海魂
七星の反応は、早かった。
がばっと勢いよく身をおこすや、猫科の猛獣じみた仕草であたりを見回しはじめたのだ。
「お、おい、どうしたんだよ、なな……」
「結界が、破られた。ホテルじゃなくて、海側のほう!」
あやうく苗字を呼びかけてしまったが、それどころではなかった。
七星の言葉の意味を反芻しつつ、俺もあわてて周囲に視線をめぐらせる。
どこにも、何にも変化はない。
青い空と、白い雲。おだやかな波に、灼けた砂浜。
さっきの家族たちは変わらぬ様子で砂遊びをしていたし、ナギと八雲は、ボートの上だ。
しかし……緊迫しているのは、七星だけではなかった。
パラソル下に集結していた三人の幻獣娘たちは、一様におっかない顔で両目を光らせており、そして、ヒトツは……
ヒトツは、怯えていた。
怯えつつ、一心に、海面を見つめていた。
「ん……どうしたの、磯月?」
すやすやと眠っていた宇都見が、突然むくりと身を起こす。
それと同時に、黄色い悲鳴が、夏の浜辺に響きわたった。
ナギの声だ。
ナギと八雲、二人を乗せたビニールボートが、海上で激しく揺れていた。
海面はとても穏やかなのに、まるで下から「何か」に揺さぶられてでもいるかのように、ボートが激しくバウンドしはじめたのだ。
そうと見てとった瞬間に、俺は反射的に立ち上がっていた。
その腕を、横から七星につかまれる。
「ミナトくんは動かないで! 妹ちゃんは絶対に無傷で助けてみせるから……」
その声に、新たな悲鳴がかぶさった。
波打ち際で遊んでいた家族たちだ。
振り返ると、信じ難い光景が、そこには広がっていた。
砂遊びをしていた三人のもとに、海面からのびあがった透明な水の壁が、まるで津波のごとく襲いかかろうとしていたのだ。
七星は、ものも言わずに、そちらへ駆けだした。
もちろん俺も、無言でその後を追っていた。
走りながら、七星はその手に銀色の錫杖を現出させる。
そいつをバトンみたいにくるくる旋回させながら、七星は怪異のまっただなかへと飛びこんだ。
「もなみのバカンスを、邪魔するなぁっ!」
三人家族を飲みこんだ水の壁に、七星が錫杖を叩きつけた。
落雷じみた閃光と轟音が炸裂し、三つの身体が、砂浜に吐きだされる。
海は、まるで生あるもののようにするすると引き下がっていき、俺は、倒れこんだまま動かない三人のほうに駆け寄ろうとした。
それを再び、七星にさえぎられる。
「危ないよ! 憑依されちゃった! こいつはなかなか厄介な相手だね!」
ゆらり、と三人が立ち上がった。
でっぷりと肥えた、アロハのおっさん。
スレンダーな、若い奥さん。
小学生未満の、小さな女の子。
三人の目が、青く、不気味に発光している。
びしょびしょに濡れそぼったその顔は、泥人形のように無表情だった。
「大丈夫! すぐに解放してあげるからねっ!」
叫びざまに、七星が錫杖の柄を奥さんのみぞおちに叩きこんだ。
容赦もへったくれもない一撃だ。
奥さんは力なくその場にへたりこみ、口から大量の海水を吐いた。
その海水の塊が、まるでアメーバのようにぐにょぐにょと蠢くのを見て、俺は心底ぞっとした。
「あらよっと」
錫杖の先端でその不気味な水妖を四散させ、かえす勢いで、今度は女の子のみぞおちに柄を叩きこむ。
それをおしのけるようにして、大柄なおっさんが俺に襲いかかってきた。
「うわぁっ!」
反射的に、その図太い土手っ腹に膝蹴りをぶちこんでしまう。
女の子もおっさんも崩れ落ち、口から、蠢く海水の塊を吐き出した。
「あははは。ミナトくん、ナイス暴力!」
笑いながら、七星は水妖を始末していく。
しかし、笑っている場合ではなかった。
いったん引いた海面が、今度はさっきに倍する勢いで、俺と七星に襲いかかってきたのである。
波の高さは、およそ三メートル。周囲の海面は静まりかえっているというのに、なんと不自然な光景だ。
「うわわ。こいつはヤバいかな?」
背をむけても逃げ切ることは不可能だっただろう。ゆえに、七星はその場に踏みとどまって、頭上で錫杖を旋回しはじめた。
俺は呆然と立ちつくし、そして、背後から響くトラメの大声を聞いた。
「ミナト! 動くな!」
言われなくても、動きようがない……そう思った瞬間、ふわりと両肩に何かが舞い降りてきた。
白くて細い女の足が、俺の胸もとに垂れてきて、頭を、わしづかみにされる。
言うまでもなく、トラメだった。
背後から駆けつけたトラメが、何故かいきなり肩車の体勢で俺の肩に飛び乗ってきたのだ。
危うくバランスを崩しそうになった俺は、あわててトラメの膝小僧をおさえつける。
「我が同胞たるネヌファの子らよ。我に害なす敵を斬り裂け!」
ひさびさに聞く、トラメの不思議な呪文の声。
三メートルはあろうかという水の壁は、俺と七星の目の前で、木っ端微塵に弾け飛んだ。
ものすごい質量の海水が、まるでスコールのように三人家族の身体に降りそぼる。
とたんに、俺は頭を無茶苦茶にかき回された。
「もっと退がれ! 濡れるではないか!」
「うわ、馬鹿、暴れんなよ。危ないって」
「倒れるな! 倒れたら絞め殺すぞ!」
せっかく助かった生命を紛失してしまわぬよう、俺はふらつく足取りで後方に引き退がった。
「トラメちゃん、ナイス魔法! ほんとに精霊魔法も得意なんだね! たのもしいなぁ」
同じように後退しながら、七星が笑っている。
しかし、その目はまだ臨戦態勢のまま恒星のごとく燃えていた。
当たり前だ。ナギたちはまだ遥かな海上でかぼそい悲鳴をあげているのだから。
「雑魚だな。取るに足りない水妖だ。……ただし、その数が尋常ではない」
そう言ったのは、アクラブだった。
いつのまにか、アクラブたちも波打ち際まで出てきていたのだ。
ただし、ヒトツだけは自分の意志で出てきたわけではないらしい。恐怖に青ざめ、全身を小刻みに震わせつつ、じっと海のほうを見すえている。その両肩は、背後からしっかりアクラブにつかまえられてしまっていた。
トラメはひらりと砂浜の乾いた部分に降り立ち、七星は、難しい顔でアクラブを振り返る。
「そうだよねぇ。じゃなきゃ、もなみの結界を破れるはずないもん! もなみの術式で簡単に撃退できるていどの相手だけど、でも、さすがにあそこまで泳いでいくのは無謀かなぁ?」
「当たり前だ。途中で護符の効力が尽きるぞ」
「ああ、その護符もヒトツちゃんに献上しちゃったんだっけか。うーん……アクラブって、水中は大の苦手なんだよね? これだけの数の水妖を相手にするのは、ちょっとキツい?」
「ふざけた口をきくな。こんな下等な水妖どもに、私が遅れを取ると思うのか?」
サングラスのむこうで、アクラブの両目がギラッと光ったような気がした。
「ただし、隠り身の力を解放せんことには話にならん。私に水遊びをさせたいなら、契約を行使しろ。……それ相応の覚悟をもって、な」
「ん、覚悟?」
「ああ。『水』は私の天敵なのだからな。私を水中に追いやり、水の怪どもの始末などを命ずるつもりなら、ごっそりと寿命を削られることになるぞ」
「むははは。了解! 大っ嫌いな水遊びをさせることになっちゃってごめんねぇ、アクラブ? ……ではでは、七星もなみの名において命ずる……」
「おい、ちょっと待てよ! そんな簡単に寿命の無駄づかいをすんな!」
俺はあわてて七星の肩をひっつかんだ。
七星は、不思議そうに小首をかしげる。
「なに言ってんの? 妹ちゃんとミワちゃんのためじゃん! たとえコレで寿命が尽きようとも、我が生涯に一片の悔いなしでございますぞ?」
「お、お前こそ何を言ってやがる! こんなところで死んじまったら、お前の復讐はどうなるんだ?」
「うむむ? それは別に、もなみの力が足りなかったってことでしかたないんじゃない? 復讐はもなみの生きる目的だけど、目的のために生きざまをねじ曲げるようなもなみちゃんではないのです!」
「……生きざま?」
「そう! 視界に入る人間はすべて助ける! それがもなみの生きざまさぁ!……だからできるだけ大人数が視界に入らないように慎ましく生きてきたんだけど、この数週間で一気に知り合いが増えちゃったから、負担が増すのはしかたないことなの」
そう言って、七星は何の憂いもなさそうに、笑った。
「そういったわけで、契約を行使します! 七星もなみの名において命ずる、ギルタブルルのカルブ=ル=アクラブよ、我が望みを……」
「やめろ! だったら、俺がトラメに頼む! アクラブよりはトラメのほうが、まだ『水』との相性もいいんだろ?」
「ダメだよ、そんなの! これはもなみ企画のバカンスなんだから、不祥事はもなみの手で片付けるの!」
七星が反抗的にそう答えたとき、ひときわ大きな悲鳴が響いた。
ビニールボートが、ついに転覆してしまったのだ。
こうなったらもう、早いもの勝ちだ。俺と七星は同時に契約の詠唱を唱えはじめ、それを、背後からの声に叱責された。
「いいかげんにしてヨ! ミワが死んじゃうジャン! 契約の行使なんて必要ないから、モナミがウチと一緒に来てヨ!」
ラケルタである。
ラケルタは、藍色の瞳を爛々と燃やしながら、七星の腕をひっつかみ、強引に海へと突進しはじめた。
「ちょ、ちょっと、ラケルタちゃん! アナタこそ、この中で一番の満身創痍でしょ?」
「こんな水妖どもをやっつけるのに、ウチの魔力なんて必要ないヨ! 駆逐はアンタにまかせるから、ミワを助けてッ!」
「助けるよ。助けるから、ラケルタちゃんは無理しないでってば!」
「無理なんてしなくても、水の中だったらウチが一番役に立つサ!」
波打ち際で振り返り、俺たちにむかって、舌を出す。
たぶん、トラメやアクラブに対する意趣返しなのだろう。二人は憮然とラケルタの小生意気な顔をにらみ返している。
「……それに、アンタに早死にされちゃったら、ウチとミワが路頭に迷っちゃうでショ? こんな雑魚どもに寿命を削るなって言ってんのサ! アンタのその妙チクリンな武器があればこんな雑魚どもは物の数じゃないから、アンタが責任をもってやっつけちゃってヨ!」
「妙チクリンとはご挨拶だねっ! でもわかったよ、ラケルタちゃん! 二人でミワちゃんの窮地を救いに参りましょう!」
「待て! だったら、せめてこいつを持っていけ!」
俺は大急ぎで琥珀のペンダントを外し、それを七星に投げつけてやった。
七星は片手でそれをキャッチして、嬉しくてたまらぬような笑顔をむけてくる。
「やっぱり大好き、ミナトくん! 妹ちゃんは絶対に助けてみせるから、そこでもなみの勇姿を見守っててね!」
それを横目に、ラケルタが海中に身を沈める。
おそらく隠り身の本性に戻ったのだろう。護符をつけ終えた七星がラケルタの消えたあたりまで足を進めると、突如としてその身体が、爆発的なスピードで前進しはじめた。
「ひゃっほーっ! 気持ちいいっ!」
ジェットスキーさながらの勢いだ。
とたんに左右の海面が盛り上がって七星に襲いかかってきたが、その手の錫杖が振り回されると、水妖はあっけなく空中で砕け散った。
いっぽうナギたちはというと、転覆したボートにしがみつきながら、何やらバシャバシャと水しぶきをあげている。
海中にひきずりこまれたりしていないのは幸いだが、この距離では何がどうなっているのかもわからず、俺は生きた心地がしなかった。
「ね、磯月……あの人たちは、あのままでいいのかなぁ?」
と、宇都見が心配そうに俺の腕を引いてくる。
ああ、不幸な三人家族は半分海に浸かりながら、死人のように横たわったままなのだ。
俺は十分に用心しながら、宇都見と協力して三人の身体をパラソルのあたりまで運搬してやった。
「……大丈夫か、ヒトツ?」
それから、相変わらず恐怖の表情のままアクラブに捕獲されているヒトツに呼びかけてやる。
七星の奮闘を遠くに見やりつつ、ヒトツは、震える声で言った。
「どうして? ……まだ水神祭の時節じゃないのに、どうして海魂が……」
「うみだま?」
驚異のオカルト馬鹿と腐れ縁である俺をして、そのような名前の怪異は耳にしたことがない。
もしかしたら、これは上ノ浦や海野家の神事にまつわる怪異なのか?
「……わたしは、もう、海に近づいちゃいけないんだ……」
ぼんやりとつぶやく。そのなめらかな褐色の頬に、透明のしずくがすうっと一筋、流れ落ちた。
その面は、ひどく静かな絶望感にふさがれており、俺は何とか元気づけてやりたかったが、どうしてもかける言葉を見つけることができなかった。
「おーい、ミッション達成だよぉ。もう危なくないから、誰か手伝ってぇ」
わずか数分で、七星は悠々と凱旋してきた。
そのふだんと変わらぬノーテンキな声音に、俺はほっと息をつく。
ナギと八雲は、ボートの上でぐったりと横たわっていた。
それを砂浜までおしこんでから、七星は何やら神妙な顔つきで両腕を海面にさしのべる。
「ラケルタちゃん、大丈夫? ……ミナトくん、ちょっとタオルを持ってきてあげて!」
何だかよくわからないが、とにかく俺はビーチタオルをひとつひっつかみ、宇都見とともに七星のもとまで走り寄った。
ラケルタの小さな身体が、七星に抱かれている。
その身体が一糸まとわぬ裸身であることに気づいて、俺はすかさず目をそらした。
そうか。隠り身に戻っちまうと、着ていたものは何もかも塵と化してしまうんだったな。
「そうそう。こっちは男子禁制だからねっ! 二人は妹ちゃんたちを介抱してあげて!」
俺はうなずき、ボートのかたわらに膝をついた。
二人ともに、意識は失ってしまっている。が、八雲に寄り添うようにして横たわっているナギはどこにもかすり傷ひとつ負っている様子はなく、寝顔も安らかで、俺はあらためて安堵の息をつくことになった。
「うわ……八雲さん、大丈夫なのかなぁ?」
「なに?」
宇都見の声に、あわてて目線を転じた俺は、そこに、生々しい格闘の痕跡を発見してしまった。
八雲の白い首に、くっきりと、紫色の指の痕が刻みつけられてしまっていたのだ。
「妹ちゃんは護符をつけてなかったから、さっきの人たちと同じように憑依されちゃってたの。で、護符のおかげで憑依されてなかったミワちゃんに襲いかかってたってわけ」
これは、ナギの指先の痕なのか。
俺は愕然と言葉を失い、そんな俺に、七星は申し訳なさそうな声をかけてくる。
「ごめんね! ほんとに隕石直撃しちゃったよ……こんなはずじゃあなかったんだけどなぁ。まさか魔術結社とは関係なしに、ゆきずりの怪異に見舞われるなんて計算外だった!」
いや、ゆきずりなんかではない。もちろん魔術師なんぞとも無関係なのだろうが、きっとこれは、起こるべくして起きた怪異なのだ。
しかし、今はそのようなことを取り沙汰している場合ではない。俺は八雲の呼吸や表情に異常がないことを確認してから、立ち上がって、七星と相対した。
「何はともあれ、おつかれさん。本当に感謝してるぜ、七星。……ラケルタも、無事なんだろ?」
「ん……実はそれが、微妙なとこ。やっぱりもなみが寿命を削るべきだったんじゃないかなぁ」
七星は、思いの他しょげた顔をしていた。
が、その理由は問い質すまでもなかった。
七星の腕に抱かれたラケルタは、ナギや八雲とは比較にならぬほどのダメージを負ってしまっていたのだ。
死人のように昏睡してしまっている。その閉ざされた右まぶたから頬にかけて、黒い亀裂が走りぬけ、白い皮膚がポロポロと剥がれはじめてしまっていた。
あの夜と、同じ現象だ。
「もなみ……」
そこに、ヒトツがひたひたと歩み寄ってきた。
その頬を伝う涙に気づいて、七星が目を丸くする。
「どしたの、ヒトツちゃん? アクラブにいじめられた? 悪いオバケは全部もなみがやっつけてあげたから、何にも心配はいらないよ!」
ヒトツは、小さく首を振り、この世ではないどこかを見すえているような目で、七星を見た。
「早くわたしを、海の見えない場所まで連れていって。わたしがここにいたら、また海魂がやってきちゃう」
「海魂? さっきのアレは、もしかしてヒトツちゃんを追ってきたの?」
「きっとそう。いつもだったら、八月になるまでは大丈夫なんだけど。もう六年も鎮魂されていないから、海魂があふれだしちゃったのかも……ごめんなさい」
「ん。どうしてヒトツちゃんが謝るのかな?」
「だって、わたしのせいで、もなみたちが危ない目に……」
「そんなのヒトツちゃんには関係ないよ! そんなことでヒトツちゃんを責めるフラチ者がいたら、もなみが成敗してあげよう!」
七星は笑い、ラケルタの身体を抱きかかえたまま、ぐっとヒトツに顔を近づけた。
その舌が、ヒトツの頬から、ぺろりと涙をなめとってみせる。
「さっきのもなみの生きざま表明を聞いてなかった? もなみはこの目に映るすべての人を助けるって決めてるの。もなみの視界に入ったからには、ヒトツちゃんも安心してもなみに救われちゃいなさい!」
ヒトツは、何も答えなかった。
海は、何事もなかったかのように、太陽の下で明るくきらめいている。
とりあえずの脅威は去った。しかし、きっとまだ何も解決はしていないのだろう。
ぬけるように青い空を見上げながら、俺は、全精力を振りしぼって、溜息をかみ殺した。
何をどう考えればいいのかもわからない。
ただ、はっきりしているのは、溜息などをついている場合ではない、ということだけだ。
想像もつかないほどの重苦しい運命を背負わされた娘二人を前にして、俺あたりが溜息などをついていられるわけもなかった。
 




