16話
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雑居ビルの外に出ると、日はすでに傾きかけていた。狭い路地に射し込む夕日が、やけに眩しく感じられた。ついさっきまでいた、あの生活感のない部屋の空気と、外の世界の温度差に、和也はしばらく立ち尽くした。
自分は今、悠人の名前を使って、あの男と取引をした。まだ何も渡してはいないが、いずれ渡すことになる。それが、悠人のためになるのか、それとも、悠人をまた別の形で消費することに加担しただけなのか、今の和也には、判断がつかなかった。
転送されたメールアドレスとスクリーンショットを、和也はもう一度、携帯の画面で確認した。
『マーケ会社への発注は、私が担当しました。これ以上、見て見ぬふりはできません。事実を伝えてください』
橘涼は、この一文の裏にある人間に、何の関心も持っていなかった。だが和也には、この短い文面の向こうに、確かに一人の人間がいることが、はっきりと感じられた。事件が起きるまで動けなかった誰か。悠人が刃物を持った、あの夜がなければ、今も沈黙を守っていたかもしれない誰か。
転送されたスクリーンショットを、和也は何度も読み返した。どの文面も、敬語こそ崩れていないものの、句読点の打ち方や言葉の選び方に、どこか神経質さがにじんでいた。『いつか誰かに知ってほしい』という一文には、公表への迷いと、それでも誰かに背中を押してほしいという願いのようなものが、同時ににじんでいるように見えた。それが、和也の思い込みにすぎないのか、それとも本当にそこにある感情なのか、文字だけからは判断のしようがなかった。
唯一、はっきりしていたのは、送信時刻だった。どのメッセージも、深夜零時から二時の間に送られている。日中は、人目を気にして送れないのかもしれない。あるいは、誰もいなくなったオフィスの片隅で、一人になってようやく、指を動かせる人なのかもしれなかった。
駅へ向かう道すがら、和也は弁護人に電話をかけた。
「先ほど、動画を公開した本人に会ってきました。情報源についての、新しい手がかりがあります」
「……独自に動かないでほしいと、申し上げたはずですが」
「話を聞いただけです。会って、確かめただけです」
電話の向こうで、小さなため息が聞こえた。
「その資料が本物かどうか、裏付けは取ったんでしょうか、あの配信者は」
「本人に聞く限り、していないようです」
電話の向こうで、小さく息を吐く音がした。
「わかりました。今、聞いた内容を、詳しく教えてください」
和也は、橘から得た情報を、順を追って説明した。フリーメールのアドレス、半年にわたるやり取り、事件後に資料が具体化したこと。弁護人は、黙ってそれを聞いていたが、最後に一言だけ、付け加えた。
「そのメールアドレスに、直接連絡を取るのは、お控えください。こちらで、しかるべき形で確認を取ります」
「私が、直接話を聞きたいんです」
「桐生さん」弁護人の声が、いくらか強くなった。「お気持ちは、重々承知しています。ですが、素性のわからない相手と、個人で接触するのは、危険すぎます。何が起きても、私では守りきれません」
「その人は、法的に守られたりは、しないんですか」
「内部告発の内容によっては、公益通報者保護法の対象になる可能性はあります。ですが、それはあくまで、正規の手続きを踏んだ場合の話です。匿名で暴露系の配信者に情報を流すやり方では、保護の対象になるかどうかは、正直、微妙なところです」
その言葉に、和也は言葉を失った。悠人のために沈黙を破った人が、その行為によって、何一つ守られないかもしれない。それでも、この人は動いた。
和也は、それに、すぐには答えなかった。
「弁護人さんは、この人を、どう見てますか」
唐突な質問に、電話の向こうで、少し間があった。
「わかりません。ただ、もし本当に発注の担当者本人だとすれば、その人自身も、これから先、相応の責任を問われる立場になるかもしれません。だからこそ、迂闊に事を進めるのは危険なんです。その人にとっても、悠人さんにとっても」
その言葉には、和也がこれまで考えていなかった視点が含まれていた。情報を渡すことは、その人自身の人生を、橘涼や、その先にいる大勢の目の前に差し出すことでもある。
悠人のために真実を知りたいという思いと、その過程で、また一人、誰かの人生を晒すことになるかもしれないという不安。二つの気持ちの間で、和也はどちらへも踏み切れずにいた。だが、少なくとも一つだけ、はっきりしていることがあった。この人は、悠人の事件が起きるまで、ずっと沈黙を選んでいた。その沈黙を破らせたのが、他でもない、悠人自身だったということだ。
「……考えさせてください」
そう言って、電話を切った。
その夜、和也は転送されたメールアドレスを、新規メールの宛先欄に、そっと打ち込んでみた。件名も、本文も、まだ何も書いていない。ただ、空白の画面を、しばらく見つめていた。
弁護人の言う通りだということは、わかっていた。橘涼のような人間に情報を渡すことの危うさも、素性のわからない相手に直接連絡を取ることの危険も、頭では理解していた。それでも、あの短い一文を送った誰かが、今、何を思って過ごしているのか。それを知ることができるのは、もう、この宛先の先にしかない気がしてならなかった。
件名の欄に、いくつかの言葉を打ち込んでは、消した。『ご連絡』『はじめまして』。どれも、あまりに軽すぎるか、あまりに重すぎるかのどちらかだった。
結局、その夜も、和也は送信ボタンを押せないまま、画面を閉じた。半年もの間、一人で抱え続けてきた誰かに、どんな言葉をかければいいのか。それを見つけるまでは、まだ、もう少し時間が必要だった。
かわりに、和也は別の検索窓を開いた。製薬会社の組織図、マーケティング関連部署の名称、過去の人事異動の記事。表に出ている情報だけでも、発注の決裁ラインに関わりそうな部署の見当くらいは、つけられるかもしれない。派手な手がかりは、何一つ見つからなかった。それでも、闇雲にメールを送りつけるよりは、少しでも相手の輪郭を知ってからの方がいい。そんな思いだけが、和也の中に残っていた。
ノートパソコンの画面には、開いたままのタブが何枚も重なっていた。橘涼のスクリーンショット。組織図らしき画像。そして、まだ何も書かれていない、あの宛先だけのメール。和也は、それらを閉じないまま、朝を待つことにした。
半年前、一人で悩み始めたその人と、二年前から一人で悩み続けてきた悠人と、そして今、ようやく動き出した自分。三人の時間は、これまでずっと、すれ違ったままだった。せめてこれからは、その時間を、少しでも重ねられるものにしたい。根拠のない願いだとわかっていながら、和也はそう思わずにはいられなかった。
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