二人の朝
「あれ……トラメ、お前ひとりかよ?」
昼前まで寝すごしてしまった俺がリビングに出むいていくと、トラメがひとり、ソファで煮干しをかじっていた。
騒々しいまま終結した海水浴から、すでに五日ほどが経過して、ついに八月になってしまった。
うだるような暑さの中、汗のひとつもかいていないトラメは、煮干しを咀嚼しながら面倒くさそうにテーブルのほうを指し示す。
テーブルの上にはメモ帳が置いてあり、メモ帳には「ママのところにいってきます。夕方にはもどるからね」というナギの丸っこい字が書きしたためられていた。
盆には早いが、きっと墓参りにでも行ったのだろう。なんだかんだでナギたちの滞在もあと四日ほどだから、雑事をこなすには頃合いだ。
俺は頭をかき回しながらソファに座り、座ったとたんに「腹が減った」というお決まりの挨拶をぶつけられた。
「わかってるって。米は炊けてるんだから、そうあわてるな」
ナギが帰国してきた初日、トラメが朝から空腹でぶっ倒れてしまって以来、俺は炊飯ジャーの予約機能を活用する習慣を根づかされてしまったのだ。
夜半に米をとぐのはすこぶる面倒だが、起床してすぐに取りかからなくてはならない面倒ごとの一部を前倒しにするだけだしな、と自分を納得させることにも成功できたので。
しかし、トラメは、不平そうに俺の顔をじっと見つめている。
いやいや、たまにはのんびりさせてくれよ。「腹が減った」と騒ぐメンバーがひとり少ないおかげで、俺もちょっぴり解放的な気分を得られることができたのだから。
だいたいナギだってもう十三歳なのだから、いいかげん朝食の準備ぐらいは自分でこなせないもんかねぇ?
「……にしても、お前と二人きりなんて、ずいぶんひさびさな気がするな、トラメ」
トラメの関心をそらせぬものかとそんな風に呼びかけてみるが、トラメは当然のように答えない。
七月下旬に帰国してから、ナギはずっと我が家にいた。
それに、ちょっとした買い出しに出向く際も、ナギの要望にこたえて遊びに行く際も、俺たちは常に三人で行動していた。
ここまで用心する必要はないのかな?と思いつつも、旅先ではあんな怪異に見舞われてしまったし、可能であるならばなるべく単独行動はひかえたほうが無難だろう。ナギも、俺も。
最初の頃はけっこう窮屈そうだったトラメだが、ナギがそんなに有害な人間でないと知れると、あとはもう本物の猫さながらに煮干しをかじったり昼寝をしたりと気ままに過ごしていた。
出会った当初の大騒動を思いおこせば、奇跡的なぐらいの調和と言っても言い過ぎではないだろう。ナギがアメリカに帰る四日後まで、なんとかこのまま平穏無事に乗りきりたいものだ。
「そういえば、トラメ。体調のほうは、どうなんだ? 少しは良くなってきてるのかよ?」
ナギの不在を幸いとして、俺はそんなことを聞いてみた。
トラメは、いぶかしそうに小首をかしげる。
「右腕と、心臓だよ。相変わらずの食欲で、夜もグースカ眠ってるみたいだけど、やっぱり完治にはほど遠いのか?」
「……完全に潰された心臓は、そうそう簡単に治癒されるものではない」
ぶっきらぼうに言いながら、トラメは右腕を少し持ちあげた。
五本の指が、意外とすみやかに閉じたり開いたりする。
「こちらは、七分といったところか。そろそろ荒事にも耐えられるぐらいには回復してきた」
「そうか。そいつは良かったな」
「……だからといって、完治というにはまだほど遠い」
「わかってるよ。食費を節約してやろうなんてことは企んでないから、そんな物騒な目つきをすんな」
だいたい、その右腕に刻まれているのは、正真正銘、俺を救うために得たダメージなのだ。
魔術師どもの張った結界の内から、俺をひきずりだすために、トラメは無茶をしてくれたのだからな。ちょっとぐらい食費が割高になったって、俺に文句など言えるわけはないではないか。
通常ならば、ラケルタと同じぐらい弱っていても不思議はない……などと、アクラブのやつはそんな風に言っていた。
ここ最近のラケルタみたいに弱り果てたトラメの姿など、俺は絶対に見たくはなかった。
「さて。それじゃあブランチにするか」
そろそろ頭もはっきりしてきたし、トラメの忍耐もそんなに長くは続かなそうな気配だったので、俺はしかたなく心地良いソファから腰を引きはがすことにした。
リビングを出てキッチンにむかうと、トラメも無言でひたひたとついてくる。
トラメはどうやら調理するさまを眺めているのが、そんなに嫌いではないようなのだ。それほど凝った料理を作るわけでもないので、見ていて楽しいもんでもないとは思うのだが。
「毎日ネコマンマじゃ飽きるだろ? たまにはチャーハンにでもしてみるか?」
冷凍庫に保存しておいたシャケの切り身を三尾ほどレンジで解凍しつつ呼びかけてみると、「それで我の回復が早まると貴様に思えるならばそうするがいい」などという、つれない返事がかえってきた。
俺的に解釈するとそれは「ネコマンマのほうが好きだから余計な気を回さずとも良い」ということになるのだが、実際のところはどうなのだろう。
とても大切な「食」に関してぐらい、もうちょっと素直に要望を出せばいいのにな、こいつも。
コンロの網焼きは片付けが面倒なので、いつも通り、フライパンでソテーにする。
解凍したシャケの水気を吸って、塩コショウで下味をつけたのちに、ほんの少しだけ小麦粉をまぶし、オリーブオイルをひいたフライパンに投入。
焼き色がつくまで中火で熱し、裏まで焼いたら、少量の白ワイン……こいつはトラメと同居する前からの定番メニューであるが、作る頻度が格段にアップしたため、いやに手際が良くなってしまったな。
ワインのアルコールが十分にとんだら、バターを落とし、フライパンにフタをする。
ああ、いい匂いだ。俺も食欲中枢を刺激されてきた。
俺は何を食べようかな……などと思っていると、ハーフパンツのポケットに突っ込んでおいた携帯電話がうなりはじめた。
こんな時間に誰だろう。ネコマンマ用のソーセージをまな板の上にぶちまけながら、俺はしかたなく無粋な電子機器をポケットから引っ張りだす。
電話は、七星からだった。
珍しい。こいつが昼間から連絡してくるなんて初めてのことではないだろうか。まさか何か悪い報せではなかろうなと、俺はちょっと眉をひそめつつ通話ボタンを押す。
『おはよう! ミナトくん、今日はみんなで夏祭りに行くよっ!』
朝っぱらから、でかい声だ。
いや、まあ、もうすぐ正午なんだけどさ。それにしたって、夏祭りだと?
俺は携帯を肩にはさみ、ソーセージに切れ目を入れつつ、「相変わらず唐突な申し出だな」と返してやった。
『しかたないじゃん! 今日の朝、やっとアクラブが帰ってこれたんだもん! それでちょいと調べてみたら、今日はミナトくんの地元で夏祭りだっていうから、これはきっと天啓だと思ってさ! 今、突貫工事で結界を張ってる真っ最中なの!』
「結界がどうしたって? 夏祭りの話じゃなかったのかよ?」
『だから、お祭りの会場全体に結界を張ってるんだよ! 邪魔者に邪魔されないようにねっ!』
「ちょっと待て。俺の地元の夏祭りってことは、会場はあの公園だろ? あの馬鹿でかい敷地全体を結界で囲いこむ、ってのか?」
『そうだよん。遊泳区域からホテル全体まで囲った海水浴の時に比べれば、まだ小規模なほうさ。……ただし今回は、会場全体に退魔型の強い結界を張る! 前回の反省を活かしてねっ!』
「俺は魔術のことなんてよくわからんけど、そいつはずいぶんな手間なんじゃないのか? ……それに、あの海水浴から、まだ五日間ぐらいしか経ってないぞ?」
変に気を回して俺たちから距離を取ろうとするんじゃないぞ?と示唆してやったのは他ならぬ俺なのだけれども、それにしたって、スパンが短すぎる。
七星を信用していないわけではないが、致命的なまでに人格の破綻しているやつではあるので、そこだけが心配だ。
『だから絶対、今回だけは隕石が直撃しようとも魔術師に襲撃されようとも誰ひとり危ない目にあわないように、こうして下準備を頑張ってるんじゃん! もなみだって、あの海水浴以降は上ノ浦の調査で大わらわで、この一週間ほとんど寝てないぐらいなんだからねっ!』
「だから、そうまでして無理に遊びの計画をたてることはないだろうがよ? ラケルタだって、やっと少し元気になってきたばかりなんだろ?」
切れ目を入れたソーセージを、沸騰させた鍋の中に落とす。こうすると添加物をだいぶ除去できるらしいのだ。ソーセージ好きの猫を飼うクラスメートから得た豆知識である。
それはともかくとして。俺の乗り気でない発言に、七星はいよいよボルテージをあげてきた。
『だって! 妹ちゃんって、もうすぐアメリカに帰っちゃうんでしょ? もなみも明日からまた今まで以上に忙しくなりそうだから、妹ちゃんと遊ぶのは今夜がラスト・チャンスなんだよ! だから絶対、お祭りに行くの! 断られたら、もなみは泣く! 一週間は泣いて過ごす!』
「いや、だけどさ……」
『浴衣だってもう準備したんだよっ! もしも今回、誰かがほんのちょっぴりでも危ない目にあったら、もなみは腹を切るっ! だから、みんなで遊ぼうよぅ』
「泣きそうな声だすな、馬鹿。……ラケルタのやつは、本当に大丈夫なんだろうな?」
『うん! 日本のお祭りは初めてだってワクワクしてるよっ! ミワちゃんだって楽しみにしてるよっ! 意地悪言うのはミナトくんぐらいだよっ!』
誰が意地悪だ。このメンバーの中では俺が一番理性的ってだけの話だろうが。
「ちょっと待ってろ」と言いおいて、俺は携帯電話の口をふさぎ、ダイニングの椅子でブランチを待ちわびているトラメを振り返る。
「トラメ。七星のやつが今晩、またいつものメンバーで夏祭りに行きたいとか言ってるんだが……」
「勝手にしろ」
う、早い。
そんなことより食い物はまだか、とその黄色い目が如実に訴えている。
駄目だ。俺が寝坊をしたためにけっこう空腹が限界まできているらしい。
「……わかったよ。ただし、ナギと宇都見が何て言うかは、聞いてみるまでわからねェからな?」
『そんなの駄目っ! ミナトくんの全責任において、必ず全員参加させてっ! さもなければ、もなみは泣くっ!』
「勝手に泣いてろ。返事があったら、メールでもするよ」
『うんっ! ミナトくんを信用してるからねっ! そして大好きだよっ! それじゃあまた!』
電話は、切れた。
突然のスコールでずぶ濡れにされた気分だ。
俺は湯通ししたソーセージの水分をキッチン・ペーパーで入念に吸い取ってから、そいつを油で軽く炒めた。
ようやく準備完了だ。
ドンブリに飯を盛り、大量のカツオブシと、少量の醤油。そして刻んだソーセージをまぶしてやり、トラメのもとまで持っていってやる。
「お待たせいたしました。当店自慢のネコマンマでございます」
トラメは、無言でフォークをつかんだ。
俺がちょっとした想念にとらわれて「ちょっと待った」と制止すると、黄色い目が険悪さを増して俺を見すえる。
「そういえば、あの海水浴のときに思ったんだけどさ。食前と食後に何の挨拶もないってのは、現し世のマナーにずいぶん反してる気がする。『いただきます』と『ごちそうさま』ぐらい覚えたらどうだ、トラメ?」
「……何を言っているのだ、貴様は?」
「いや、だからさ、俺なんかは別にどうでもいいんだが、他人様から豪勢な食事をふるまわれてるのに挨拶もなしってのは、ちょっと礼儀知らずに見えちまうなぁと思ったのさ。あと、現し世の食糧ってのはどれも何かしら人間の苦労や手間ひまを経てこの食卓にまでたどりついてるんだから、そういったもんに感謝の念をしめすって意味合いもあるんだよ」
「……どうしてそのような話を、今、この場で聞かされなくてはならないのだ?」
あれ。心なしかトラメの険悪な眼光に苦渋の色まで混じりはじめた気がする。
そんなに腹が空いてたのかよ。ちょっとした思いつきだったのに、何だか悪いことをしちまったな。
「ごめんごめん。おあずけくわせるつもりじゃなかったんだ。でもまあ服を着たり風呂に入るフリをするよりは簡単だろ? 『いただきます』って言うだけでいいんだから」
嫌なら嫌でべつにかまわないけどな、と俺が続けるより早く、トラメは俺の見本通りに手を合わせて、「いただきます」と静かに言った。
で、恨みがましい目で、また俺を見る。
「……ばっちりだ。思うぞんぶん、召し上がれ」
トラメは小さく息をついてから、フォークでパクパクとネコマンマを食しはじめた。
まいったな。何だか、食事をダシに言うことを聞かせていた、トラメと出会った当初のことを思い出してしまう。
そんなつもりじゃなかったのにな、という罪悪感までわいてきちまったじゃないか。
また、その反面、素直に言うことを聞いてくれたトラメの姿に、微笑ましさまで感じてしまった。
汚いよな。ふだんがぶっきらぼうすぎるだけなのによ。
おっと、そんなことよりも、ソテーに火が通りすぎてしまう。俺はあわててフライパンのフタを開け、バターの風味も豊かなシャケのソテーを大皿に移し替え、再びテーブルまで給仕してやった。
「お待たせいたしました。北海道産サーモンのバターソテーでございます」
「……いただきます」
「いや、いただきますは最初の一回でいいんだよ」
トラメはうんざりしたように顔をしかめ、それでも美味そうにソテーを食しはじめる。
俺はついつい口もとをほころばせ、うるさがられるのを承知で、トラメの頭をくしゃくしゃにかき回してやった。
案の定、じろりとにらみ返されてしまったが、まあいいだろう。こんな親愛の挨拶をするのもひさしぶりのことじゃないか。ナギのいる前では、さすがにそこまで気安くはできないしな。
誤解のないように言っておくと、俺たちは今でもけっこうな頻度でいがみあっているのだ。
さすがに同居生活のスタート時に比べれば激減したといってもいいぐらいだが、そこはやっぱり人間と幻獣であるからして、意見や感情の衝突は避けられない。
魔術師どもとの抗争を経て、俺もさまざまな気持ちに気づかされることになってしまったが、だからといって、なあなあの関係など俺たちには似合わないだろう。
持って生まれた性格は変えられないし、おたがいが自然体である上でのいがみあいなのだから、それはそれで別にかまわないと思う。
だからまあ、その逆に、こんなのどかな雰囲気になることだってあるさ。
トラメが炊飯ジャーの中身をすべてたいらげるまで、俺はぼんやりとその姿を眺め続けることになった。
そういえば俺も腹が空いていたんだった、ということを思いだしたのは、トラメに「ごちそうさま」を唱和させた後になってからだった。




