陸に言っていないこと
夏休みの午後、映画を見るために私と陸は渋谷で待ち合わせをした。陸はいつまでたってもやってこない。携帯に電話をしても電波が届かない場所にいるか電源が入っていないとアナウンスが繰り返されるばかりだ。映画の上映開始時間は過ぎてしまった。待ち合わせ場所を勘違いしているのか。私は陸とよく来たカフェに足を向けてみる。そこで陸は本を読んでいた。
「なんだここだったの?映画始まっちゃったよ」
私は不満げな声を出す。陸は本を閉じた。
「携帯も通じなかったし、一体どうしちゃったの」
陸は私の問いには答えず、懇願口調で
「今日は映画はやめていいかな」
「いいけれど・・・じゃあ今日はどうする?」
「ちょっと歩こうよ。話がある」
そういうが早いか、陸はさっさと立ち上がり店を出る。私も足早に従った。日差しが肌を刺す。
私たちは公園についた。木陰のベンチに座り、蛇口で水遊びをしている子供たちを見るともなく見た。
「俺たちが付き合って何年になるんだろう」
「そろそろ五年?」
「長かったな・・・。お互いに変わったよな」
「そうかしら」
「なあ唯恵」
陸は私を見据え、
「お前には俺よりももっとふさわしい男がいるんじゃないか」
「どういう意味よ」
私は背中から冷たい水をぶっかけられたようになる。
「お前の世界をもっと分かってくれて、いろんなことを分かち合えるような男」
「もしかしてこの前のことを気にしているの?彼はただ単にゼミが一緒で・・・・」
「いや、違う」
陸は即座に否定した。深く息を吐いた後で、
「俺は今別の女と会っている」
「そっちのほうが好きなの?」
陸は答えず、
「オーストラリアに行ってから俺は変わった」
「つまり、女は私だけじゃないって気が付いたってわけね」
「いや、そういうわけでは・・・・」
「もしかしてかれんちゃん?違う?」
陸は一瞬苦笑するも、また硬い表情に戻った。
「そうだよね。好きでなければ旅仲間のためにデコレーションケーキまで手配しないよね」
私は嫌味を言った。
「いや、本当に彼女とは関係ないんだ」
陸はけなげにかれんを庇う。私は思いっきり陸の横っ面をひっぱたきたくなった。しかし私にその権利があるだろうか。聖一にやすやすとベッドに引きずり込まれた私に。
「いいよ別に。私だって陸に言っていないこともあるもん」
こっちだって一方的にあんたに捨てられるわけじゃないんだ。しかし私にもはや何の関心もない陸は嫉妬するどころか、
「俺たち、どの道うまくは行かなかったんだな」
と私たちの別れに話の着地点を持っていこうとする。
「留学するんだろう。頑張って」
五年間も付き合って、当然の権利のように、時に避妊もせずに私を抱き続け、それがこんな一言で終わるのか。陸と結婚して家を出る、それだけが私の夢だったのに。短気な私はこんな時泣くよりも怒ってしまう。
「あー、もう!あなたの気持ちは分かったよ。もう良いから向こうに行って!」
私は陸に怒鳴った。陸は礫を投げつけられた野良犬みたいにしょげた顔をしたが、そのまま私に背を向けて、一度も振り返らず公園を出て行った。
つまり、別れたってこと?
私は捨てられたってこと?
暑いはずなのに汗が出てこない。陸が駅に着いて電車に乗った頃を見計らいベンチを立つ。喉がいやに乾くので自販機でジュースを買ったが、飲み込むことができない。私は近くのカフェに入り、テラス席で久々煙草を吸ってみた。煙を吸い込むと気管が開き呼吸が楽になる。何の味もない煙草を続けて数本吸って気持ちを落ち着かせた。
夏休みどうしよう。陸と行くはずだった旅行も映画も海も花火大会も全部だめになってしまった。そんなことよりも、私はいつ家を出ることが出来るのだろうか。
込み合ったカフェに長居はできない。また友達のいない私はこんな時に逃げ込める場所もなかった。家に帰るほかはないのだ。
家に帰ると腹が目立ち始めた艶子とともに聖一が来ていた。一番会いたくない男が、一番会いたくない日にいる。私は挨拶をしなかった。艶子は自分に惜しみない愛情を注いだ両親の元に帰り、夫を従え、更にはいつか自分を愛してくれる子供までその腹に宿している。艶子はありとあらゆるものを持っていて、そして私には何もない。暖かい家庭も、自分を愛してくれる存在も。
「今日は遅くなるって言っていなかったっけ?」
と母は不機嫌な顔で言う。。
「ご飯は済ませてきた。私の分はいらないよ」
私は嘘をついた。さっきから食欲は全くない。
「唯恵もちょっと座りなさい」
父は聖一の真正面の椅子を引いた。
「私、勉強しなくちゃいけないし」
私は座らなかった。すると母は
「なーにが勉強よ。普段全然勉強していないくせに」
と笑いながら言うのだ。艶子も同じく笑う。聖一、心の底から同情した顔をする。ちょうどよいタイミングで携帯に電話がかかってきた。莞爾だ。
「あ、莞爾?今大丈夫よ、どうしたの?」
私は聖一の前で莞爾の名前をわざと口に出す。
「ほら御覧なさい、勉強なんてしていないんだから」
と母が勝ち誇ったように断言する。私は携帯を耳に押し当てたまま居間を出て自分の部屋に向かった。
莞爾の用件はゼミの資料がどこにあるかということだった。
「その写真ならゼミ室のパソコンに落とし込んであるわ」
「本当?ちょっと今確かめる。あ、あったよ。ありがとう」
「莞爾、私・・・・」
莞爾だったら私の今の状況をどう言うだろうか。私が話し始めると莞爾は早口に、
「急用?今手が離せないんだ。用があるならばメールに書いておいて」
と私の言葉を遮った。男に捨てられたことはメールに書くことでもない。私は、
「大した用じゃない」
とだけ言った。
「そう、じゃあまたな。ありがとう」
電話はあっという間に切れた。
私は部屋の電気をつける気にもなれなかった。心のどこかで陸からの電話を待っている。「さっきはごめん。やっぱり唯恵と別れることはできない」と。しかし電話をかける相手は私ではないのだ。陸が電話を掛けるとしたらかれんにだ。
「あの女とはもう切れたよ。だからかれんと幸せになろう」
それを考えると私は苦しくなる。そう、陸の中に私はもう存在しない。私はせいぜいドラマの次回には登場しない脇役だ。陸は永遠に私に電話を寄越しはしないのだ。
「お互いに尊敬していない」
「倦怠期の夫婦みたい」
私はそんな風に陸との関係を評したが、彼も同じように考えていたのだろう。陸に聖一に莞爾。自分が男達から選ばれる立場のように振る舞っていたが、実際は違う。自分が選ぶどころか、選んでもらうことさえできなかったのだ。陸は頭のいい男だった。思いあがった私を内心どんなに見下していただろう。それなのに、陸の気持ちに全く気付くことなく、聖一に身を任せて。私の裏切りを陸は薄々知っていたはず。陸の私への感情は、嫉妬ではなく嘲りだ。私の頭の悪さ、自尊心のなさ、そのくせ目先の快楽には抗うことはできない弱さ。
涙はいつまでも止まらなかった。私はそっと家から抜け出し、陸からもらったオパールのネックレスと指輪を用水路に捨てた。オパールは汚水の中に沈み込んで、すぐに見えなくなった。
自分もこのまま消えてしまったら、どんなに楽か。
どうして私っていつもこうなのだろう。人の気持ちが自分から離れて行く。そしてその原因をつくるのは決まって自分から。
港に水揚げされるも買い手がつかない奇妙な深海魚、それが私だった。




