⑦誓約
「……こんなところに呼びつけるなんて、いったい何なのさ、お前たちはァ?」
夜。
バイコーンは、数時間前と変わらぬ妖しい笑みを浮かべながら、俺たちの前に姿を現した。
高い石段の上にある、寂れたお稲荷さんの境内である。
小さなお社に、狐の像が二体。それに鳥居と手水舎ぐらいしかない、小ぶりな神社だ。
もちろん、俺たちの他に人影はない。
若菜さんに、人払いの結界とやらを張ってもらったのだ。
「べつだん、罠を仕掛けてる風でもないようだねェ」
余裕しゃくしゃくの表情で、バイコーンはゆるりとあたりを一瞥する。
その艶かしい漆黒の腕は、しっかりと契約者の腕をからめとっており、シルエットだけなら、仲睦まじい男女にしか見えないだろう。
しかし、弐藤末継の顔は相変わらず木偶人形のように弛緩しており、女怪が手を放したらそのままぐしゃりと石畳の上に崩れ落ちてしまいそうだった。
「よくぞ逃げずにやってきたな。重畳なことだ」
甚平姿のトラメが、一歩進み出る。
バイコーンは、肉感的な唇を吊りあげて、にたりと笑った。
「そりゃあまあねェ。これでお前たちが縁切りしてくれるって言うンなら、こっちにとっても悪い話じゃァないからさァ。……私とご主人は、誰にも邪魔されず睦まじい関係を続けていきたいだけなんだよォ」
ぎりっと若菜さんが奥歯を噛み鳴らす。
しかし、トラメの作戦を邪魔するような短慮は起こさず、肩を震わせて瞋恚に耐えている。
「……この女は、退魔を生業とする古き血の一族だ」
「知ってるよォ。何せご主人の大事な姉君なんだからねェ」
「……この青二才は、魔術結社に貴様の処分を任された身の上だ」
「あァ。魔術のまの字も知らないような坊やなのに、難儀なこったねェ」
「これから貴様に提示する条件を承服すれば、この者どもはもう貴様の行く末に関与しない、と言うておる。……それで間違いないな、貴様たち?」
「……ああ」
「お前にまかせるよ、トラメ」
俺と若菜さんは、肚をくくっていた。
すべてを、トラメの才覚にまかせよう、と。
「ふン。お前がきっちり約束してくれたからには、信じるよ、グーロ。私たちは、現し世の住人と違って、虚偽の言葉は吐けない存在だからねェ」
バイコーンは、満足そうに笑っている。
その約束を餌に、俺たちはこいつをこの決戦の場まで引きずりだすことに成功したのだ。
弐藤流も、魔術結社も、この一件からは恒久的に手を引く。……それは、じっくりと主人の魂を貪り尽くしたいバイコーンにとって、とても甘美な餌だったのだろう。
「……我の条件を提示するその前に、この青二才から、貴様に言いたいことがあるそうだ」
トラメの言葉を受けて、俺は、バイコーンに呼びかけた。
「なあ、その末継さんを正気に戻して、俺と話をさせる気には、なれないか? 魔術結社の連中は、問答無用でお前を処分するべきだって言い張ってるけど、弐藤流の血筋だっていう事実をうまく活かして説得すれば、お前たちも、俺やトラメみたいに存在を許される可能性が、あるはずなんだ」
「……魔術師どもの顔色をうかがって生きのびるなんて、私は御免だねェ。そんな窮屈な思いをしてまで現し世に居残る意味なんて、どこにもありゃしないじゃないかァ? 私はもう、このご主人の魂さえ存分に味わえるんなら、後は何にもいらないんだよォ」
銀色の瞳を光らせて、女怪は淫靡な笑みを浮かべる。
俺は小さく息をつき、トラメのほうに目をやった。
これで――もう、バイコーンと末継氏がともに生き永らえる道は、絶たれた。
後は、末継氏の魂を死守するしかない。
「それでは、我からの条件を提示しよう」
トラメは、落ち着き払った声で、言った。
「五分の条件で、我と手合わせをせよ、バイコーン。それで貴様に生命が残ったときは、貴様は永遠の自由を得る」
「五分の条件で――手合わせ?」
バイコーンの目が、不審そうに細められる。
「バイコーンの私と、グーロのお前が、五分の条件で、手合わせ。……お前は今そう言ったのかい、グーロ?」
「それ以外にどう聞こえたというのだ、貴様は?」
「はぁン……そりゃあ駄目だねェ。お話にもならないよ。そんな戯言を聞かされるんだったら、こんな場所まで出向いてくるんじゃなかったよォ」
「何故だ? バイコーンである貴様が、グーロである我を怖れる道理はあるまい?」
「だから、だよ。五分の条件じゃあ、お前に勝ち目なんざ生じるはずもない。てェことは、何か私を陥れる算段があるってことじゃないかァ?」
「算段など、不要だ。我は、貴様よりも強大な力を有しているからな」
「そんな挑発に乗りゃあしないよォ。確かに隠り世の住人は虚偽の言葉を吐けないが、現し世の住人てのは、平気で相手を騙くらかすからねェ」
と、バイコーンの目が、俺と若菜さんに転じられる。
「そっちの坊ちゃんには何の力もなさそうだから、やっぱりご主人の姉君がその役割を担うのかァい? まったくご苦労なこったねェ。だけどそんな見え見えの茶番につきあってられるほど、私はひまじゃあないんだよォ」
「まあ、貴様ならばそう言うと思うておったわ。バイコーンより強大な力を有するグーロの存在など、なかなかに信じられることではないからな」
そう言って、トラメはさらに足を踏み出した。
用心深く距離を取ろうとするバイコーンにはかまわず、境内の中心にまで進み出る。
そして。
トラメは、左の拳の皮膚を噛みちぎり、その手をバイコーンへと差しのばした。
「ならば、誓おう。……グーロのトラメは、おたがいに契約の力を使わず、おたがいの契約者を傷つけることなく、余人の助力を得ることもなく、五分の条件で、どちらかの現し身が砕け散るまで、ニトウスエツグに召喚されしバイコーンと闘うことを、ここに誓約する」
バイコーンの眼光が、闇の中であやしくゆらめいた。
その口もとは、嘲るような笑みの形で固まったままだが、たぶんあいつはもう笑っていない。
考え、悩んでいるのだろう――トラメの発した言葉の意味を。
「私たちは、虚偽の言葉を吐くことができない。……その上、誓約を結んでしまえば、この身は言葉に縛られることになる。それは絶対の理さね」
「よけいな言葉をさしはさむな。誓約が成されぬではないか」
「あァ。もう一度、誓約の言葉を聞きたかったんだよォ。どこかに落とし穴があったら、たまらないからねェ」
バイコーンの、妙に生々しいピンク色をした舌の先が、何かをこらえかねたように、唇をなめる。
「さァ、もう一度聞かせておくれよォ。今度は耳をすませて、よっく聞いておくからさァ」
「ふん。……グーロのトラメは、おたがいに契約の力を使わず、おたがいの契約者を傷つけることなく、余人の助力を得ることもなく、五分の条件で、どちらかの現し身が砕け散るまで、ニトウスエツグに召喚されしバイコーンと闘うことを、ここに誓約する」
バイコーンは、喜悦の笑みを浮かべながら、木偶人形のような主人をひきずるようにして、トラメのほうに近づいていった。
ぺたり、ぺたりと石畳を歩きつつ、左手の甲をぶつりと噛み裂き、血に濡れた指先をトラメに差しのべる。
おたがいの血がからみあい、石畳にしたたり落ちた。
「ニトウスエツグに召喚されしバイコーン、グーロのトラメの誓約を承認す。……お前はとんだうつけ者だねェ、グーロ! こんなうつけ者を見たのは初めてだよ、本当に!」
そうしてバイコーンは「ぎゃはははッ」と哄笑を爆発させ、大事な主人の背中を荒っぽく突き飛ばした。
崩れ落ちそうになる弟の身体を、すんでのところで、若菜さんが受け止める。
「誓約は、成った! これで誰かがこのグーロの手助けをしようとすれば、グーロの現し身は砕け散ることになる! お前は馬鹿だよ、大馬鹿のグーロだよッ!」
「ほざけ。我は、貴様などには負けぬ」
「うふふふふ。お前は本気でそう考えているんだねェ? そう言えば、お前は私より強いと言いきっていたものねェ。隠り世の住人は虚偽の言葉を吐けないんだから、お前は本気でそう思い込んでるってことなんだねェ」
今までのなよやかな動きが嘘であったかのように、バイコーンは俊敏な身のこなしで後方に引き下がった。
トラメは左の拳をぺろりとなめてから、履いていた雪駄を遠くに蹴り飛ばす。
「これまでにさまざまな魂を吸いつくしてきた私だけど、グーロなんかを喰らうのは初めてのことさねェ。前菜としては、申し分ないよォ……あの可愛らしい契約者が見ている目の前で、お前の精気を吸い尽くしてやるッ!」
「ふん。貴様は己の契約者の魂をむさぼることができれば、それで満足なのではなかったか、バイコーン」
「もちろんご主人の魂は私のもんさッ! だけどその前に、お前のことをしゃぶりつくしてやるよォ……」
女怪の闇の色をした肌に、銀色の紋様が浮かびあがっていく。
トラメの白い肌には、金色の紋様が渦を巻いていく。
俺は、弟さんの身体を抱きすくめる若菜さんの腕を、軽く引いた。
「若菜さん、もうちょい下がりましょう。流れ弾に当たるだけで、死ねますよ?」
「ああ、うん……わかっとるよ。大丈夫や」
若菜さんは、ぼんやりと虚空に視線を漂わせている弟の身体をひきずって、お社の前まで引き退いた。
そうして、弟のぐんにゃりとした身体をそっと横たえてから、何枚かの呪符を引っ張りだす。
「急ぎ、律令の如くすべし!」
四枚の白い呪符が、四匹の白い子狐に、化けた。
白い毛皮と、黒い瞳。朱色の前掛けをつけた実に愛くるしい子狐たちが、ふわふわの尻尾を振りながら、俺たちを囲むように立ちはだかる。
「すげえ。……ほんとに妖術使いみたいですね?」
「せやから、陰陽師やっちゅうに。……末坊かて、途中で修行を投げださんかったら、うちなんかよりよっぽど立派な陰陽師になれたはずやのにな……」
若菜さんのつぶやきが、ガキンッという硬質の音色にかき消される。
闘いが、ついに始まったのだ。
トラメの左腕は、金色の獣毛をびっしりと生やし、その先端から、鋭い鉤爪をのぞかせている。
バイコーンは、その両足が、黒くて魁偉な牛か馬のような形に変化している。
そして――さらなる異形が、現出した。
女怪の豪奢な銀髪に包まれた頭から、二本の巨大な角が生えのびてきたのだ。
みしり、みしりと頭蓋骨のきしむ音が響き、真っ黒で、ぬらぬらと照り輝く、水牛みたいに湾曲した角が、二本……左右のこめかみから、微量の血をしたたらせつつ、生えのびてくる。
獣の角に、獣の足。
それはまさしく悪魔のような異形であり、地獄のような禍々しさだった。
「ふん」
トラメは怖れをなした気配もなく、勇猛にその異形へと跳びかかっていく。
鋭い爪と巨大な角が闇に交錯し、青白い火花を飛散させた。
「ぎゃははははッ! か弱いよ、グーロ! グーロなんぞがこの私にかなう道理はないのさッ!」
怪物は再び哄笑し、地に降り立ったトラメめがけて、右の足を振り上げた。
巨大な蹄に覆われた足の先が、頭部をかばったトラメの左腕を打つ。
その一撃でトラメの小さな身体は吹っ飛ばされ、五メートルばかりも石畳を転がった。
さらに、怪物はトラメを追って跳躍する。
トラメは横合いに転がって逃げ、黒い蹄は、石畳を粉砕した。
「……これでは、ちと分が悪いか」
低い声でつぶやく。それと同時に、トラメの両足も獣のそれへと変化した。
しかし、大きさまでは変じておらず、ただ甚兵衛のすそからのぞく足の先が金褐色の毛皮に包まれただけだった。
「うふふふふ。あまり隠り身をさらしてしまうと、力は上がるぶん消耗が激しくなってしまうものねェ? できればそれ以上は醜い本性をさらすんじゃないよォ、グーロ? 見物人のお楽しみが減っちまうからねェ」
女怪が不気味に笑いながら、再び跳躍する。
トラメは、それを上回るスピードで跳躍し、より高い位置から、相手の頭上に鉤爪を振り降ろした。
だが、またもや巨大な角にはばまれてしまい、無為に青白い火花を散らせる。
「ははン……」
女怪は空中で身をひねり、すらりと長い右の腕を、トラメの左肩のあたりに伸ばした。
トラメもまた器用に身体をねじって、女怪の腕から逃げようと試みる。
いまだ人間の形状を残している女怪の指先は、それでも執拗にトラメを追い、ついにその衣服のえりもとをひっつかんだ。
トラメは、獣の足で、女怪の角を蹴り飛ばす。
びりっとか細い音をたてて甚兵衛の生地が裂け、両者の身体は、遠く離れた場所に降り立った。
「……何のつもりだ、貴様?」
ぼろきれと化した甚兵衛の上衣を、トラメが煩わしそうに引き剥がす。
その下から現れたのは……スポーツタイプの下着をつけただけの、白い裸身だ。
もちろんそこにも、黄金色の紋様があちこち浮かびあがっているわけだが――それでも俺は、思わず目をそらしそうになってしまう。
「どうせ力の差は歴然なんだからねェ。現し身を砕いちまう前に、お前の精気を搾り取ってやろうってのさァ。お前だって、最期に気持ちいい思いをしたほうが心置きなく再生の眠りにつけるだろォ?」
女怪の銀色の双眸が、見間違えようもない強烈な欲情に濡れて輝いている。
そのおぞましい姿に舌打ちしたのは、トラメではなく、若菜さんだった。
「ほんまに大丈夫なんか、あんたの相方は? どんな窮地に陥っても、うちが助けに入ったら、あいつは死んでまうんやろ? ……いくらバケモンでも、あないにかわゆらしい姿をした娘っ子がなぶりもんにされる姿なんて見たかないで?」
そんな姿は、俺のほうこそ正気では見ていられない。
だけど――俺たちは、トラメを信じると決めてしまったのだ。
トラメの、作戦とも呼べぬような、作戦を。




