背信③
「さ、もうすぐミナトくんのマンションに到着だね!」
高速道路の料金所を突破すると、にわかに七星が何事もなかったかのような大声を張り上げた。
「数日中には『暁』から正式な返事が来ると思うけど。まあ、今さらミナトくんに危害を加えようとはしないはずなので、用心しつつも楽しい夏休みを満喫してくださいませ!」
「……お前のほうは、どうするんだ?」
「もなみはもう、大忙しのてんてこ舞いさあ。今日の会見で話した内容を裏付ける資料をキャンディスさんたちに送りつけて、あとはひたすら情報戦の地固めだね! ……ひとつだけ念を押しとくけど、ミナトくん、『神天五教道』には絶対の絶対に関わっちゃ駄目だからね?」
「そんな新興宗教、聞いたこともないけどな。……例の海野カイジっていうやつは、そこの団体の関係者なんだな」
「だから、そういう風にアンテナを伸ばさないでってば! 少なくとも、ミナトくんの住むマンションや、今現在のクラスメートに『神天五教道』の信者は存在しないから、今まで通りの生活を続けてくれれば、ばったり出くわす可能性も極限に低いはずだよ?」
「……そんなことまで、調べがついてんのか」
「そんなことまでっていうか、それが話の大筋だもん。ミナトくんやウラシマタクマさんたちが潔白だと主張できるのは、みんなの周囲に『神天五教道』の影が存在しないから、ってのが一番の理由なのですぞよ?」
バックミラーの向こう側で、七星が肩をすくめやる。
「とにかくミナトくんは、これ以上の深入りはしないで、今まで通りの生活に戻っておくんなさい! 何かちょっとでもおかしなことがあったら、携帯ですぐに連絡、ね? あと、護符は絶対に外さないこと! トラメちゃんも、まだしばらくは現し世にいてもらうこと!」
「……ああ」
「妹ちゃんは、明々後日のフライトでアメリカに戻るんだっけ? お見送りには行けないけど、まあ、七星もなみという驚天動地の人間と出くわしてしまった、というトラウマがあのちっちゃなお胸に少しでも刻みつけられていれば幸いでございます」
「……あのなあ、七星。ひとつだけ、どうしても聞いておきたいことがあるんだけどよ」
俺は少し身を乗り出して、バックミラーをにらみつける。
「お前に復讐をあきらめろ、なんてことは、さすがに言えない。だけど……せめて、あの『暁』の連中と期間限定じゃなく恒久的な和平関係を結ぶことは、できないのか?」
「できにゃい」
「何でだよ! お前が許せないのは、『名無き黄昏』だけなんだろ?」
「だから、もなみのほうが許していても、あちらのほうが許してくれないのだよ。それはついさっきの会談の内容で理解できたっしょ?」
「ああ。だけど、その根本的な部分が理解できないんだよ。お前ぐらい役に立つ人間を、あいつらはどうして仲間と認めることができないんだ? 『名無き黄昏』の撲滅を第一に考えてるってんなら、お前とあいつらはがっちり手を組むべきだろ」
「うみゅ。だけどそれは不可能なのでぃす。もなみが『邪神の巫女』の血筋である限りは、ね」
「……どうしてだ? 血筋なんて、関係ないだろ。お前はあいつらと同じように、『名無き黄昏』を心の底から敵視してるんだからさ」
「もなみの意志なんて関係ないのだよ。巫女の血筋は絶やすべき! それは『暁』にとって『黄昏』撲滅活動の一環なのでありますよ」
車をすいすいと走らせながら、七星は変わらずに涼しげな表情をしている。
だけど俺は、納得がいかなかった。
「わかんねェな。ただその血筋に生まれついたってだけで、お前の意志や考えはなかったことにされちまうってのか? そもそも、『邪神の巫女』ってのは何なんだよ?」
「うーん? 『邪神の巫女』は、『邪神の巫女』さ。……ものすごく簡単に言っちゃうと、巫女ってのは、邪神をこの世界に降臨させるための、依り代なんだよ」
「……依り代?」
「そ。トラメちゃんの依り代は、かわゆい茶トラの子猫ちゃん。アクラブの依り代は、蠍の化石のペンダント。この世ならぬ存在をこの世に召喚するには、その存在の核となる依り代が必要になるのでぃす。……で、邪神を降臨させるには、巫女の肉体と魂が必要ってことなのさ」
何だか、おぞましい話になってきた。
それはつまり……生贄、ということか?
「そういうこと。たとえもなみがどんなに邪神の存在を忌まわしく思っていたとしても、降臨の儀に引っ張りだされちゃえば、邪神降臨の道具にされちゃうってわけ。だから『暁』はもなみの存在をこの世から抹消したいし、『黄昏』は巫女としてもなみの存在を獲得したい。これはもう、どうやったって逃れようのない、七星もなみの運命なのでございますわ」
と、そこでいきなり、七星がぐりんと後部座席のほうに顔を向けてきた。
「その証明が、この綺麗に整ったもなみのお顔なのでございます」
七星は、いつのまにやら、その鼻に乗せていたサングラスを取り外していた。
確かに……綺麗な顔である。
が、そのようなことは、この際、どうでもいい。
「馬鹿野郎! う、運転の最中に後ろを向くな!」
「だいじょぶだいじょぶ。もなみの運の強さとカンの良さは、もはや人外の域なのですから」
「う、運だとかカンだとかに生命をかけんなよ! スピードを加速させんな、コラ!」
「うふふふふ。慌てふためくミナトくんのお姿は、実にかわゆらしいですにゃ。……ね、もなみがどうしてここまで完璧に美しく魅力的でミナトくんの煩悩をかきたてられるのか、その理由がわかる?」
「そんなもんは、かきたてられてない! いいから前を向け!」
「はいはい。……おお、やっぱりここで赤信号だったか」
派手な音をたてて車が停まり、俺はあやうく前の座席に顔面をぶつけそうになる。
また貴重な寿命を無駄に消費させられてしまった。
「あのですね、もなみの肉体は、完璧にシンメトリーなのでぃす」
「な、何?」
「シンメトリー。左右対象。骨格から筋肉、そして皮膚の表層にいたるまで、左右が完全に同一の形状をしているのだよ。つむじは頭のてっぺんについてるし、指紋でさえも鏡合わせみたいにばっちり同じ紋様を描いてるんだよ? 数えたことはないけれど、睫毛や眉毛や産毛の数まで、きっちり同数なんだと思う。あきれちゃうでしょ?」
「……そんなことが、ありうるのか?」
「ありうるんだなあ、これが。普通は生活していく上で、骨格が歪んだり筋肉が偏ったりするはずなのだけれども、そんなのも神の見えざる手だか何だかに補正されちゃってるみたい。……で、この完璧にして至高なる肉体とその内に宿った魂こそが、邪神を降臨させるための触媒たりうる、ということであるらしいのさ」
予想以上に、突拍子のない話だった。
再び車を走らせながら、七星はひょいっとサングラスを鼻に乗せる。
「ちょいと目の肥えた魔術師なら、一目でこの骨相を看破できるみたいなのね。だからこんなサングラスは気休めにすぎないんだけど。ないよりはマシみたいだからさ。……それに、身体を傷つけたり、整形手術をしたりってのも、根源的な解決にはなりえない。そんなの、治癒の魔術でどうにでもできちゃうからね。魔術道具としての巫女を無効化するには、やっぱり息の根を止めるしか手段がないのでありますよ」
「…………」
「もなみはこれを『完全体』って呼んでるけども。『完全体』の人間は、この世界に……そうだねえ、数百万人に一人ぐらいの確率で存在するのかにゃ? 今のところ、もなみは三人の『完全体』と出会ったことがありまする」
「……三人?」
「もなみのママと、セイラムの祭祀場にいた女の子、それに……ヒトツちゃん、だね」
「ヒ、ヒトツ? それじゃあ、あいつも邪神の生贄に……」
「ならないよ。ヒトツちゃんは、肉体は完全だけど、魂が不完全なんだ」
と、何かを懐かしむような口調で、七星はそう言った。
「何でだろうね? ヒトツちゃんって、魂の一部が欠落しちゃってるんだよ。たぶん海野家も『邪神の巫女』の血筋なんだろうと思うんだけど、ヒトツちゃんは、不適格。あの不完全な魂じゃあ、邪神の依り代にはなりえない。……だから海野カイジさんも『黄昏』の連中も、ヒトツちゃんには無関心なのでしょう。幸福なこと、なんだろうね、たぶん」
「たぶんじゃないだろ。大ラッキーじゃねェか」
「うーむ。だけどそのおかげでヒトツちゃんはあんなぼんやりさんに育ってしまったから、家族を皆殺しにされても、泣き寝入りするしかなかったんだよ? もなみだったら、そんな人生は御免だにゃあ。少なくとも、ヒトツちゃんを羨ましいと思ったことは、ないね」
いったいこいつは、どこまで強靭にできあがっているのだろう。
俺の心中を見透かしたかのように、七星は笑う。
「まあ、そんなわけで。『完全体』の人間が邪神降臨の儀式には必要ってことは傍証が出そろっておりますけれども、そのメカニズムはまだ解明されていないのでぃす。邪神の巫女たる人間は、どこかで邪神の血を引いているのかもしれない。もともとその内に邪神の種子を孕んでいるのかもしれない。そんな可能性すら残されているわけだから、『暁』としても『邪神の巫女』は悪・即・斬の対象となってしまうわけなのでぃす」
「だけど……そんなのは、お前の責任なんかじゃないだろ」
「ふむ? それじゃあ、その責任とやらは、もなみのパパとママにあるのかにゃ? 『完全体』ってのは遺伝性が強いから、『邪神の巫女』でありながら子を為してしまったママたちの判断が間違っていた、とでも?」
そう言って、七星はふてぶてしく笑う。
「ま、そんな論法にはとうてい承服しかねますにゃ。こんなに不幸な人生ならば、いっそ生まれてこなければ良かった……なんてことは、一瞬たりとも考えたことはございませぬので」
「そりゃあもちろん、そうなんだろうけどよ……」
「ミナトくん。もなみは不幸になるために生まれてきたわけでも、邪神の生贄になるために生まれてきたわけでもない。もなみは、『名無き黄昏』を滅ぼすために生まれてきたんだよ」
七星の声は落ち着いており、決して大きくなったりもしなかったが……その言葉には、力が満ちていた。
鋼のように強靭で、革鞭のようにしなやかな、力が。
「だから、心配も同情もあわれみも不要なのでございます。……だいたいさ、どうして今さら『暁』と仲良くすべし、なんて言いだしたの? ミナトくんは、もなみ以上にあの連中を嫌っていそうなのに」
「そりゃあ、あいつらはいけ好かないけどよ。敵が『黄昏』だけだったら……あんな風に、俺とお前の関係を取りつくろう必要もなくなるじゃねェか?」
「……それは別に、どうでもいいんじゃん? どっちみち、この先はミナトくんと遊んでいられる時間もないし。日本での活動が終了したら、もなみはフランスだかアラブだかに活動の拠点を移すわけだし……」
と、そこで七星は、何かに思い当たったかのように「ああ」と声をあげた。
「もしかしたら、日本国内での活動が終了したら、またもなみが行方をくらましちゃうなあ、そうしたら二度と会えなくなっちゃうなあ……とか、そんなことを考えてくれちゃったりしていたのかにゃ?」
「……お前がそんな考えでいるなんてことは、今まで聞いてなかったしな」
「にゅははは。だったらいっそう、『暁』との関係性なんてどーでもいいんじゃん? 『暁』と和解できようができまいが、いずれお別れの時はやってくるのでありますから」
「…………」
「『黄昏』との戦争が開始されたら、もうミナトくんとは会わないよ。電話友達、メール友達として仲良くしておくんなさいまし。……それとも、いっぺんぐらいはこの至高の『完全体』を味わっておけば良かったなあ、とか後悔してきた?」
「本気で殴るぞ、馬鹿野郎」
「うん。自分の子どもが『邪神の巫女』として魔術結社に一生つけ狙われるっていう運命を受け容れる覚悟がないなら、そんなオイタはしないほうが無難だね」
俺のマンションが、見えてきた。
その門前に車を横づけしつつ、七星は「ふむ」と首をうなずかせる。
「わかっちゃいたけど、結界にも異常はなし、と。ね、ミナトくん、くどいようだけど、外出の際は絶対にその護符を外さないでね? そいつが魔術の干渉を受ければ、もなみにはすぐ察知できるように設定してあるから。妹ちゃんにも、せめてアメリカ行きの飛行機に乗るまでは、絶対に外さないよう徹底しておくんなさい」
「……ああ」
思考と感情が完全に消化不良を起こしてしまっていた俺は、とっとと車を降りることにした。
もしも『暁の剣団』との和睦が成って。
すぐにでも『名無き黄昏』との抗争が開始されることになれば。
俺はもう……これっきり、七星と顔を合わせることもなくなるかもしれないのだ。
昨日の夜から胸の奥にわだかまっていた、焦燥感と喪失感。
それが今、確かな具体性をもって、俺を息苦しくさせている。
「それじゃーね! 今日は本当にありがとう! 大好きだよ、ミナトくん!」
だから、そんな風に手を振る七星に、俺は返事をすることすらできなかった。
七星は、白い歯を見せて、にっと笑い。
そして……至極すみやかに、俺の前から消えていった。
(あいつは……ずっと前から、そんなことを考えていたんだろうな)
だからこそ、海だ祭りだと、馬鹿のようにはしゃいでいたのだ。
だからこそ……昨日の夜、いささかならず唐突な感じで、俺に結婚などを求めてきたのだ。
最後の余暇を、満喫するために。
最後のチャンスを……使い果たすために。
「……くそっ!」
俺はおもいきり、罪もないアスファルトを蹴り飛ばした。
それから、自分がひとりきりではなかったということを、思い出す。
麦わら帽子をかぶりなおしたトラメは、ほとんど空になった煮干の袋を片手にぶら下げつつ、黄色く光る目で俺の顔を見上げやっていた。
「ああ、悪い。……とりあえず、部屋に戻るか」
門をくぐり、入り口でオートロックの解除番号を打ち、エントランスに足を踏み込む。
そうしてエレベーターに乗り、五階の自室にたどりつくまで、俺もトラメも口を開こうとはしなかった。
この後は、ナギと買い物に行く予定なのだが、乱れに乱れきった俺の胸がその間に回復することはないだろう。
そんなことを考えたら、無意識のうちに溜息がこぼれてしまった。
(こうやって、俺だけが日常に帰っていくのか……?)
七星に、すべてをまかせきりにした状態で。
「……いつまで、うだうだと思い悩んでいるつもりなのだ、貴様は?」
と、自室のドアに手をかけたところで、初めてトラメが口を開く。
「まだ完全に魔術結社との縁が切れたわけではなかろうが。そのように思い悩むのは、平穏な暮らしとやらを取り戻してからにしろ、このうつけ者め」
「……そうだな」
答えながら、俺は鉄製のドアを引き開けた。
そして。
驚愕のあまり、立ちすくんだ。
そこには……こんな場所にいるはずのない人物が、その忌まわしい姿をさらして、黙然と立ちつくしていたのだった。




