背信①
「……ま、何とか丸くおさまったね。不格好な楕円形かもしんないけど、丸いことに変わりはないんだから、よしとしましょ」
『聖杯の小姓』ジェマ・エルウィスの案内によって明るい外界へと脱出を果たした七星は、うーんと大きくのびをしながら、そう言った。
「それじゃあね、ジェマさん。和睦が成るにせよ成らないにせよ、こうやって顔を合わせる機会はもうそんなにないと思いますけれど、どうぞお達者で」
「はい。……私は和睦が成ることを心より望んでいますよ、モナミ・ナナホシ」
結界の張られた路地を出て、何のへんてつもない住宅街の歩道に立ったジェマ・エルウィスは、栗色の髪を揺らしながら、にこりと笑った。
暗灰色のマントを脱いでしまうと、やっぱり善良で小綺麗な外国人女性にしか見えない。
「あなたはとても強い力と明るい魂を有しており、そして、魅力的なお人柄をも兼ね備えています。あなたが邪神の巫女の血族だなどとは、とうてい信じられないぐらいですわ」
「ええ。ワタシもアナタのことは好いたらしく思っておりますですよ。少なくとも、あのケレン味に満ちあふれたシスターさんたちよりは」
などと意地の悪いことを言いながら、七星は吊りズボンのポケットにしのばせていた十字架の護符をジェマに返却した。
俺と、トラメと、アクラブも、無言のまま、それに従う。
「ではでは。お見送りはここまででけっこうですよん。皆様がたにも、どうぞよろしく」
「あ、お待ちください、モナミ・ナナホシ。……私から、個人的にひとつだけ申し上げておきたいことがあります」
と、淡い碧眼に懸念の光をたたえつつ、ジェマは七星に顔を寄せた。
「あの『剣のA』テオボルト・ギュンターのことは、少し気をつけておいてください。彼はちょっと……その、粘着質な気性を有しておりますので」
「ふむん? ワタシにねじふせられてしまったことを、彼が根に持つ危険性があると? それはそれは、小アルカナの筆頭にまでのぼりつめた御方にしては、ずいぶん人間くさい気性をお持ちですのね?」
「ええ。もちろん彼に限らず、団の意向を無視して自分の我を通そうとするような団員などは存在しないのですが……和睦が成ったのちにも、彼に背中をあずけるような場面が生じた際には、少し用心が必要かもしれません」
「心得ました! まあ、彼の人間性ではなく、団への忠誠心を信用したいところですわね」
「はい。万が一にも、彼が団の意向に背くような行為に及んだ際には、私どもが処断いたしますので」
小鳥のように微笑みつつ、ジェマはそっと胸の前で手を合わせる。
「それでは、失礼いたします。お帰りの道中も、お気をつけて」
「はいはーい。ごきげんよう!」
芝居がかった仕草で一礼し、七星はさっさと歩き始める。
じっと立ちつくすジェマに目礼を返しつつ、俺はその後を追った。
「おい、七星……」
「ストップ! 壁に耳ありだよ、イソツキミナトくん! おしゃべりタイムは、車に戻るまで控えておきましょ?」
「……わかったよ」
俺たちが、魔術師どものアジト……おそらくは廃棄された浄水施設の内部で密談やら何やらを交わしていたのは、せいぜい一時間ていどだった。
ということは、時刻はいまだに午前の十時過ぎである。
お盆を控えた、夏の盛り……世間的には、夏休みの真っ只中だ。
歩道にはいくぶん人通りが増えてきており、買い物に向かう様子の奥様がたやら、真っ黒に日焼けした小学生なんかが、俺たちの姿を物珍しげに眺めながら通りすぎていった。
その特徴的な顔立ちをハンチングとサングラスで隠した七星や、凡人代表みたいな俺だけだったら、そこまで人目を引くこともなかったろうが、何せ背後にはトラメとアクラブが追従しているので、いたしかたがない。
黒いベレーに黒いサングラス、ゆったりとした黒いシャツにゆったりとしたバルーンパンツを着込んだ、黒ずくめのアクラブ。
濃淡まだらの金褐色の髪を腰までのばし、麦わら帽子と和柄の甚平という男の子みたいな格好をした、トラメ。
アクラブはやっぱりお忍びのハリウッド女優みたいだったし、トラメのほうは、その髪だけで十分に人目を引いてしまう。
しかし……どんなに奇異なる風貌をしていても、まさかこいつらが人外の存在だなどとは、誰も思いはしないだろう。
ほんの数分前までは、その本性を半ばさらして、同じように人外の存在とこの世ならぬ闘いを繰り広げていた、だなんて……そんなことが、信じられるはずもない。
トラメは、さっきからしきりに左手の平をなめていた。
サイの妖刀を握りしめてしまったために、うっすらとだが手の平の肉が裂けてしまったのだ。
トラメの治癒の能力をもってすれば、そのようなものは如何ほどの手傷でもないのだろうが……
俺はけっこう、鬱屈としてしまっていた。
トラメのしでかした、無茶な行為に。
そして、キャンディスからの、馬鹿げた提案に。
「ほい、到着っと。あ、異物のチェックをするから、みんな待っててね?」
コインパーキングに到着するなり、七星はポケットからタロットカードのようなものを取り出し、ワゴン車のまわりを一周した。
「よし。車に触れた人間はなし、と。それでは皆さま、ご乗車くださいまし」
言いながら、真っ先に運転席に乗りこんだ七星は、最後に乗った俺が後部座席の扉を閉めると同時に、「ぷはーっ!」と大きく息をついた。
「対・暁モード、終了! あーあ、肩が凝っちゃったよ! アクラブ、トラメちゃん、おつかれさま! ミナトくん、求婚は拒絶されたけど大好きだよっ!」
「い、いきなり何を言ってんだ、お前は?」
「だってさあ! ミナトくんに対してよそよそしい態度を取るのがこんなに疲れるとは思わなかったんだもん! 演技とはいえ色々と心ないことを言っちゃってごめんね! 大好きだよ! 愛してるよ!」
「うるせーよ、馬鹿。とっとと車を発進させろ」
「いーえ、その前に為すべきことがあるのです! ミナトくんは、妹ちゃんとウツミショウタくんの安否を確認! ミワちゃんとウラシマタクマさんは、もなみにおまかせあれ!」
「……何?」
「この一時間で、彼らの身に何か起きてたら大変でしょ? まだ『暁』との同盟関係は仮契約期間中なんだから、息を抜いているひまなど皆無なのです!」
俺は一気に不安感をあおられてしまい、早急に携帯電話を引っ張りだすことになった。
まずは、ナギだ。
『あ、お兄ちゃん? ずいぶん早かったじゃん。もうアルバイトは終了したの?』
嬉しそうに弾んでいるその声に、俺はほっと安堵の息をつく。
本日は、七星からの要請で、俺とトラメだけ倉庫整理のアルバイトにかりだされた、という設定であったのだ。
「ああ。あと一時間ぐらいで帰れると思う。お前は、家だろ? そのまま大人しく待っててくれよな?」
『うん! それじゃあシャワーをあびて準備しとくね!』
これで、OKだ。
次は、宇都見か。
『やあ、おはよお。こんな朝からどうしたんだい、磯月?』
我が悪友も、健在だった。
ただし、おもいきり寝起きの声だ。
「いや、まあ、ちょっとな。そっちは何にも変わりはないか?」
『うん? ああ、えーっとね、そういえばちょっと困ったことが起きちゃったんだけど……』
「何?」
『いつも通ってるあの骨董屋さんで、河童の右手のミイラっていうお宝を発見したから取り置きを頼んでおいたんだけどさ。店主さんが昨日それをうっかり他のお客さんに売っちゃったっていう、おわびのメールが届いてたんだよ……』
「そうか。引き続き楽しい夏休みを満喫してくれ」
俺はすみやかに通話を打ち切らせていただいた。
「大丈夫だ。ナギも宇都見も変わりはないってよ」
「うむ。ミワちゃんとウラシマタクマさんもご無事でございました。それではお家に帰りましょー!」
きわめて陽気な声で言い、七星はようやく車を発進させた。
「アクラブ。追尾の使い魔なんていないよね?」
「問題ない。連中もそこまで愚かではないだろう」
後部座席のシートにもたれつつ、俺はぼりぼりと頭をかいた。
「相変わらずの用心深さだな。お前のそういうところは本当に感心するよ、七星」
「うにゅ? こんなのは長年の習慣だから、どってことないよ。この世に生まれた瞬間から魔術結社だの邪神教団だのに追い回されてたら、誰だってこれぐらい用心深くなるって」
そんな境遇の人間が、七星以外に存在するとも思えない。
すっかりいつもの調子を取り戻してきた七星の顔をバックミラーごしに見やりながら、俺は胸中にためこんでおいた疑念をぶちまけさせていただくことにした。
「なあ、七星。本当に今さらの話なんだけどな。今回のこのご対面に、俺の存在は必要だったのか? 何となく、話をひっかき回す役にしかなってない気がするんだが……」
「うにゅにゅ? そんなことはない!と思うねえ。たぶん、ミナトくんとトラメちゃんがいなかったら、あの狂犬さんたちはまずもなみとアクラブの自由を奪ってから話をしよう!とか企んだんじゃないかにゃあ?」
と、七星は愉快げににんまりと笑う。
「ちなみにミナトくんは、エルバハのミュー=ケフェウスちゃんとアルミラージのムラサメマルくんがどこにいるのか、わかった?」
「え? あいつら、あの中にいたのか?」
「いなかったよ。たぶんミュー=ケフェウスちゃんは床の下で、アルミラージくんは天井裏だったと思うけど、アクラブ、いかが?」
「ああ。うっすらと隠り世の住人の気配が漂っていたな。魔術の手妻で気配を消し去ろうとしていたのだろうが、私の鼻はごまかせん」
「……そうだったのか」と、俺は溜息をつく。
「うん。もなみが『神天五教道』っていう手札をさらすまでは、スキあらば力づくで……っていうつもりでいたんじゃない? だから、牽制役にミナトくんを参加させるべし!っていうサイ・ミフネさんからのご提案は、完璧に正しかったというわけさ」
そこで七星は笑みを消し、ちょっと不機嫌そうな顔をする。
「ただし、その代償として、ミナトくんがキャンディス・マーシャル=ホールさんにロックオンされちゃったのがなあ……ミナトくん、いちおう聞いておくけれども、十歳児の幼女はストライクゾーンじゃないよねえ?」
「誰が幼女だよ。ありゃあ外見通りの年齢じゃないんだろ?」
「うん。少なくとも、もなみのパパより若いってことはないだろうねえ。……ハッ。まさか、永遠の十歳児という老ロリなら、あり?」
「ハッ、じゃねェよ。……あいつはいったい、何なんだ? どうしてよりにもよってこの俺なんかを、魔術結社なんざに勧誘するんだよ、あいつは?」
「そりゃあミナトくんに興味しんしんだからでしょ。……正確に言うと、ミナトくんとトラメちゃんに、だけどさ」
俺はちょっと口をつぐみ、隣りのトラメに目線を向ける。
麦わら帽子を放り捨てたトラメは、素知らぬ顔で煮干をバリバリとかじっていた。
「ずっと前に、もなみも説明してあげたでしょ? 契約者と幻獣の親和力ってのは、魔術師にとって永遠の命題なんだよ。……仮説として、親和力が高ければ高いほど、幻獣は強い力を発揮することができるってされてるんだけど。それって、検証が難しいからさあ。生きた見本がここにいるなら、手もとに置いて観察したいってのが、キャンディスさんの本音なんじゃないのかにゃ」
「……親和力、ねえ」
昨日の『ZZ』とかいうやつも、そんなような言葉を使っていた。
しかし、何を言われても、俺にはまったくピンとこない。
「だからさ、ものすごくかいつまんで説明しちゃうと、トラメちゃんってのは、グーロにしては強すぎるんだよ。だから、その秘密がミナトくんとの親和力、同調率にあるのなら、その原因を何としてでも解明したいんでしょ」
「……トラメは、そんなに強いのか?」
「強いでしょ。……そうそう、それじゃあいい機会だから、もなみも以前から聞きたかったことをこの場で聞かせていただこうかなあ?」
何だか、嫌な予感しかしない。
が、七星の口から放たれたのは……およそ俺には予測不可能なほど突拍子もない質問だった。
「あのさあ。二ヶ月前に、例のギルタブルルさんを返り討ちにしたとき、ミナトくんは、トラメちゃんとどういう契約を交わしたの?」




