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召喚ノススメ  作者: EDA
第一章 最後の落札者
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⑤邪淫の怪

 昼下がりに地元を出発し、日が暮れる頃には、京都に到着した。


 やっぱり新幹線のほうが断然速いのだろうが。それでも四時間はかかっていない。なおかつ、走行距離は四○○キロ以上だったと聞き、俺は度肝を抜かれることになった。


 四時間弱で、四○○キロ強。と、いうことは――小学生でもわかるだろう。平均速度は一○○キロ以上であったということだ。


 サイドカーつきのバイクでそのアベレージは、たぶん常識外れなのだろうな、と思う。


「……アレが末坊の住んどるアパートや」


 そうして愛車をコインパーキングに停車させ、二、三分も歩くと、ついに本当のゴール地点だった。


 これといって特筆するところもない、ひなびた住宅地。

 一戸建ての家屋に混ざって、二階建ての木造アパートが、ぽつんと建っている。


 オレンジがかった夕闇と相まって、なんとも叙情的な風景である。


「気合い入れてくで。――って、何やら疲れた顔してんなあ、湊くん。どないしたんや?」


「いや、まあ、そこそこ体力を削られてしまったもので」


 四時間ばかりも若菜さんの身体にしがみついていた両腕などはすっかり痺れてしまっているし、風圧に耐えていた首と、固いシートに座っていた尻が、痛い。あと、まっすぐ歩いているはずなのに、世界が揺れているように感じられてならない。


 しかしもちろん、運転手のほうはそれ以上に気力と体力を削られているはずなのだが――間に一回休憩をはさんだだけで四○○キロもの長距離を強行軍した若菜さんは、何事もなかったかのようにけろりとしていた。


「情けへんなあ。ひさびさに気骨のある男ん子や思うたのに、やっぱり湊くんも現代っ子かあ」


「……若菜さんは現代人じゃないんですか?」


「現代人やで。平安から続く古い血の一族やけど」


 にいっと不敵な笑みを浮かべて、それからまた若菜さんはアパートのほうに向きなおる。


「で、具体的には、どないしはるん? 穏便に話を済ませたい言うても、相手は人外のバケモンなんやで?」


「そうですね。とりあえずは魔術師どもの危険性を説明するしかないでしょう。このままだと、まずは末継さんよりその幻獣のほうこそ危険な立場に立たされることになるんですから。そんな好き勝手をやってる場合じゃないんだぞと説得するしかないでしょうね」


「説得、なあ。……せやけど、あのバケモン女はそないな道理が通じるようなやつやあらへんのやぞ?」


 何せよ、当たってみなければ砕けることもできやしない。


 俺たちは、弐藤末継とその幻獣が待つ木造アパートへと足を急がせた。


(……ボロアパートで、一人暮らし、か……)


 俺の胸に、また苦い記憶が去来する。

 俺の生命を狙ったギルタブルルの主人も、ちょうどこんな感じの寂れたアパートで暮らしていた。


 すべての決着が着いたあと、俺は自分のしでかした行動の結末を見届けるために、その場所までおもむいたのだ。


 魂を砕かれて、永遠に目覚めない昏睡状態で発見され、救急病院に担ぎこまれたという、ギルタブルルの主人。


 もしかして。


 俺は、贖罪の気持ちもあって、こんな場所まで来てしまったのかもしれない。


 俺は、ギルタブルルの主人を救うことが、できなかった。

 あいつは、幻獣との契約の力を使って、俺や八雲の「死」をギルタブルルに命じてしまったから、俺たちとしては、返り討ちにするしか、道がなかったのだ。


 あいつの代わりに、俺や八雲が死ねば良かったのだ……とは、どうしても思うことができない。


 だから、後悔はしていない。


 しかし。


 後悔はしていないから、罪悪感などは生じなかった――とは、言えない。


 そしてまた、こんな罪悪感を抱えこむぐらいなら、幻獣召喚の儀式になど手を染めなければ良かった――などと思ったこともない。


 俺たちは、本当に大馬鹿な真似をしてしまったのだけれども。それでも、トラメや、ラケルタや、八雲や、七星とは出会わない人生を歩みたかった……などと願うことは、どうしてもできなかったのである。


 ならば、自分の運命を受け容れるしかない。


 罪悪感や、苦悩を抱えつつ、この、トラメや、ラケルタや、八雲や、七星と出会った世界を、生きるしかない。


 あがきながら、迷走しながら。


 ならば――今この場にいる自分の決心を「贖罪」などと呼んでしまうのは、筋違いか。


「……行きましょう」


 俺は率先して、その建物に近づいていった。

 ブロック塀に囲まれた、本当に古びた建物だ。

 弐藤末継氏の部屋は、一階の二号室だった。


「末坊! 若菜や! くたばったりしとらへんやろな? もっぺん話をしに来たで?」


 若菜さんが、怖れ気もなくドアを叩く。

 返事は、なかった。


「……入るで?」


 若菜さんが、ドアのノブに手をかける。


 とたんに、バチッと青白い火花が散り、若葉さんはあわてて腕を引っ込めた。


「何や、結界かいな。小賢しいなあ」


「……結界だと?」


 トラメが低い声で言い、右の腕をさしのばした。

 しかし、ドアの表面には触れようとせず、少し空気をかき混ぜるような仕草をする。


「これは……《地》の精霊どもを門番に仕立てあげておるのか。契約の力も使わずにこのような真似ができるのは、相当に格の高い輩だぞ」


「うん? それなら、契約の力を使っているんじゃないか?」


「たわけ。契約が果たされれば、隠り世の住人は己の住処に引き戻されてしまうのだから、それと同時に精霊どもも飛散してしまうわ。かといって、このような手妻で己の生命の火を燃やすとも思えぬから……こやつはもともと精霊族を従えるほどの格を有しておる、ということだ」


 俺には、さっぱりわからない。

 が、とりあえず、相当に強力な幻獣である、ということに間違いはないのだろう。


「何でもええわ。叩き壊すで?」


 若菜さんが憮然と言い、ツナギのポケットから一枚の紙片を取り出した。


 白い和紙に墨で文字が綴られた、呪符だ。


「急ぎ、律令の如くすべし!」


 その呪符を、パシッとドアの中央に叩きつける。


 とたんに、青白い雷光が放射状に爆発し。

 その光が消え去ると、ドアが、音もなく開き始めた。


「またお前か……いいかげんにあきらめの悪い女だねェ? 何度来たって、ご主人の気持ちは変わらないよォ?」


 ぞくっ――と、俺の背筋に悪寒が走った。


 いや、悪寒とはちょっと違うのだろうか? 何だか……女のやわらかい舌の先で、ねっとりと背中をなめられたような――いや、もちろんそんな体験はしたことがないのだが――とにかく無茶苦茶にいかがわしくて、居ても立ってもいられなくなるような心地にさせる甘ったるさと毒々しさの混在した、そんな女の声であったのだ。


(こいつは……?)


 部屋の中は、薄暗い。

 そして、やっぱり甘くて毒々しい匂いに満ちている。


 カーテンの引かれた、殺風景な六畳間。


 その、ドアの向かいにある奥側の壁にもたれかかるようにして、男と、女が、座りこんでいた。


 男は、うつろに視線をさまよわせており。

 女は、俺たちを見つめやっている。


 男は、げっそりとやつれ果てており。

 女は、精気に満ちあふれている。


 男は、木偶人形のように無表情で。

 女は、艶やかに微笑している。


 男は、畳の床に両足を投げだしており。

 女は、その身体にべったりとしなだれかかっている。


「貴様だったか。……バイコーン」


 トラメが、感情のない声で言った。


 女の目が、いっそうのあやしいきらめきをたたえて、トラメを見る。


「そう言うお前は、グーロかい? こりゃ珍しい。……しかし、そんな無粋者と一緒に現れるなんて、感心しないねェ」


 それが幻獣ということは、一目にして瞭然だった。


 光の渦みたいに豪奢な、白銀の長い髪。

 水晶玉のようにきらめく、銀色の瞳。

 闇を凝り固めたかのように、漆黒の肌。

 完璧すぎるぐらい完璧に整った、美しい顔。


 こんな女が、現し世の存在であるはずがなかった。


 女は、しどけなく横座りになって、男の胸もとにもたれかかりながら、上目づかいに俺たちを見返している。


 その身にまとっているのは、天女の羽衣みたいに七色の光を放つ薄物一枚で。その、男の煩悩をかきたてるためだけに存在するかのような、優美で肉感的な肢体の曲線美も、すっかりあらわになってしまっている。


 妖艶――などという、そんな大仰な言葉をそのまま具現化したかのような、そいつはそういうありうべからざる存在なのだった。


「バケモンめ……その汚らしい身体を、末坊から離さんかい!」


 たまりかねたように、若菜さんがわめき散らす。


 魔性の女――バイコーンは、そのぽってりとした唇をピンク色の舌でひとなめしてから、十本の指先を男の胸に這い回らせた。


 男が、ああっ……と、思わず耳をふさぎたくなるような声で、うめく。


「私に命令できるのは、魂の主である、このご主人だけなんだよォ? 私に言うことを聞かせたかったら、このご主人に命令させてごらァん?」


 これだけ距離が離れているのに、まるで耳朶に息を吹きかけられているような寒気を感じて、俺はぶるっと身体を震わせてしまった。


 こいつは――本当に、男を狂わせる化け物だ。


 よりにもよって、なんと厄介そうな幻獣を喚びだしてしまったのだろう、この弐藤末継というお人は。


(こいつが召喚されたのは、一昨日の夜とか言ってたよな。たったの二日足らずで、この人はこんな有り様になっちまったってのか……)


 弐藤末継という人物は、たしか十九歳の大学生であるはずだった。

 しかし、いま俺の目の前でよだれを垂らさんばかりに恍惚としている御仁は、死期も間近な老人にしか見えなかった。


 顔の皮膚や筋肉が、完全に弛緩してしまっている。


 なのに、げっそりと頬がこけていて、顔の色も土気色だ。


 Tシャツにハーフパンツという格好で、そこからのぞく手足も、首も、ガリガリに痩せ細っており、なおかつ、だらりと皮膚が垂れている。


 急激なダイエットを敢行すると、余った皮膚がたるんでしまう。それと同じ症状が、もともと大して太ってもいなそうなこの男の身体に生じてしまったのだろう。


 泥でできた人形みたいに、精気が感じられない。


 目などは、腐った魚みたいだ。


(取り憑かれるって……こういうことかよ……)


 もはや末継氏のほうは、まともに言葉を交わせる状態だとも思えない。


 これでは確かに、幻獣と直接交渉する他なかった。


「おい、バイコーン。……お前の現し名は、何ていうんだ?」


 俺が問いかけると、あやしい銀色の瞳がちょっと不思議そうに俺を見た。


「お前は――そこのグーロのご主人かい? へェ、魔術師でもないただの人間に喚びだされたのは、私ひとりじゃなかったのかァ」


 ただ見つめられ、語りかけられているだけなのに、ぞくぞくと鳥肌が立ってくる。


 恐怖では、ない。


 ただ、全身を見えない触手で撫で回されているような……そんな得体の知れない感覚が、俺を息苦しい心地にさせている。


「現し名は、ないよ。そんなもんがなくったって、私とご主人の魂は、しっかり結び合わさっているんだからねェ」


「そうかい。それじゃあ、バイコーンって呼ばせてもらうけどよ。――なあ、バイコーン。お前もご存知のその魔術師とかいう連中が、お前のご主人に対してたいそうご立腹なんだよ。俺やその弐藤末継さんが召喚の儀式に使った『黒き石版』とかいうアイテムは、どうやらご禁制の魔術道具だったらしくてな。ほんのついこの間まで、俺やこいつも魔術師どもに生命を狙われる身の上だったんだ」


「そんな話には興味ないねェ。私はこのご主人と甘ァい蜜月が過ごせればそれでいいんだよォ」


「だから、魔術師どもがそれを許さないって言ってるんだよ!」


 何とか言葉を返しつつも、うまく頭が回らない。


 脳髄と延髄の隙間あたりに、もやもやと白い膜でもかかってしまったかのような……眠気とも何ともつかない感覚が、俺の思考をさまたげている。


 それに、何となく――腹の下のあたりが、熱かった。


 この感覚は、何だ?


(……しっかりせんか、うつけ者め)


 と――いきなり右の腕から脳天にまで、鋭い痛みが走りぬけていった。


 見れば、トラメが俺の右手首をつかみ、そこに爪をたてている。


(気を保たねば、取りこまれるぞ。貴様も肉人形と化したいのか?)


 痛えなあと思いながらも、またすぐに意識は茫漠とかすんでいってしまう。


 その、白く濁った意識の中で――何だか妙に、トラメの姿だけがくっきりと知覚できた。


 トラメの黄色い瞳が、ななめ下から俺の顔をねめつけている。


 この角度からだと、睫毛の長いのが、よくわかる。


(こいつって……)


 性格は乱暴で横暴だが、本当に顔立ちだけは卑怯なぐらいに整っているよなあと、今さらながらに、俺はそんなことを考えてしまった。


 ちょっと吊り上がり気味の目が大きくて、鼻や口なんかは小づくりだが、造作はとても端整だ。


 頬から顎にかけての線なんかはとてもなめらかで、白い肌にはしみのひとつもなく、赤ん坊のようにきめがこまかい。


 幻獣なんていうやつらは、どいつもこいつも反則的なまでに美形ぞろいだが……やっぱり俺には、トラメの顔立ちが一番しっくりきてしまう。


 美人は三日で飽きるなんて言うが、あれは嘘だ。


 その証拠に、俺はもう二ヶ月以上もトラメと顔を突き合わせているのに、ちっとも飽きた試しがない。


 その、山猫みたいに小生意気な光を浮かべた黄色い目も。

 怒ると犬歯が剥き出しになる、桜色をした小さな唇も。

 金褐色をした不思議な色合いの長い髪も。

 小柄で、ほっそりとしていて、それでいて野生の動物みたいな躍動感に満ちた身体も。

 俺にとっては、初めて出会ったときと同じ鮮烈さと瑞々しさを、いつまでも保ち得ているのだった。


 甚兵衛のえりもとから、華奢な鎖骨がのぞいている。

 肩幅が、せまい。

 腕や足や、首や腰が、びっくりするぐらいほっそりとしている。

 そもそも骨格が、華奢なのだ。

 だけどその、俺の肩にも届かないぐらい小さな身体には、いつでも熱い生命の火が点っていて……


(……正気を保てと言うておるのだ!)


 と、今度は雪駄を履いたトラメの足が、俺の足をしたたかに踏みつけてきた。


 無言で跳び上がる俺に対して、若菜さんがけげんそうな目線を向けてくる。


「何を二人でごちゃごちゃやっとるんや? 説得するんやろ、湊くん?」


 俺は白日夢でも見ていたような心地で、思わず四方を見回してしまう。


 別に何の変化も起きていない。木造アパートの、玄関口だ。


 呆然と立ちつくす俺に向かって、今度は妖艶な笑い声がかけられる。


「あっはっはァ。何とも失礼なお坊ちゃんだねェ。よりにもよってこの私の縄張りに足を踏み入れておきながら、別の女に欲情するなんてさァ。何だか泥棒猫に魚をかっさらわれたような気分じゃないかい、えェ?」


 それでも意味がわからずに黙りこくっていると、また右の手首を伝ってトラメの思念が流れこんできた。


(このバイコーンは邪淫の存在なのだ。何せこやつはユニコーンと対を為す、不純と淫猥の権化なのだからな。いかに退魔の護符を備えておっても、気を抜けば侵蝕されるぞ、うつけ者め)


 邪淫――不純と、淫靡の権化?


 そんなもんはこの女の破廉恥な姿を見れば、至極簡単に納得できてしまうが……いや、ちょっと待て。


 それじゃあ、俺は今、トラメに対して、欲情してしまっていた――とでも言うつもりか?


 そんな馬鹿な! ありえないだろ、おい!


 心臓がガンガンと警鐘を打ち鳴らし、視界が、赤く染まっていく。


 頼むから――時間よ、巻き戻ってくれ! 三分、いや、一分でいいから!


(いいからとっとと話を済ませろ! いいかげんに我は腹が減ってきたぞ!)


 この際は、トラメのふだん通りの憤慨っぷりが何よりもありがたかった。


 トラメはずっと俺の手首を握りしめていたが、何も伝わっていないよな? 伝わっていないことにしてくれ! そうしたら後で何でも食わせてやる!


 俺は呼吸を整えつつ、たぶん若菜さん以上に険悪な目つきで、バイコーンの姿をにらみつけた。


 何となく、鼻腔を刺激していた甘くて毒々しい香りが、少しばかり薄らいだ気がする。


「……だからな、このままだと魔術結社の連中が、お前を退治しにやってきちまうんだぞ? そうしたら蜜月もへったくれもないだろうが? いったいどういう目的で自分の主人をそんな骨抜きにしちまったのかは知らねえけど、退治されたくなかったら、まずはその人を正気に戻せ!」


「どういう目的、ねェ。……隠り世の住人が現し世に喚びだれても、楽しいことなんてロクにないじゃないかさァ? 私にしてみれば、せいぜい人間の精気をすするぐらいしか愉しみがないんだよォ」


 言いながら、女怪は主人の首筋に舌を這わせた。


 恐ろしくて、若菜さんの表情を確認する気にもなれない。


「だから、本当だったらそこら中の人間どもを、私のねぐらに引き込みたかったんだけど……私はね、もうご主人さえいれば、他の人間なんてどうでもいいかァという気分になってきたのさ」


「……どういう意味だよ?」


「うふふふふ。このご主人はねェ、何とも清廉で強靭な魂の持ち主なんだよォ。よくわからないけど、この国の古い呪術師の家系だっていうだろォ? それでいて、退魔の術なんざは何にもわきまえてない、ただの人間だったからさァ。私にとっては、何よりも一番のご馳走だったってわけさァ」


「お前……」


「これだけ精気を絞り尽くしても、後から後から清水みたいに湧きだしてくる。今はちょっぴりぐったりしてるけど、また食事をさせて酒精でも与えてやりゃあ、存分に私を愉しませてくれるだろうさァ」


 何か叫びだしそうになる若菜さんを抑えて、俺は言った。


「だからな、なんべん同じことを言わせりゃ気が済むんだよ? 楽しかろうが何だろうが、とっととその人を正気に戻さないと、明日にでも魔術師どもがお前を退治するために押しかけてくるかもしれないんだぞ?」


「ふん。そうしたら、名残り惜しいけど、ご主人の魂をぱっくり頂いて、私は隠り世に帰るだけさァ。それで私は、別に何も困ったりはしないよォ?」


「……ええかげんにせえよ、このバケモン女!」


 と、ついに若菜さんが、爆発した。


 片方の手をポケットに差しこんで、玄関口から畳の上に足を踏み出す。


「魔術師なんぞを待つまでもないわ! うちが末坊を救ったる! その汚らしい身体を、末坊から引き剥がしたるわ!」


「ああ、やかましい。本当にやかましい女だねェ。お前はそんなに私とご主人の仲を引き裂きたいのかい?」


 まったく怯んだ様子もなく、女怪は主人の耳もとに唇を寄せる。


「ねェ、ご主人。あの女が、私にご主人から離れろと言ってるよォ? どうするゥ? 離れてあげようかァ?」


 男――弐藤末継が、ぼんやりと若菜さんを見た。


 その、腐った魚みたいな目に、どす黒い、怒りと憎悪の光が浮かび始める。


「このおんナは……オれのもノだッ!」


 血の気ない唇を開いてわめき散らし、女怪のぬめりとした肩をわしづかみにする。


 若菜さんは、硬直し、「末坊……」と、かすんだ声でつぶやいた。


「末坊、うちや、わからんのか? あんたの姉ちゃんや。あのな、ちょっとでええから、うちの話を……」


「うるサいッ! だマれッ! このおンなはおレのモのだッ! ぜったイだレにもワたさナいぞッ! おレのもノだッ! オれのモのだッ! おれタちのじゃマをするやツは、こロしてやルッ……!」


 そして、その後に放たれたそいつの悪罵は、とうていまともな神経で聞いていられるような内容ではなかった。


 血をわけた家族に、自分を心配して一日に四○○キロもの距離を往復した実の姉に、そいつはそれほどの悪罵を叩きつけたのだ。


 悪魔に取り憑かれた少女が、実の母親を口汚く罵倒する、あの有名なホラー映画のワンシーンが、俺の脳裏を通りすぎていった。


 若菜さんは、唇を噛み、ただ憎き女の邪悪な笑顔をにらみすえることで、その罵倒に耐えた。


「駄目だ……いったん引きましょう、若菜さん!」


 だから、先に音をあげてしまったのは、俺のほうだった。


 俺は若菜さんの腕をつかみ、アパートの外へと引きずりだした。


 若菜さんは抵抗したが、その腕はかすかに震えており、それほど強引には俺の指先を振りはらおうとはしなかった。


「まったく無粋な連中だねェ。どうせ何にもできやしないんだから、ご主人との甘ァいひとときを邪魔するんでないよォ」


 最後に、バイコーンの邪悪な嘲弄に満ちた言葉が飛んでくる。


「お前ていどの術者やグーロなんざじゃあ、私に毛ほどの傷をつけることもできやしないよォ。どうせだったら、ギルタブルルかスキュラぐらいの連中を連れてきなァ。……ま、それでもご主人の魂が木っ端微塵になるだけの話だけどねェ」


 そんな言葉を背中で聞きながら、俺は木のドアを乱暴に閉めやった。


 それから、清浄な空気を胸いっぱいに吸いこんで、吐く。


 何てこった。


 第一ラウンドは、完膚なきまでに叩きのめされてしまった。


「ちょっとこいつは、想像をはるかにこえて厄介だな。……若菜さん、場所を移して、作戦を練りなおしましょう」


 若菜さんは答えずに、火のような目で閉ざされたドアをにらみすえている。


 俺は頭をかきながら、「あの」ともう一度呼びかけようとした。


 そこで、ぐるりと振り返った若菜さんに、おもいきり胸ぐらをつかまれてしまう。


「いや、あの……すみません。若菜さんは最初から弟さんの状況を伝えてくれていたのに、俺の考えが甘かったです……」


 そんなことで憂さ晴らしができるなら、一発ぐらいは殴ってもらってもかまわない。


 それぐらいの覚悟を固めて、俺が見つめ返していると――若菜さんは、俺の胸ぐらをひっつかまえたまま、少しうつむき「堪忍な」と、つぶやいた。


「え?」と俺が聞き返すと同時に……若菜さんは、大声で泣き始めた。


 人目もはばからず、子どもみたいに。


 俺の胸に顔をうずめて、若菜さんは、身も世もなく泣きくずれてしまったのだった。

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