美羽とラケルタ①
「浦島さん……」
死んでは、いない。うめき声をあげているのだから、それは確かだ。
しかし、ほんのついさっきまでにこにこと愛想よく微笑んでいたその顔は、苦痛と恐怖に引き歪み、まるで別人のような形相になってしまっている。
その口から吐きだされた鮮血が、絨毯に赤黒い池をつくっている。尋常な量ではない。骨ばった指先が自分の咽喉もとをわしづかみにして、ときおり、ビクリ、ビクリとかぼそく震えた。
「……宇都見、救急車を呼べ!」
怒鳴ってから、浦島氏のもとに駆け寄ろうとする。その腕を、背後からつかまれた。
「近づかぬほうが賢明だぞ。ギルタブルルの毒だ。あの血が皮膚に触れれば、貴様も同じ苦しみを味わうことになる」
俺は振り返り、グーロの白い顔をおもいきりにらみつける。
「どういうことだ! こいつは、お前の仲間の仕業なのか、グーロ?」
「……ギルタブルルは確かに隠り世の住人だが、別に仲間だというわけではない。貴様は現し世の存在すべてと仲間なのか、人間?」
「人間人間うるせェよ! 俺の名前は昨日教えてやっただろうが!」
「……貴様だって、我をグーロと呼ぶではないか」
わけのわからないことを言いながら、グーロは、ふっと視線を転じる。
右手の壁に大きく口を開けて、カーテンをゆらめかせている窓のほうに。
「むこうも、こちらに気づいたようだな」
「そのバケモノは、まだこのあたりにいやがるのか?」
俺はグーロの指先を振り払い、浦島氏の無残な身体を迂回して、窓のほうに走り寄った。
広い庭と、高い塀。そのむこうに、黒い雑木林の影が見える。
その立ち並んだ樹木の間で、何者かの人影が動いている気がした。
「……磯月。十五分ぐらいで救急車は来てくれるみたい」
携帯電話で通話していた宇都見が、頼りなげな声をあげる。
「だけど、どうなんだろう? 幻獣の毒でやられちゃったんなら、人間なんかに治せるのかな……?」
遠い人影をにらみすえながら、俺はきつく唇を噛みしめる。
どうしてだ?
どうして、この人がこんな目に……
「……部屋が少し荒されてるね」
宇都見が、震える声でつぶやく。
「それに、パソコンが壊されてる……もしかしたら、石版を落札した誰かが、自分の素性を隠すために、こんなことをしたんじゃない……?」
「……クソッタレ!」
俺はわめき、もう一度グーロの顔をにらみつけた。
グーロは、さして関心もなさそうな目つきで、苦しげにうめく浦島氏の姿をじっと見下ろしている。
「おい、グーロ! お前の力で浦島さんを助けられないのか?」
「……貴様がそれを望むのならば、正しい作法のもとに、望みを伝えよ」
黄色い瞳が、冷たく俺を見る。
「ただし、ギルタブルルの毒は強力だ。癒しには、滅ぼしよりもなお強い力が必要となる。そのひとたびの望みで貴様の寿命が尽きようと恨むなよ、人間」
「……」
「それに、ギルタブルルの毒は、永き時をかけて相手の生命を吸いつくす魔の力。放っておいても、数日は生きのびよう。その間、死よりも過酷な苦痛を味わい続けることになるがな」
「それじゃあ、浦島さんを助ける方法はないってのかよ?」
俺はわめき、衝動的にグーロの胸ぐらをひっつかんでしまった。
俺の肩より低い位置で、白い顔がうるさげにしかめられる。
「この人間を救う道は二つ。ギルタブルルの存在を滅するか、もう一度ギルタブルルの針をうちこむか、だ。ギルタブルルが滅せればこの毒も滅するし、ギルタブルルの毒をうちこめば、毒は毒としての力を失う」
「……それじゃあ、こんな真似をした張本人をとっ捕まえれば、浦島さんを助けられる、ってことだな?」
林のむこうに蠢く影。その悪意と脅威に慄然としながらも、俺の腹は決まった。
「宇都見! 救急車はお前にまかせる。病院の連中には適当に言っとけ。俺は……あいつと話をつけてくる!」
「ええ? 磯月、いくら何でも、それは無謀だよ!」
「無謀でも何でも放っておけねェだろ! ……それに、グーロ、こいつはどうせそのバケモノと契約した人間のしでかしたことなんだろ?」
「であろうな。契約者の許可なく、隠り世の住人にこんな勝手な真似はできぬ」
「だったら、そのふざけた人間のほうをぶちのめしてでも言うことを聞かせてやる。宇都見、後はまかせたぞ?」
言い捨てざま、俺はグーロの小さな身体を突き放して、部屋から飛びだした。
宇都見の制止する声なんざ、無視だ。俺は、自分でもびっくりするぐらい、激しい怒りに衝き動かされていた。
いったいどういう魂胆なのかはわからないが、自分の素性を隠したい、なんていう理由だけで、罪もない人間にあんな真似をするなんて……あまりに、ふざけすぎている。そんな大馬鹿を放置しておけるわけはなかった。
バケモノ相手にケンカを売っても勝てる自信などはヒトカケラもないが、同じ人間なら、どんなやつでも、誓って、ぶちのめしてやる。
あの林の中にバケモノしかいないのなら、口先三寸で言いくるめて、何としてでもそのふざけた大馬鹿のところにまで案内させるのだ。
「……あまり勝手なことをするな、人間」
と、ようやく玄関にまでたどりついたところで、急に背後からグーロの声があがった。
ついてきていたのか。ちっとも気づかなかった。
「卑小な人間の身でギルタブルルと相対して、無事に済むと思っているのか? ギルタブルルは我と異なり、きわめて凶暴な種族なのだぞ?」
「ふん。俺が死んだら、お前は何か困ることでもあるのか?」
「……別に困りはしない。貴様の生命が失われても、我は隠り世に引き戻されるだけのことだからな。……ただしそれは隠り世の住人にとって最大の恥であり、不名誉だ。契約も果たさぬうちに契約者を失うなどという大恥を我にかぶせる気か、貴様は?」
「知らねェよ。恥をかきたくないんだったら、せいぜい俺が殺されちまわないように祈っててくれ」
「何という……ここまで愚かで考えなしな人間だとは思わなかった」
玄関を出て、ともに庭まで足を進めながら、心底うんざりしたようにグーロはつぶやく。
「言っておくが、ギルタブルルは凶暴な上に強力な種族だ。貴様がきゃつの滅びを我に望んだとて、すべての生命力をさしだしてでも、その望みがかなうとは限らぬのだぞ?」
「お前に泣きつくつもりはねェよ。俺の狙いは、そのバケモノを操ってる人間だけだ」
高い石塀が、眼前に立ちはだかる。俺の身長より高いぐらいの塀だが、有刺鉄線やガラス片が設置されている様子はない。俺は簡単によじのぼることができたし、グーロはさらに楽々と猫のような身軽さでその障壁を乗りこえてしまった。
「たしか、このあたりだったよな……」
屋敷を振り仰ぎ、位置を確認する。
何だか荒れ放題の、薄暗くて陰気な雑木林だ。手つかずの自然はおおいにけっこうだが、そこかしこに空き缶やら雨ざらしの雑誌などが散乱しているのが、目障りでしかたがない。
俺がグーロの立場だったら、「これだから人間は……」と舌打ちのひとつもしていたところだろう。こんなザマだからバケモノどもに「愚かしい」とか言われてしまうんだぞ、人間よ。
「グーロ。そのギルなんとかってバケモノは、まだ逃げてなさそうか?」
「ふん。我に泣きつくつもりはないのではなかったのか?」
「泣いちゃいねェよ。それぐらい教えてくれたっていいだろう」
「……隠り世の住人の気配は、まだ強く漂っているな」
案外素直に応じてくれながら、俺よりも先に林の奥へと足を踏み入れていく。こいつに靴を履かせているヒマなどなかったのだが、裸足で痛くはないのだろうか?……元が猫なら、大丈夫か。
「ところで、人間よ、ひとつだけ聞かせておいてもらおうか」
バサバサと茂みをかきわけながら、グーロがつぶやく。
その声の響きに、俺は何がなしハッとした。
「貴様は、どうあっても我との契約をなかったことにしたい、のだな?」
「うん? ……いや、どうあってもって言われちまうと、そうとも言いきれないけどな」
「何だその煮えきらぬ答えは? 貴様はそのためにこそ、このような場所にまで出むいてきたのではないのか?」
「ああ、まあ、そりゃあそうなんだけどさ。俺はできるだけ生命を粗末にしたくないだけなんだから。そんな自分の都合を浦島さんにゴリゴリ押しつける気にはなれなかったな。……だいたい、お前だって俺みたいな魔術師でも何でもない小僧とはスッパリ縁を切っちまったほうがせいせいすんだろ?」
俺はそう言ったが、グーロのやつは振り返ろうともしなかった。
その小さな背中に強い拒絶感を感じてしまい、俺はわけもなくイライラとする。
「何だよ? 文句があるならハッキリ言ったらどうだ? ていうか、こんなところまでつきあってくれなんて一言も言ってねェんだ。ギルタブルルとかいうバケモノがおっかねェなら、屋敷に戻って煮干しでもかじってろよ」
「ほう……何の力も持たない貴様が隠り世の住人を相手にして、本当に生きて帰れると思っているのか?」
グーロが立ち止まり、ようやく俺を振り返る。
その瞳が、黄金色の炎を噴きあげていることに気づき、俺は思わず息を飲んでしまった。
「救い難いうつけ者だな。……貴様のようなうつけ者は、少しばかり痛い目を見たほうがよいのかもしれぬ」
「お、おい、グーロ……?」
風もないのに、グーロの長い髪がざわざわとゆらめきはじめていた。
その小さな身体に満ちた生命力が、異様に内圧を高めていくのが感じられる。
それと同時に、グーロの顔に奇怪な紋様が浮かびはじめた。
いわゆるトライバルと呼ばれるような、呪術的な紋様だ。
「うわっ!」
そうと見てとった瞬間、グーロは肉食獣のような勢いで、俺に、襲いかかってきた。
息が止まるほどの強さで胸もとを突き飛ばされ、俺は草むらに引っ繰り返ってしまう。
さらにグーロは、俺の腹の上にまたがって、咽喉もとをぐいぐいと圧迫してきた。
「暴れるな、うつけ者め……」
低く、おし殺した声。
殺気に満ちた、黄金色の双眸。
……殺される?
俺は一瞬でパニックに陥ってしまい、死に物狂いでグーロの腕をつかんだが、どんなに力をこめようとも、その細っこい腕は鋼鉄のようにビクともしなかった。
「暴れるなと言うておるのだ!」
鋭く叫ぶや、グーロが全身でのしかかってくる。
もう駄目だ!
走馬灯を見る猶予さえ与えられず、俺は、死を確信した。
が。
どこにも痛撃は炸裂せず、その代わりに、何か熱くてやわらかいものが、俺の目と鼻と口をふさいできた。
野生の花みたいに甘い香りが、ふわりと鼻孔に侵入してくる。
えーと?
グーロ、お前はナニをしてるんだ?
「……たわけが。本当に死にたいのか、貴様は?」
ぶっきらぼうに言い捨てて、俺の頭を抱きすくめていたグーロが身を起こす。
文句を言おうとした俺は……再び愕然とすることになった。
呪術的な紋様の浮かんだグーロの顔の、右半面が、真っ赤な鮮血に染まってしまっていたのだ。
「チェッ! かすっただけかァ。意外と素早いネ、大喰らい!」
悪意に満ちた声が、どこからともなく降ってくる。
グーロは、俺の腹の上にまたがったまま、黄金色の双眸を頭上にさしむけた。
同じ方向に目をむけて、俺は息を飲む。
雑木林の梢の陰に、青い鬼火のような眼光が燃えていた。
「ずいぶんなご挨拶だな。これが貴様の契約者の望みなのか?」
「ハンッ! アンタこそいったいナニをしに来たのサ? これ以上痛い目にあいたくなかったら、とっととココから出ていきな、大喰らい!」
ぞっとするような嘲弄と敵意をはらんだ声。
それが響くと同時に、何か黒くて異様な形をした影が、再び俺たちに襲いかかってきた。
「ふん」
しかしグーロは臆した様子もなく、右腕を無造作に振り上げる。
ガキンッ、と硬質の音色がはじけ、影は、草むらに降り立った。
その姿を見て、俺はまたまた驚きに息を飲む。
その襲撃者は、小柄なグーロよりももっと小さい、本当にまだ年端もゆかぬような幼い女の子の姿をしていた。