別府温泉2
別府支店。
副所長、宮本賢治。
歳は30代前半で、結婚5年目の妻がいる。
2人の関係は新婚当時よりも冷めていた。
その原因は、子宝にはめぐまれなかったことだろう。
具体的なデータはないが、子供が出来ない夫婦は離婚率は高いといわれている。
一時の恋愛熱が冷め、子育てという大変な共同作業を一緒にこなしていない場合。
2人の絆を維持するのが難しいからだといわれている。
賢治は妻との関係が中途半端だと思いつつも、完全に冷めたとは思っていなかった。
一時の想いの高まりが冷め、家族のような暖かさになったのだと感じていたのだ。
そう自分を納得させていた。
しかし。
それは「刺激」がないことを示していた。
妻と2人でいて居心地のよさを感じることはあっても、心は動かなかった。
昔のような気分の高まりも、情熱も感じなかった。
つまり、今の状況に物足りなさを感じていたのだ。
そして。
30代前半にもなれば、自分の実力も、世間についても大まかに分かってくる。
多くの人間同様、賢治には特別な才能はなかったのだ。
それを強く実感した。
若ければ反発して何かしら努力するかもしれないが・・・
30代前半にもなれば、ただ今の状況、自分の現状を認めるようになる。
賢治は有名な歌手のように、たくさんの人を魅了する曲をつくれるわけでもない。
歴史に名を残す画家のように、人の心を動かす絵をかけるわけでもない。
偉大な科学者のように、生活をよりよくする新しい技術、知識の体系を作れる程、頭が良いわけでもない。
一部のスポーツ選手のように、世界中の観客が驚くプレーが出来るわけでもない。
つまりは普通の人だった。
でも、結婚して妻がいるため仕事をしなければならない。
特段興味がある仕事ではないが、頑張らないといけない。
しかし、頑張ったからといって何か具体的な成果が出るわけでもない。
成績が悪くなることさえある。
別に自分だけがそうだけでなく、多くの人が同じ状況だと思いつつも・・・
賢治はどこか不満を抱えていたのだ。
何か起こることを期待していたのかもしれない。
よくあるネット小説のように、いきなりチート能力を得て無双を始められるかもしれないと。
そんなことは起きないと思いつつも、日々を過ごしていた。
それに、今の状況に別段特別な不満があるわけでもないのだ。
特に好きでもないが、嫌いでもない仕事がある。
一時の熱は冷めたが、家族のように思い始めた妻もいる。
何不自由することはない。
そんな賢治の下に、ノゾミが現れたのだった。
―――これが全ての始まりだった。
ある日。
賢治が会社に向かうと新しい出向社員が来ていた。
中々の美人で、若い女の子。
名前はノゾミ。
なんでも雪国、北海道から来たということだった。
北海道から九州への大移動。
これまた長距離を移動したのだと賢治は思った。
話を聞くと・・・
なんでも数ヶ月程別府支社に在籍し、その後は他の赴任地に移動するらしい。
つまりは慰労人事だ。
会社に貢献した社員をねぎらうもの。
ここ、別府支社は度々この手の人事を受け入れることがあった。
大抵は退職間際の高齢の役員が来ることが多い。
その手の人に対して、賢治は度々温泉街の案内をしたのだ。
所長は他の仕事で忙しい、だからといって若い社員にお偉いさんの相手をさせるわけにもいかない。
即戦力の社員を当てれば業務に問題が出る。
そこで、副所長という立場にいる賢治の出番だった。
しかし、20代の女性がこの手の案件でくるのは初めてだった。
そのため賢治は驚いたのだ。
若い女性なのに、随分仕事が出来るんだと感心した。
そして、今回も賢治が案内人に選ばれた。
出向社員、ノゾミに温泉街を案内するのだ。
幸い今の時期の仕事は一段楽していることもあり、それ程忙しくない。
それに、こんな美人と温泉街を回るのが仕事だと思うと、役得だと思ったのだ。
賢治はさっそくノゾミに観光地を案内した。
高齢の男性社員なら温泉地を勧めるのが一番だが、若い女性は初めてだった。
それに異性なので、一緒に入浴するわけにもいかない。
そのため。
入浴ではなく、奇妙な温泉の景観を楽しむ「別府地獄めぐり」することにした。
有名なのは8つの地獄だ。
※因みに「地獄」とは、入浴ではなく観覧を目的とした温泉のことをいう。
「海地獄」:硫酸鉄によるコバルトブルーの温泉。98度の高温である。
「鬼石坊主池」:地味な場所なので割愛。
「山地獄」:火山の噴火のように、モクモクと水蒸気が沸き立っている岩肌。圧巻である。他の場所の用に温泉ではない。
「かまど地獄」:他の地獄の様子をダイジェストのように集めた場所。
「鬼山地獄」:近くにワニ園があり、100頭近いワニがいる。
「白池地獄」:近くに熱帯魚館がある。
「血の池地獄」:酸化鉄などによって赤く染まった温泉。
「龍巻地獄」:30-40分の感覚で吹き上がる間欠泉。100度近いお湯が吹き上がるのでちょっと危険。
初めてみる景色にノゾミは興奮しているようだった。
その姿を見ると賢治の心が沸き立った。
やはり、普段案内するおじさんとは反応が違う。
若い女の子の黄色い反応は、賢治の冷めた心を暖めた。
止まっていた心が、鈍くなっていた感受性が動き出したのだ。
そのため、ついつい饒舌で雑学を披露した。
『数ヶ月前に、あの池で観光客が温泉に落ちた』等の、周りの知人から聞いた笑い話。
『あの温泉に5円玉投げ込むと、片思いが叶うらしい』等の、地元の噂話レベルのものまで、全て話した。
ネットにはのっていない、地元産の話だ。
ノゾミは一つ一つの話をよく聞いてくれて、面白がってくれた。
きゃぴきゃぴ笑ってくれた。
自分の話が受けたこと、若い女の子を喜ばせたことで、賢治の心は満たされたのだった。
何か自分に対して自信のようなものがついたのだ。
異性といて楽しい感覚。
心が満たされて充実した感覚。
ワクワクして一瞬で時間が過ぎ去り、言葉が次々出てくる感覚。
久しぶりに感じた感覚に、賢治の頭と心はリフレッシュされた。
体の底から活力が湧いてきたのだった。
そのため賢治は、案内の終わりについつい切り出してしまう。
「その、休日も案内できるけど、どうかな?」
別に深い意味はない。
観光地を見て喜ぶノゾミの姿をもっと見ていたかったのだ。
それに事実、まだまだ紹介していない場所がたくさんあったのだ。
ノゾミは少し考えてから・・・・
「いいんですか?」
っと賢治に問いかける。
ノゾミの目は、賢治の左手の薬指、結婚指輪を見ていた。
賢治は内心しまったと思った。
自分は結婚している身。
独身の女性を休日に誘うことは良くないと瞬時に悟ったのだ。
ノゾミの言葉の意味も悟った。
「結婚しているのに、私と遊んで良いですか?奥さんがいるのにいいんですか?」
それが心意だろう。
だが・・・つい言ってしまったのだ。
それにノゾミの言葉を聞く限り、彼女は乗り気のようだった。
だから賢治は続ける。
「大丈夫だよ。観光地を案内するだけだから。せっかく別府に来たんだから、この地の素晴らしさを知ってほしいんだ」
特別な意味などない。
ただ観光地を紹介したいだけ。
その意味を強調する。
実際、賢治は今の段階ではノゾミに特別な感情を抱いていなかった。
ただ、もう少しだけ一緒にいたいと思っただけなのだ。
今日感じた感情をもう少し味わいたかった。
久しぶりに感じた心の充実感をもっと感じていたかったのだ。
ほんの少し動いた感情。
日常に紛れ込んだ刺激。
ただそれだけ。
賢治が表情をとりつきながら、内心ドキドキしながら答えを待っていると。
ノゾミは答えた。
「でしたら、お願いします。私、温泉好きなんです」
「よかった」
賢治はほっとした。
そして内心喜びの叫び声をあげたのだった。
心の中は沸き立っていた。
まるで学生時代に、気になる子をデートに誘ってOKを貰った時の気分だった。
思えば、随分こんな気分になっていなかった。
こうして、賢治は休日にノゾミと温泉めぐりをすることになった。
勿論、妻には内緒だ。
仕事が入った、職場の友達と遊びにいく当等、適当に嘘をついたのだった。
結婚して5年目。
同棲して5年目。
偶の休日には一人になりたいこともあり、このての嘘をつくことにはなれていた。
それに、妻の方もそれを歓迎しているようだったのだ。
妻も独りになりたい時があったんだと思う。
―――こうして、賢治とノゾミの関係は進んでいった
―――ゆっくりと