背信④
「オかえリヲオまチシテおリマシタ。いそつきみなとニ、ぐーろノとらめ」
イントネーションのあやしい日本語。
子どもみたいに、甲高い声。
俺は、よろりと後ずさり。
トラメが、すかさず俺とそいつの間に割り込んできた。
「手前は……『ダブル・ゼータ』!」
「ハイ。コノヨウナかたちデあなたたちトさいかいスルことニナルトハ、おもッテおリマセンデシタ」
トラメと同じぐらい小柄な身体に、暗灰色のフードつきマント。
そして、その陰からのぞく、包帯でぐるぐる巻きにされた顔。
『暁の剣団』の大アルカナ、No.0『愚者』の『ダブル・ゼータ』
どうしてこいつが、こんな場所に?
「とリあエズ、ソノとびらヲしメテハいただケマセンカ? ほかノにんげんニハ、アマリコノすがたヲみラレタクハなイノデス」
「待て……その前に、聞かせろ」
俺の声が、無意識のうちに、かすれてしまう。
「ナギは……ナギは、無事なんだろうな?」
「もちろんデス。わたしハあなたたちノてきデハアリマセン」
感情の読めない声で言い、『ダブル・ゼータ』はぴょこんとおじぎをする。
「あなたノいもうとデアルいそつきなぎハ、『あかつきノつるぎだん』ノだんいんニひキわたシマシタ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は『ダブル・ゼータ』に殴りかかろうとしてしまった。
それを止めてくれたのは……トラメだ。
「うかつに動くな、うつけ者め。こやつが敵ならば、我が討ち滅ぼす」
「てきデハアリマセンヨ。……シカシ、わたしモ『あかつきノつるぎだん』ニしょぞくスルみデス。めいれいガあレバ、ソレニしたがウほかアリマセン」
「命令だと? 誰がそんなふざけた命令を出しやがったんだ! おい! もしもナギにかすり傷ひとつでもつけやがったら、誓って、この俺が手前をぶちのめしてやるからなっ!」
「いそつきなぎハ、ぶじデス。すくなクトモ、わたしハきずひとツつケヌママ、だんいんニひキわたシマシタ」
俺の前進を食い止めようとするトラメの肩をつかみつつ、俺は後ろ手で玄関のドアを閉めた。
五臓六腑が、灼けただれそうだ。
まさか……こいつらが、こんなにも早く、このような形で俺たちを裏切ろうなどとは……うかつにも、想像することすらできなかった。
こいつらは、やはり敵なのだ。
「わたしノにんむハ、いそつきなぎノみがらヲかくほスルことト、ソレヲあなたたちニつたエルことノミデス。ココカラさきハ、わたしニにんむヲあたエタものトはなしヲシテクダサイ」
そう言って、『ダブル・ゼータ』は奇妙な動きを見せた。
玄関口の廊下に立ったまま、右足だけをひょいっと上げて、その先端をマントの胸もとにもぐりこませたのだ。
『ダブル・ゼータ』の足先には、五本の指だけが露出するかたちで包帯が巻かれている。
その骨ばった指先が、マントの内側から取り出したのは……えらく旧型の、携帯電話だった。
「いそつきみなとトぐーろノとらめガもどリマシタ。ハイ。ななほしもなみノすがたハありません」
足の指だけで器用に携帯電話を操作して、『ダブル・ゼータ』は何者かと語り始める。
そうして、そいつはそれをフローリングの床にそっと降ろすと、廊下の奥に何歩か引き下がった。
「ドウゾ」
電話を取れ、ということなのだろう。
俺は半ばトラメを押しのけるようにして、その忌々しいシロモノを素早く引っつかんだ。
「手前は誰だ? さっきの魔術師か?」
『お帰りなさいませ、ミナト・イソツキ。私は、テオボルト・ギュンターです』
テオボルト・ギュンター……『剣のA』……あの、七星にねじ伏せられた、刺青野郎か。
『貴方のご家族は、今、私の部下の手にあります。彼女と再会したいというお気持ちがあるのならば、私の指示に従っていただけますか?』
「この裏切り野郎め……手前らみたいな卑劣漢が、七星のやつを背信者あつかいするなんざ、お笑い草だぜ! 和睦の約束はどうしたんだよ、このゲス野郎!」
『まだモナミ・ナナホシとの和睦の儀は成立しておりません。そして、貴方のご家族の安全などは、その条項にもふくまれてはいなかったはずですよ? 現時点では、まだ貴方に卑劣漢呼ばわりされる筋合いはありません』
落ち着きはらった、魔術師の声。
きっと電話の向こうでは、あの骸骨みたいに痩せた顔に取りすました薄笑いを浮かべているのだろう。
そんな風に考えただけで、俺はいっそう後頭部が熱くなっていくのを感じた。
『私から提示させていただく条件は、三つだけです』
その落ち着きはらった声が、言う。
『一つ。現在のこの事態を、モナミ・ナナホシをふくむ何者にも語らないこと。一つ。これから私の指定する場所に、そこのグーロめと二人のみでやってくること』
「…………」
『一つ。その首にかけている忌まわしい呪具を、その場に置いていくこと。……この三つの条件さえ守っていただければ、貴方のご家族は以前と変わらぬ姿でお返しすることを、私の名誉に賭けて誓いましょう』
「……手前みたいな裏切り野郎の名誉なんざに、いったいどれほどの価値があるっていうんだ?」
『その価値を決めるのは貴方ですよ、ミナト・イソツキ。この条件を不服と考えるなら、お好きになさい。別にどうということはありません。……私は交渉の機会を失い、貴方はご家族をひとり失うだけです』
罵倒の言葉を飲みこんで、俺はただ短く「交渉?」とだけ反問した。
『その内容については、実際に対面してからにいたしましょう。条件に従う意志があるならば、まずはそこの「愚者」に呪具と携帯電話を差しだしてください』
「……さっきの条件に携帯電話なんざ入ってなかったと思うけどな」
『念のため、ですよ。何せあの背信者の娘めは、そのような物からも所有者の居場所を突き止めることができるようではないですか? まったくもって、小賢しい小娘です』
「腕っぷしで負けた相手を小娘呼ばわりしてもカッコつかないぜ、ガイコツ野郎」
胸中に渦巻く敵意をほんのひとしずくだけにじませてやりながら、俺は銀細工の首飾りを外し、携帯電話とともに、それを『ダブル・ゼータ』の足もとに放り捨てた。
トラメは黄色い目を半眼に隠しながら、無言である。
『それでは、その部屋を出てください。そろそろ迎えの車が到着する頃です。私もすぐにそちらに向かいますので』
「おい。最後にひとつだけ忠告しておくぜ、ガイコツ野郎」
激情に声が震えてしまわぬよう気をつけながら、俺は言った。
「もしも手前らが俺の家族に傷ひとつでもつけたら……七星の思惑とは関係なしに、俺が手前らをぶちのめしてやるからな」
『ほう。背信者の呪具と幻獣の守護がなければ何もできないはずの貴方が、魔術師である私たちを、ですか?』
「ああ。俺には手前らみたいに馬鹿げた力の持ち合わせはないけどな。寿命だけは、たっぷり残ってるはずなんだよ」
最後のほうは、抑制しきれず、がなり声になってしまう。
「俺の寿命を使い果たしてでも、誓って手前らはぶちのめしてやる! それが嫌だったら、ナギに傷ひとつつけるんじゃねェぞ、ゲス野郎!」
相手の返事も待たずに通話ボタンを切り、俺はその携帯電話を持ち主に投げつけてやった。
『ダブル・ゼータ』は、また右足の先で器用にそれをキャッチする。
「こうしょうハせいりつシマシタカ。なにヨリデス。わたしモあなたがたトあらそウツモリハまったクあリマセンデシタノデ」
「他人事みたいに語ってんじゃねェぞ、包帯野郎。手前はナギをさらった張本人だろうが?」
「そレハにんむデシタノデ。わたしハタダ、いそつきなぎノみがらヲだんいんニひキわたシタノミデス」
「……あの小娘は、退魔の護符を身につけてはいなかったのか?」
と……そこでひさびさに、トラメが口をはさんできた。
『ダブル・ゼータ』は、心なし嬉しそうにそちらを振り返る。
「みニつケテおリマシタヨ。ソノままデハだんいんニひキわたセナイノデ、わたしガはずサセテいただキマシタガ」
「そもそも貴様は、どこからこの建物に入りこんだのだ?」
「おくじょうカラかべヲつたッテべらんだニおリ、そこカラはいラセテいただキマシタ。さいわイ、まどニかぎハかカッテおリマセンデシタノデ」
「……ほう。まったくもって、腑に落ちぬ話だな」
トラメは半眼のまま、鋭く『ダブル・ゼータ』をにらみすえる。
「貴様はこの結界の張られた建物に易々と侵入したあげく、護符までもを手ずから外したと抜かすつもりか。……そのようなことが、いったい何者に可能だというのだ?」
それはそんなにおかしな話なのだろうか。
こいつは昨晩、同じように結界が張られていたはずの夏祭りの会場にまで侵入を果たしていたし、その際には、高い樹木の上にひとっ跳びで逃げおおせるほどの跳躍力をお披露目していたではないか。
「……この建物に張られた結界は、昨晩のものとは比較にならぬほど強力であるし、そもそも貴様らのつけていた護符は、いかなる魔力をも排除せしめる効能を有していたはずだ」
と、トラメがいくぶん苛立たしげに俺を見る。
「その護符は、鎖を閉じることによって退魔の魔法陣を形成する仕組みになっている。ひとたびその術式が成ったあかつきには、いかなる魔術師も隠り世の住人も指一本触れられぬはずなのだ」
それは何度も七星から聞かされている。魔力の塊である幻獣はもちろん、精霊魔法をあやつる魔術師も常日頃から目に見えぬ精霊たちをその身に引き寄せているために、排除の対象になるのだ、とか何とか。
だけど、攻撃魔法を仕掛けてくるならまだしも、ちょっと魔力だか何だかを帯びた身で触れるぐらいなら、バチッと痺れるていどなのではないのだろうか? 試したことはないので、わからないが。
「否。こやつはその身に魔力など帯びてはおらぬ。だからこそ、結界の内に足を踏み入れることも、退魔の護符に触れることも可能なのであろうが……ならば、何故、そのように人間離れした身体能力を発揮することができるのだ?」
「……うん?」
「隠り世の住人であろうが、魔術師であろうが、魔力の介在なしにそのような真似ができる道理はない。貴様は……いったい何者なのだ?」
「わたしハ『ダブル・ゼータ』デス。あるイハ、『No.0』の『愚者』デス」
『ダブル・ゼータ』は……何かを懐かしむような声音で、そう答えた。
「いまノわたしニあたエラレテイルノハ、そノなまえダケナノデス。さくばんモせつめいシタデショウ? わたしハ、すべテヲふういんサレテシマッタみナノデス」
「誰が、貴様を封印した?」
トラメの鋭い詰問の声に、『ダブル・ゼータ』は包帯でぐるぐる巻きにされた頭部を少し傾げる。
不思議そうな、いぶかしそうな……そしてちょっと悲しそうな、トラメが怒っているならそれをなだめたい、とでも考えていそうな、子どもっぽい仕草で。
「わたしヲふういんシタノハ、『あかつきノつるぎだん』ノだんちょう、ぼーるどうぃん・まーしゃる=ほーるデス。わたしハじゆうヲえルためニ、みずかラふういんサレルことヲねがッタノデス。……サア、ソロソロむカエノくるまガとうちゃくスルころデス。じゅんびハよろシイノデスカ、ぐーろノとらめニ、いそつきみなと?」




