⑥奸計
「……ほんまに堪忍なあ。あない大泣きしたんは、子どもん頃以来やわ。さすがの若菜はんもタガが外れてもうたなあ」
安物のソファに腰をうずめ、俺はぼんやりと若菜さんの言葉を聞いていた。
何だか、非常に落ち着かない。
それは、若菜さんがシャワーをあびており、しかも、目線を転じれば、曇りガラスごしにそのシルエットが拝見できてしまう、という状況下にあったからだ。
もちろんそんな粗相はできないので、俺はシャワールームに背を向ける格好でひたすら壁を凝視している。
弐藤末継のアパートから徒歩で五分ていどの場所にある、小さなビジネスホテルの一室である。
何故にこのような場所が選定されたかというと、「作戦を練ろう」「腹が減った」「汗を流したい」という三者の要望を叶えられるのが、この場所ぐらいしか存在しなかったからだ。
……それにしても、俺以外の二人の要望が完全に個人的な欲求に基づいているように感じられてならないのは、果たして気のせいなのだろうか。
ちなみに、食事の準備には少し時間がかかるという言葉を聞かされたトラメさんは、「ならば眠る」と宣言し、ベッドで丸くなっている。
これは至極私的な事情から、俺は若菜さんのシャワーシーン以上に、トラメの寝顔などは拝見したくない心持ちである。
何だろう。本日は女難の凶日であったのかもしれない。
「ああ、さっぱりしたあ! お待たせなあ、湊くん。あんたもひと汗流したらどうや?」
「いえいえ。俺はけっこうでございます」
ガラス戸を開けた気配がして、若菜さんの声も明瞭さを増した。
シングルルームしかない小さなビジネスホテルなので、脱衣所にはカーテンすらかかっていないのだ。ということで、俺はいっそう熱心に白い壁を見つめることになる。
「何や、律儀やなあ。あないにぶざまな姿をさらしてもうたんやから、おわびにサービスシーンぐらい拝ませてもええんやで?」
「いえいえ。とんでもございません。そのお気持ちだけで、胸がいっぱいでございます」
本当に、俺の周囲には奔放に過ぎる娘さんしか集まらないよなあ、唯一そのカテゴリから除外される八雲のやつは元気でやってるかなあ、と俺は思考を拡散させる。
自分のすぐ背後で壁も隔てずに異性が着替えをしているなんて、年頃の青少年には刺激が強すぎるのですよ、まったく。
だいたい俺は、さきほどバイコーンの邪気にあてられて、生涯最大と言っていいぐらいの不覚を取らされたばかりの身の上なのである。自然、ストイックの度合いも増そうというものだ。
「おっしゃ、オッケー! サービスタイムは終了やで? お次は作戦タイムといこかあ」
「そうですね。とにかくあのバイコーンとかいう幻獣は――」
と、安心して振り返った俺は、そのままひっくり返りそうになった。
「んん?」と小首を傾げる若菜さんに、「んん?じゃないですよ!」と思わず怒鳴りつけてしまう。
「な、何ですかその格好は! サービスタイムは終了したんでしょう?」
「何や。こんなんサービスのうちに入らんやろ」
若菜さんは、濡れた頭を大きなタオルでかき回しながら、下着同然のお姿で立ちはだかっていたのだった。
いや、上半身はセパレートタイプの胸あてで、さっきまでと何ら変わらないのだが。下半身が……下着じゃないのか、それは? 何にせよ、鍛えぬかれたおみ足も、腰のラインも丸出しで、下着と同レベルの布地面積しかありゃしないじゃないですか。
「下着やのうて、スパッツや。家ではいつもこのカッコやで?」
「ここは家ではございません!」
「せやかて、せっかくシャワーをあびたのにツナギは着れんやろ。また汗だくになってまうわ」
アスリートのような筋肉美を誇る若菜さんだが、男のようにごつい、というわけでもない。むしろ無駄肉がないぶんスレンダーで、ウエストなどは、びっくりするぐらい引き締まっている。
なおかつ、大胸筋に底上げされた胸もとや、大殿筋の発達したヒップラインなんかは、並の女性よりもボリューミーなわけで、見ようによっては、ものすごくメリハリのある女性的なシルエットである、とも言えるのだ。
しかも――風呂上りなので、若菜さんは、髪をほどいていた。
肩よりも長い黒髪が、健康的に日焼けした頬や首筋にからみついている。
格好いい、とか、凛々しい、とか、一番ふさわしいのはそんな言葉なのだけれども、ちっともセクシーなんかじゃない……なんて言える男はいないだろう。
「何やねん? あないなフェロモンの塊みたいなバケモン女を見た後じゃあ、こないな筋肉ダルマに欲情せえへんやろ。そないに気を使わんでもええんやで?」
「いやいやいや。そういう問題じゃないでしょう。俺だって石ころじゃないんですから、少しはお気づかいしてください」
「何や、湊くんて女心をくすぐるなあ。うちはまだ内心ズタズタのグズグズ状態なんやから、下手打つとその気になってまうよ?」
若菜さんがそんな恐ろしい言葉を吐いたとき、ドアが控えめにノックされた。
「はあい」と若菜さんが応じようとしたので、俺はそのあられもない姿をバスルームのほうに追いやってから、ドアを押し開ける。
「あの、こちらにお食事をお運びするよう、申しつけられたのですが……」
「ああ、おおきになあ。社長はんにも、よろしゅうに」
顔だけ覗かせた若菜さんがそう応じたが、給仕係の若者は、かなり困惑気味の顔をしていた。
まあ、しかたあるまい。シングルルームに三人もの人間が居座って、しかも注文されたメニューはディナーを十人前だったのだ。このホテルではいくらでもワガママがきく、と若菜さんは豪語していたが、それでもこんな常識外れの客たちは対応に困ってしまうだろう。
山積みにされた食糧を二台のワゴンごと受け取って、俺はすみやかに扉を閉める。
振り返ると、すやすや眠りこけていたはずのトラメが、ベッドの上で半身を起こしていた。
「お待ちどうさん。外食なんて、ひさびさだな?」
エビフライやらハンバーグやら、洋食メインのラインナップである。トラメの好みよりもちょいと味つけは濃そうだが、まあ贅沢は言っていられない。
「ほんまにこないな量を一人でたいらげられるんかいな? バケモンはやっぱバケモンやなあ」
そんな若菜さんの感慨もどこ吹く風で、トラメはぱくぱくとディナーを食し始めた。
ぞんぶんに食え。食って、さっきまでの出来事を脳裏の外に追いやってくれ。
正直に言って、俺はまだトラメの顔を正面から見れずにいる。
「さて……そんで、実際にあのバケモンと対面してみて、湊くんはどないやったんや?」
と、若菜さんに真面目な声で問われたので、俺は頭を切り替えることにした。
「そうですね。正直に言って、度肝を抜かれました。あんな風に幻獣のほうが契約者を手玉に取っている例は見たことがなかったので」
きっと本職の魔術師たちは、幻獣を手なづける手段だか法則だかをわきまえているのだろう。あいつらは完全に幻獣を手下として従えることに成功していた。
一方で、魔術の心得がない契約者としては、俺と八雲しかサンプルがない。
トラメとラケルタは……何となく隠り世の住人としてはスタンダードなタイプではないのかな、という気もするのだが。それにしても、俺にとってバイコーンの存在は衝撃的に過ぎた。
「……バイコーンとは、もともと邪淫の性なのだ。他者をたぶらかし、堕落させ、その精気を絞り取る。ギルタブルルが血を求めるように、あやつは他者の精気を求めるのだ」
と、珍しくもトラメが食事中に自分から言葉を発してきた。
ちょっと目を離したスキに、すでに三人前ぐらいの皿が空になっている。
「何とも厄介な相手だなあ。……それで、幻獣としても強力な種族なのか?」
「格で言えば、ユニコーンと同格だ。まあ、単純な戦闘能力はギルタブルルよりも若干下回るだろうがな」
なるほど。だからさっきもギルタブルルの名前が飛び出しのか。
しかし、あいつがグーロよりも強力な種族だとすると……ますますもって、厄介だ。
「本当に、かの邪神教団とかいう連中は、この世の摂理に反する魔術道具を精製したのだな。バイコーンにギルタブルル、コカトリスにグーロ……本来ならば、よほどの修行を積んだ魔術師でなければ、これらのものどもを召喚することなどかなわぬはずなのだ。あの魔術師どもを引き合いにしても、それは明らかであろう」
「ああ、アルミラージやイピリアなんかは、お前やアクラブの相手にならなかったもんな。……なあ、お前はどうしたらいいと思う?」
俺が尋ねると、トラメはポテトサラダを頬張りながら、「どうもこうもない」と言い捨てた。
「あの契約者の人間を救いたいならば、バイコーンを滅するしかあるまい。あやつの現し身を、打ち砕くのだ」
「だけど、あいつは強いんだろ?」
「それでも他に手段はあるまい。貴様はそれ以外にどのような手立てを講じようというのだ?」
トラメの瞳が、少し物騒な感じに光る。
「ひとたび現し世に喚びだれた隠り世の住人を始末するには、その現し身を砕く他ない。ならばこそ、貴様も魔術結社につけ狙われたのであろうが? 我とコカトリスの身柄を引き渡せ、とな」
「ああ……そりゃまあ、そうなんだけどよ……」
「どうせ隠り世の住人が現し身を砕かれても、その魂までもが滅ぶわけではない。ただ百年におよぶ再生の眠りにつくだけだ。それは己の消滅を望みたくなるほどの苦痛な歳月ではあるが――それでも、滅んでしまうわけではない」
何となく、内心の弱気を見透かされたような心地がして、俺は憮然と頭をかいた。
あのバイコーンは、確かに性悪そうな輩だったが、それでもあいつは一方的に召喚された身の上に過ぎない。できうるものならば、主人ともども救ってやりたかった、というのが俺の本音だ。
しかし、さしのべた手をこうまで邪険に払われてしまっては、如何ともし難い。
「……あのまま放置しておいたら、末坊は精気を吸いつくされて、死んでまうんやろ?」
と、若菜さんが思い詰めた顔で言った。
「うちが捨て身で仕掛ければ、相討ちにぐらいは持ちこめるかもしれん。そうすれば……末坊だけは、助かるんかいな?」
「ちょっと、若菜さん――」と、俺は文句を言おうとした。
その言葉が、トラメの「無理だな」というつぶやきにさえぎられる。
トラメが直接若菜さんの言葉に応じたのは、これが初めてのことだった。
「仮に貴様がそれほどの力を有していたとしたら、バイコーンは契約の力を行使するだろう。今やあの契約者はバイコーン魂を握られてしまっているのだからな。どのような契約の言葉でも思いのままに引き出せるに違いない。……さすれば、貴様などに勝ち目が生じるわけもない」
「……あのバケモン女には、まだ霊力の底がある言うんか?」
「現し身の我々は、本来の一割ていどの力しか発揮することがかなわぬのだ。しかし、契約の力を行使すれば、そのすべてを解き放つことができる」
「一割……あれで一割?」
若菜さんは、愕然と立ちすくむ。
その姿を横目で見ながら、トラメはエビフライを咀嚼した。
「そして、契約を発動させてしまえば、もはや契約者も一蓮托生だ。その望みの言葉が果たされなければ、今度は契約者の魂までもが打ち砕かれることになる。バイコーンの滅びは、すなわち契約者の滅びと同義になってしまう」
「それじゃあ、例えば何とかしてアクラブあたりに協力してもらったところで、末継さんを救うことはできないってことか……」
俺がつぶやくと、ガシャンッと荒っぽい音色がそれに応じてきた。
トラメが、フォークで空になった皿を叩いたのだ。
「どうしてギルタブルルなどに助力を頼みこむ必要がある? 救い難いうつけ者だな、貴様は」
「最後の手段だよ、最後の手段。本当は、末継さん自身を説得して、幻獣を危険なことに使わせないように約束させて、俺とか八雲とかと同じような立場に仕立てあげたかったんだけど……」
そこまで言ってから、俺はふっと妙案を閃いた。
末継さんを説得できないなら、バイコーンを説得――ないし脅迫すればよいではないか、と。
「ちょっと待てよ? それなら、何とかして七星たちに来てもらって、無駄な抵抗はよせとか脅したらどうかな? ギルタブルルのほうが格上だってんなら、契約の力を使おうが使うまいが、バイコーンにも勝ち目はなくなるんだから。それが嫌なら、末継さんを正気に戻して、こっちの言うことに従うしか……」
「たわけ。あの性悪そうなバイコーンめが、そのような言に従うわけがあるまい。貴様はあやつの捨て台詞を聞いておらんかったのか?」
と、トラメの黄色い目が、俺を見る。
俺は反射的に目をそらしそうになってしまったが……それではよけいに気まずくなってしまいそうだったので、耐えた。
「ああ、ご主人の魂が木っ端微塵になるだけ、とか言ってたな。だけど、そのときはあいつも木っ端微塵だろ?」
「否。あやつは自分の契約者のみを生贄にして、己は悠々と隠り世に帰るつもりなのだろうさ」
「どうやって? まさか、自分の契約者を――殺す気か?」
「何を言うておる。隠り世の住人と契約者は、魂を結ばれておるのだぞ? たがいにたがいを傷つけることなど、できようはずもあるまいが」
そうなのか。トラメとは頭を引っぱたいたり引っぱたかれたりの間柄であったが、当然のことながら、それ以上の行為には及んだこともなかったので、ちっとも知らなかった。
「だけど、それならやっぱり、自分の手にあまる相手が現れたら逃げようがないんじゃないのか?」
「うつけ者。契約者を意のままに操れるというのならば、何か成就の見込みのない契約の言葉でも吐かせてしまえば、それで済む話であろうが?」
「んん? 成就の見込みのない契約の言葉……?」
ああ――そういうことか。ようやく理解できた。
たとえば、バイコーンよりも強い力を持つ幻獣か魔術師が現れたとして。それで『返り討ちにしろ』などという契約を結んでしまっては、バイコーンも現し身を砕かれるまで闘わなくてはならなくなる。
が、『人間世界に永遠の平和を!』とかいう馬鹿げた契約でも行使すれば、自分は傷つかずして、無理な契約を結ぼうとした人間の側だけを破滅させることができる――ということなのだろう、たぶん。
「そいつは……厄介だな、本当に」
こうなったらもう、末継さんに契約の言葉を口にする時間も与えず、すみやかにバイコーンを始末するしか、ない。
いや、だけど、いくらギルタブルルのほうが強力だからって、そんな一瞬でバイコーンを仕留めることができるだろうか?
俺たちを殺そうとしたギルタブルルだって、トラメやラケルタばかりでなく、俺や八雲を一瞬で仕留めることすら、できなかったのだ。
これは――
もしかして、すでに完全に詰んでしまっているのか?
「……力わざでかまわぬのなら、手段はないでもない」
と、また荒っぽい音が響いた。
トラメが、空になった皿を皿の上に放りだしたのだ。
はて。食事中は人間以上にお行儀のいいトラメであるはずなのに。さっきからずいぶんと態度が悪いではないか。
「手段って、末継さんを救う方法があるってのか?」
俺が問うと、トラメはじっとりとした半眼でにらみつけてきた。
「バイコーンのみを滅し、契約者の魂を救う方法ならば、ある。おそらくは、我にのみ可能な方法だ」
「お前にだけ? すげえじゃんか。それはどういう方法なんだよ?」
俺は思わず身を乗りだしたが、トラメは新しいハンバーグの皿に手をのばし、しばらくは口をきこうとしなかった。
で、口を開いたと思ったら、「その前に、ギルタブルルなんぞを呼びつけてどうにかなると思うておるなら、まずそれを試してみればよいではないか」などと、よくわからないことを言ってきた。
「何だよ? アクラブに頼んだってどうにもなりそうにないって話だったろ? いいから、お前の作戦ってやつを聞かせてくれよ」
それでも、トラメは語らない。
いいかげんに頭に来て俺が立ち上がろうとすると、すかさず若菜さんが寄ってきて耳打ちしてきた。
「なあ。湊くんが目の前のこいつを当てにせんで、別の誰かを頼ろうとしたもんだから、ヘソを曲げてもうたんとちゃうか?」
「ええ? そこまでガキっぽい思考回路はしてないはずですけど……」
しかし、そうとでも思わないと理屈に合わないぐらい、トラメは不機嫌そうな顔つきになってしまっていた。
この二ヶ月で、以前よりはだいぶん気心も知れてきたと思っていたのだが。俺は、トラメの自尊心だか何だかを傷つけてしまったのだろうか。
「……えーっとな、七星とかアクラブを呼びつけるってのは、あくまで仮定の話だよ。それしか策がないっていうんなら、あいつらの手が空くのを待つしかないけど。呼びつけたところで解決の方法も見当たらないなら、呼ぶ意味もないだろ?」
「…………」
「あんな化け物みたいな女、俺にはどう始末すればいいのか見当もつかないからさ。お前に何かいい作戦があるってんなら、それを教えてくれよ、トラメ」
まだ半分がた納得はできていなかったが、それでも俺は譲歩して、なるべく申し訳なさそうな声を出してやった。
これで駄目なら、恥をしのんで頭でも撫でてやろうかな、とか馬鹿なことを考えていると、トラメが黄色く目を光らせて、にらみつけてきた。
「ならば、もっと喰うものを準備しろ。その策をとるならば、我に、力が必要だ」




