6・初戦闘
動物に対する残酷描写があります。
苦手な方はご注意ください。
突如として飛び出してきた野犬は、サトルの動きに警戒をしてか、やや距離を取って唸りをあげている。
野犬の態勢は前身が低く腰が高い。いつ飛び掛かってくるかわからない。
先ほどまでサトルを警戒して距離を置いていたはずなのに、今やすっかり臨戦。一体この短時間で何があってこの野犬は興奮しているのか。
「靴履いて寝てればよかった」
野犬は人間の何倍も素早い。拳を握って打ち込んでも体高が低く当たらない。
野犬はオオカミと違って、自重を支える筋力のある成人男性ならば蹴り飛ばせるサイズの物がほとんどだ。足ならば薙いで広範囲の攻撃もできる。
上手くすれば肋骨などの細い骨を砕くこともできる。
しかし、それもこれも踵の硬い革靴さえ履いていれば。
「素足じゃどこまでできるか……。旅行雑誌じゃ武器にならないだろうしな」
サトルは野犬からは完全に外さないように視界を動かす。
右手地面にルーが持っていたのだろう木の棒があった。登山時に使う杖のような太さと長さのそれは、振り回すにもちょうどいい大きさのように見えた。
サトルは野犬を警戒しつつ、木の棒へと足を向ける。
わずかな動きも見逃さないとばかりに、野犬がバネのように飛び出した。
ヤバい、そう思った時にはすでに眼前に迫る赤黒い口。
牙の鋭さもさることながら、野犬は人間の肉くらい簡単に噛み千切る顎の力を持っている。これが何より怖い。物理的に筋肉をちぎられてしまっては、手足は動かなくなるし、筋肉に血を送っていた血管もとどまることなく血を流すだろう。仮にそこまでひどいことにならなかったとしても、野生の獣に付けられた傷は、こんな衛生を確保できないような状況では、死につながる感染症を引き起こしかねない。
「っだあああああああああ!」
とっさの判断だの、冷静な状況把握だの出来ないまま、サトルはただがむしゃらにしゃがみ地面を転がった。
頭を庇うように掲げた左腕に重い衝撃があったが、すぐにそれは離れていく。多少ひっかけられはしたが、何とか飛び掛かってきた野犬をかわせたらしい。
とにかく武器を確保しなくてはと、杖に手をかける。
掴んで振り向けば野犬は今にもルーに襲い掛かる寸前だった。
サトルは渾身の力をこめ、ゴルフクラブを振るように犬の腹目掛けスイングをかました。重い手ごたえに手首が悲鳴を上げるが、それでも振り抜く。
「女を狙うなんて紳士じゃねえぞ野良犬!」
とっさの言葉に深い意味はない。ただ何かを叫ばずにはいられなかった。ギシリと音を立ててきしんだのは、振り抜いた木の棒か、無理をしたサトルの手首か。
ギャインと割れた悲鳴を上げて野犬が二度三度と地面を転がった。立ち上がろうともがき、四肢に力を籠める野犬。ここで生き物を殺すのかという葛藤はない。殺さなくては自分が殺されるという危機感の方が圧倒的に勝っていた。
サトルは無言で野犬の頭を殴りつけた。二度、三度、四度目で、ようやく野犬の四肢が動かなくなる。
「っ……は……はあ」
殴りつける間詰めていた呼吸が戻ってくる。と同時に、サトルはガクリと膝から頽れた。
「あー……ちくしょう、ごめんな……でも、お前が悪い」
蹲り、命を奪った相手への謝罪と言い訳を口にし、サトルは少しだけ泣いた。
「ゲームじゃないよなあ、やっぱり」
何かを殴り殺す重い衝撃が、両掌に痺れとして残っていた。
立ち回りで踏みつぶした草の、むせ返るほどの青さと、あふれ出た血の錆び臭さ。視界を腕で覆っても、自分のやったことがまざまざと突きつけられるようだった。
耳元で、フォーンフォーンとキンちゃんが鳴いている。心配をしてくれているのだろう。
「あー……ちょっとだけ、黙ってて、まだ現実に付いていけてないから」
頼めばキンちゃんは黙ってくれた。しかし気のせいだろうか、キンちゃん以外にも一つ、
甲高く激しくフォンフォン鳴っているような気がする。
音の出所を探すと、どうやらそれは先ほど殴り殺した野犬の中から聞こえているようで……。
「うそお……ちょ、俺動物の死体なんて捌けないんだけど」