初めての魔族ー
アナが外へ視線を向けたまま、静かに言う。
「そろそろ目標地点に着きますね」
その一言で、空気がわずかに張り詰める。
オセが口の端を上げた。
「お待ちかねの、出番っすよ」
軽い声音。
ミリィの肩が、ぴくりと揺れる。
「……う、うん……」
返事は小さい。
指先が、無意識にネックレスへ伸びる。
オセはその様子を見て、眉をひそめた。
「どしたんすか?顔色悪いっすよ?」
覗き込むように言う。
ミリィは少しだけ視線を泳がせてから――。
「……魔族って……強い?」
不安が、そのまま滲んだ声だった。
オセは一瞬だけ目を細め、それから肩をすくめる。
「まぁ、ピンキリっすね」
あっさりと答える。
「雑魚は盾で余裕っすし、強いやつでも大体どうにかなる」
一拍置く。
「……でも」
ほんの少しだけ、声の調子が変わる。
「当たり引いたら、別っすよ」
軽く言ったつもりの言葉が、やけに重く落ちた。
ミリィの指が、止まる。
アナが静かに続ける。
「今回の依頼は“魔族の討伐”」
落ち着いた声音。
「つまり、その“当たり”の可能性があるということです」
はっきりと告げる。
逃げ場のない現実。
ミリィの喉が、小さく鳴る。
「……そ、そっか……」
声が震える。
それでも、目は逸らさない。
ネックレスの指輪を、ぎゅっと握る。
馬車の外。
白の群れの先で、空気が変わり始めていた。
やがて、馬車がゆっくりと速度を落とす。
車輪が石を噛む音が鈍くなり――止まった。
外の気配が、変わる。
ざわめきが消え、空気が張り詰める。
アナが静かに立ち上がる。
「さ、参りましょう」
扉へと手をかける。
ミリィの肩が、小さく揺れた。
オセが隣で軽く背を叩く。
「ほら、背中伸ばして」
いつもの軽い調子。
「みんなの前に出るんすから」
ミリィは、ぎこちなく息を吸う。
ネックレスの指輪に触れる。
ひとつ、指先でなぞる。
「……うん……」
小さく頷く。
それでも、足は少し震えている。
アナが扉を開けた。
光が差し込む。
外には――白。
整列した剣聖の盾。
四百の視線が、一斉に向けられる。
ミリィは、一瞬だけ立ち止まった。
その重さに、息が詰まる。
「……ミリィ様」
オセの声が、背中を押す。
ミリィは、もう一度だけ指輪に触れた。
そして。
一歩、外へ踏み出す。
山岳地帯。
空は青く、空気は澄んでいる。
馬車から降りたミリィは、四方を囲む白の中で、わずかに息を呑んだ。
剣聖の盾。
四百の視線が、静かに彼女へと向けられている。
誰も声を出さない。
ただ、待っている。
ミリィは、指先でネックレスの指輪に触れた。
ひとつ、なぞる。
そして――歩き出す。
少し小高くなった丘へ向かって。
足元は不安定な岩場。
それでも、一歩ずつ進む。
その後ろを、武装したアナが続く。
白い甲冑が陽を受けて淡く光る。
さらにその後ろを、オセが気だるそうに歩く。
だが、その視線は周囲を外さない。
丘の上に辿り着くと、ミリィは振り返った。
白。
どこまでも続くような白の群れ。
そのすべてが、自分を見ている。
喉が、わずかに鳴る。
足が止まりそうになる。
風が吹いた。
白いマントが、一斉に揺れる。
それでも。
誰も動かない。
ただ、待っている。
ミリィは、小さく息を吸った。
震えを押さえ込むように。
そして――顔を上げる。
喉が鳴る。
視線の重さに、息が浅くなる。
それでも、ミリィは口を開いた。
「えっと……あのぉ……ま、魔族を見つけたら、教えて……くだぶっ」
舌を噛む。
びくり、と肩が跳ねた。
顔が一気に赤くなる。
風の音だけが、わずかに通り過ぎる。
四百の視線は、そのまま動かない。
ミリィは固まったまま、言葉を失う。
指が、ぎゅっとネックレスを握る。
「……す、すみません……!」
慌てて言い直そうとするが、声が裏返る。
「えっと……その……」
目が泳ぐ。
逃げ場を探すように。
だが、どこにもない。
前には、白の群れ。
すべてが自分を見ている。
オセが後ろで、小さく息を吐いた。
「ミリィ様は、そのままでいいっす」
低く、短く。
投げやりなようで、確信に満ちた声。
アナは一歩前に出るが、何も言わない。
ただ、ミリィの背を見ている。
ミリィは、一度だけ目を閉じた。
深く、息を吸う。
指輪に触れる。
震えは、消えない。
それでも――。
もう一度、顔を上げる。
ミリィは、もう一度息を吸う。
震える指でネックレスをなぞり、顔を上げた。
「魔族を見つけたら、すぐ教えてください!」
声は少し裏返りながらも、はっきりと響いた。
一瞬の静寂。
次の瞬間――。
四百の腕が、一斉に振り上がる。
白の波が、風を切る。
大地が揺れるような声が、山に響いた。
ミリィの肩がびくりと跳ねる。
「ひっ……!」
思わず一歩引く。
目を見開き、完全に固まる。
予想していなかった。
いや、わかっていたはずなのに――規模が違う。
音が大きすぎる。
近すぎる。
視線が多すぎる。
呼吸が一瞬止まる。
その場で狼狽え、視線が泳ぐ。
どうしていいかわからないまま、立ち尽くす。
後ろで、オセが吹き出しかけるのを堪える。
「だから言ったじゃないっすか……」
小さく呟く。
アナは、そんな様子を見て、わずかに口元を緩めた。
白の群れは、そのまま静かに腕を下ろす。
何事もなかったかのように。
ただ――その全員の視線は、変わらずミリィに向けられていた。
アナが一歩前に出る。
「それでは、行動開始してください!」
号令が、乾いた空気を切り裂く。
次の瞬間――白が動いた。
一斉にではない。
だが、迷いは一切ない。
五人一組。
事前に決められた通り、それぞれの方向へ散っていく。
山肌へ駆け上がる者。
岩陰へ消える者。
低く構え、気配を殺して進む者。
白の群れは、あっという間に分解され、山の中へ溶けていく。
音が消える。
残るのは、風と空の青さだけ。
ミリィは、その様子をただ見ていた。
目で追いきれないほどの速さで、仲間たちが消えていく。
「……すごい……」
思わず、こぼれる。
そして――。
「……わたしは、何をしたら……?」
ぽつりと落ちる声。
自分だけが、そこに残されている感覚。
指先が、無意識にネックレスへと伸びる。
オセが肩をすくめた。
「待機っすね」
あっさりと言う。
「報告待ち」
それだけ。
ミリィは、小さく瞬きをする。
「……待つ……だけ……?」
オセは軽く頷く。
「そうっす」
視線を山の方へ向ける。
「必要になったら呼ばれるんで」
一拍。
「呼ばれなかったら、そのまま終わりっす」
あまりにも簡単に言う。
ミリィは、少しだけ唇を噛んだ。
胸の奥に、またあの違和感が広がる。
何もしていないのに、終わっていく感覚。
それでも。
周囲にはもう、白の姿はほとんど残っていない。
静まり返った山の中で。
ミリィは、ただ立ち尽くしていた。
静まり返った山の中。
やることは、ない。
風が吹き抜けるだけの丘の上で、三人は座り込んでいた。
石の上に布を広げ、その上に並ぶカード。
戦場とは思えない光景。
「あ、俺の上がりっす」
オセがカードを叩きつける。
迷いのない手つき。
ミリィの肩が落ちる。
「あぁ……また負けた……」
力なく、手札を崩す。
指先が、少し震えている。
アナが静かにカードをまとめながら、淡々と言う。
「ミリィ様……十戦十敗……弱いですね」
容赦がない。
ミリィはびくりと反応する。
「そ、そんなこと……」
言い返そうとして、言葉に詰まる。
事実だった。
オセがにやりと笑う。
「ミリィ様、読みが甘いっすよ」
カードをシャッフルしながら続ける。
「全部顔に出てるっす」
「えっ……!?」
慌てて自分の頬に手を当てる。
アナは、わずかに息をついた。
「隠す気も感じられませんでしたわね」
淡々と追い打ち。
ミリィは完全にしゅんとする。
「……うぅ……」
小さくうなだれる。
その間にも、オセは手際よくカードを配る。
「はい、次いくっすよ」
軽い声。
戦場の最中とは思えない空気。
遠くで、かすかに何かが崩れる音がした。
だが、三人は気にしない。
カードが配られる。
ミリィは、そっとネックレスの指輪に触れた。
それから、恐る恐るカードを覗く。
ほんの少しだけ、表情が動く。
オセがそれを見て、にやりと笑った。
と、その時。
気配が一つ、丘の端に現れる。
「――報告」
短い声。
空気が変わる。
アナの手が止まった。
次の瞬間、表情が切り替わる。
柔らかな空気は消え、鋭さだけが残る。
「ミリィ様、出ました。魔族です」
静かに告げる。
ミリィの指が、ぴたりと止まる。
カードが、膝の上から滑り落ちた。
「……え」
声が、かすれる。
オセはすでに立ち上がっていた。
「やっとっすね」
軽く言いながらも、目は笑っていない。
アナは続ける。
「前方部隊より接敵報告。現在、交戦中」
一拍。
「――ですが」
ほんのわずかに、言葉を選ぶ間。
ミリィの喉が鳴る。
風が、強く吹いた。
白のマントが揺れる。
静かだった山が、確かに“戦場”へと変わり始めていた。




