を鳴らした。
「貴様、正気か? 現し身を守るために隠り身を燃やすつもりなのか?」
「はンッ! お前なんぞに現し身を砕かれるぐらいなら、ちっとばっかり魂を炙られたほうがまだましってもんさァ!」
狂気をおびた、女怪の哄笑。
やっぱり、そうだった。
あれは、隠り世の住人が自分の生命を燃やして得る、炎だ。
ラケルラが、何度となくそれを行使し、一ヶ月が経った現在もその爪痕から逃れられずにいる――幻獣にとっては、禁忌の力の解放なのだ。
「失った力は、お前とご主人の魂で贖わせていただくよォッ! お前の精気を、一瞬で喰らい尽くしてやるゥッ!」
バイコーンの身体が、肥大化していく。
妖艶な肉体が醜く膨れあがり、その正体をさらそうとしていた。
左右の腕が石畳に降ろされて、その先端が蹄と化していく。
血に濡れた顔の鼻から下だけがめきめきと前方に突出していき、めくれあがった唇からは、四角い臼状の歯がずらりとのぞいた。
首が太く、長く伸びていき、ねじくれ曲がった角もさらに大きく膨張していく。
そうして、そこに現れたのは――水牛のような角と白銀のたてがみを持つ、巨大な黒馬の化け物だった。
普通の馬よりも、ふたまわりは大きい。
その肌はぬめぬめと漆黒に照り輝いており、銀色の双眸は青白い鬼火と化している。
四肢にも、首にも、胴体にも、魁偉な筋肉が盛り上がっており――そして、馬の姿であるにも関わらず、その胸もとには人間みたいな乳房がでろりと垂れ下がっており、下腹が、子どもでも孕んでいるかのように膨れ上がっている。
邪悪だ。
邪悪で、淫猥な、黒馬の化け物だ。
その醜悪な肉体に青白い破滅の炎をまとわりつかせながら、怪物は後ろ足の蹄で石畳を掻いた。
白い石片が、夜闇にパッと舞い上がる。
『グウウウゥゥゥ…………ロオオオォォォォッ…………!』
びりびりと大気を震わせるような、思念の咆哮。
怪物は、大銅鑼を連打するような音色でいななき、トラメに向かって突進した。
「……愚かだな、バイコーン」
トラメは、動かない。
その、怪物と比べてはあまりに小さな白い身体が、黒い蹄に踏みにじられる――かに見えた瞬間。
黄金色の閃光が、爆発した。
そのまばゆさに網膜を灼かれながら、それでも俺は、はっきりと見た。
黄金色の光に包まれたトラメの身体が、あわやというところで跳躍し、怪物の襲撃を避け、その頭上に鉤爪を振り下ろす姿を。
そして――
その左腕に生えた鉤爪が、怪物の額に触れる刹那――
黄金色であった閃光が、ほんの一瞬だけ、怪物と同じ破滅の青色へと変じるのを。
『ギイイイィィィィャァァァァァァッ!』
断末魔の絶叫とともに、怪物はその場に崩れ落ちた。
折れた角が闇に舞い、狐の石像を一体コナゴナに破砕してから、石畳に突き刺さる。
怪物の頭の上半分が、消失していた。
腐った果実のように砕け散ったその傷口からは、鮮血ならぬ燐光がこぼれ落ち、巨大な口の中から伸びたピンク色の舌が、無念そうに蠢いている。
『よ…………く…………も…………』
そうして、黒馬の怪物バイコーンの巨体は、さらさらと崩壊して、黒い塵に還っていった。
「ふん。魂が灼きつくされる前に現し身を砕いてやったのだから、感謝するがいい、黒馬よ」
その死に様を、見届けた後。
トラメもまた、がくりとその場に膝をついた。
全身に浮かんだ紋様が消えていき、黄金色の光も消えていく。
その、人間の形状に戻った左腕が、苦しそうに胸もとをかきむしるのを見て、俺は今度こそその場から飛び出した。
「トラメ! 大丈夫か!」
トラメはまだ、アルミラージに潰された心臓が、完全には回復していないのである。
それに、結界で灼かれた右腕はだいぶん復調してきたという話であったのに、今回の戦闘でもそちらの腕が使われることはなかった。
そんな状態で、格上のバイコーンをきっちり倒すことができるなんて……本当にお前は大したやつだよ、トラメ。
だけど。
だけど、お前は――
「馬鹿野郎! お前、また自分の生命を削ったな!」
俺はほとんど跳びかかるような勢いで、トラメの肩をわしづかみにしてしまった。
甚兵衛がぼろきれと化してしまったので、むきだしの白い肌が――熱い。
「……しかたあるまい。先に禁忌を犯したのは、バイコーンだ」
黄色く光る瞳が、うるさそうに俺を見る。
かつてのラケルタのように、全身の皮膚がひび割れて、ぽろぽろと崩れ落ちたりは――していない。
ただ、その目の光が、ふだんより少しだけ弱々しい。
「……あれしきの力を使ったところで、我の魂に負担はない。が、使わなければ、我のほうが塵と化していただろう。まったく愚かなバイコーンめが、腹の減る真似をさせおって」
「トラメ……この馬鹿野郎!」
「何が馬鹿だ? ならばこの現し身を素直に砕かれていたほうが良策だったとでもぬかすつもりか、貴様は?」
「そんなわけ――」
俺はたぶん、自分で思っていた以上に、取り乱してしまっていたのだ。
何故だろうな。確かにトラメは自分の生命を燃やしてしまったようだが、それもほんの一瞬のことで、ラケルタやバイコーンほど無謀な真似をした、という様子でもない。必要最低限のリスクで敵を撃退したのだろうな、と思う。
俺の理性は、しっかりその事実を把握していたというのに。
俺の理性のおよばない部分が――俺を激しく、惑乱させてしまったのだ。
その結果として。
俺は、トラメの小さな身体を抱きすくめてしまっていた。
「そんなわけねえだろ、馬鹿野郎! この――大馬鹿野郎!」
腕や、胸や、腹や、顔に、トラメの熱が伝わってくる。
金褐色のやわらかい髪が、鼻先や頬をくすぐって。
草原に咲く花のような、少し甘くて清涼な香りが、胸の中に流れこんでくる。
こんなに細くて、華奢なのに。
なんて力にあふれた身体だろう。
こいつらは、魔法の力でかりそめの生を得ているだけなのに――何よりも力強く、はっきりと、鮮烈なまでに、ここに在る。
この存在を――
この存在を、俺は――
「だから、どうして我が馬鹿なのだ。貴様のようなうつけ者に馬鹿呼ばわりされるいわれはない」
もごもごと、俺の胸のあたりで、トラメがちょっと息苦しそうに文句を言っている。
「いいから貴様は、さっさと食事の準備をしろ。この一刻足らずで、腹の中が空っぽになってしまったわ」
そうしてトラメは、張りつめていた力をふっと抜いて……俺の胸に、もたれかかってきた。
まるで、か弱い女の子みたいに。




