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キスが嫌いになったわけ  作者: 山口 にま
第六章
20/26

嵐の夜に

 艶子破水の知らせが飛び込んできたのは、十月の未明だった。それは不吉なニュースだった。まだ胎児は八ヵ月である。母親の胎内にいなくてはならない月齢であったのに。子供は大急ぎで帝王切開で取り上げられた。未明からの強い風は、朝には雨を伴うようになっていった。

 娘の受難に母は当然猛ハッスルである。聖一と交代で病院に張り付いている。


 夜になって赤ん坊の容態が悪化した。

「あんたも来なさい」

母は私を車に押し込んだ。両親と私の三人は艶子が出産した総合病院の小児科病棟へ。保育器が並んだ集中治療室、その中で多くの医師や看護師に囲まれているのが艶子の赤ん坊の保育器だ。

 私達三人は集中治療室に入ることを許されなかった。廊下から赤ん坊の様子を窺うことしかできない。看護師が保育器から器具やコードを外していた。そのそばで手術着のような緑のガウンを着て聖一が立っている。聖一は保育器から小さすぎる赤ん坊を抱きあげた。と言うよりも両手の上に乗せた。月足らずで生まれた赤ん坊は黒くてしわしわだ。生まれ落ちてからその小さな体で戦い続けたが、ついに力尽きた。生まれる前に戻ったのだ。聖一は手の上に我が子を乗せたまま、身じろぎもしなかった。やがて聖一は廊下にいる私たち義理の家族に気づく。

 私は鐘の音を聞いたように思った。六道珍皇寺の地獄に通じている、聖一と聞いたあの鐘の音だ

「ごめんなさい」

私は口の中でつぶやく。私のせいだ。私が面白半分に地獄の入り口を訪ねたりするから。


 火葬は爽やかすぎる秋晴れの日だった。まだ火力が強くない朝一番の窯で焼く。そうでなければ早産の子は一瞬で灰になってしまう。聖一は二尺にも満たない小さな白い棺桶を持って火葬場に入ってきた。聖一に続いて艶子が青ざめた顔で、小股で歩いてくる。帝王切開してまだ日が浅い。彼女は悲しみも喜びもすべてよそに置きっぱなしにしてしまった体だった。

「大丈夫?」と私は艶子に声をかけようとしたが、普段いがみ合っている姉妹である、何か裏があると勘ぐられたら大変だ。私は沈黙を守った。


 窯に入れる前、夫婦は棺から子どもを取り出して、両手に乗せて頬ずりをする。私はその朽ちかけた遺体を直視する勇気はなかった。艶子は何度も何度も遺体にキスをする。そのまま食べてしまうのではないかと心配になる。やがて聖一が取り上げるように艶子から遺体を引き取り、再び棺に納めた。

 窯の扉が閉まり、中から大きな金属音がして、続いて点火の音。

「赤ちゃん、ああ、私の赤ちゃん!」

艶子は絶叫して窯の扉に張り付く。聖一は艶子を引きはがした。艶子はそのまま床に崩れ、夫婦は床の上でお互いを支えあった。私が泣くのも変であるが、たった一人で死出の旅に旅立つ赤子が不憫で涙を抑えることが出来ず、聖一たちから背を向けて涙をぬぐった。

 琴音も母も泣き女よろしくの大号泣で哀愁場の悲しみを更に煽る。すごい!盛り上がっている。彼女らのその盛大な泣きっぷりを目の当りにしたら何だか可笑しくなって涙はすぐに引っ込んだ。私が泣かなくとも優しい祖母と叔母がたっぷり泣いてくれる。父まで滂沱の涙だ。年を取ると涙腺が緩むらしい。

 遺体はすぐに焼きあがった。小さく細い骨はまだ熱を持っている。艶子と聖一で骨を拾い、小さな骨壺に骨を納め、火葬場を後にする。いつまでも泣き止まない艶子に母は言った。

「子供はまた出来るから」

そりゃそうだ。母にとって子供なんて代替可能なのだから。


 母、私、琴音は父の車に乗り込む。母と琴音はまだ鼻をすすっている。母は言った。

「せっかく孫が出来たというのに。なんだかうちは何にもいいことがないわね」

充血した目で火葬場を睨み付ける。

 一番の思いがそれなの?艶子や赤ちゃんが可哀想そうで泣いていたんじゃないの?

 艶子や赤ちゃんは母を幸せにするための道具だったの?


 今日艶子は自分の持っている全てのものを失った。


 年末が出産予定日だった。その日に合わせて突っ走って来たのに、もう艶子にはゴールはない。妊婦でなくなった艶子には無職以外の肩書もなくなっていた。やることもないし、とりあえず働くか。しかし、何の為に?一度母になることを決めた艶子はどんな仕事も色あせて見えるのだ。ましてや誇り高い優等生だった艶子が求人サイトで誰でもエントリーできるような会社を受けられるだろうか?尤も魂が抜けたようになっている今の艶子には、電車に乗って面接会場にたどり着くことすら怪しいだろう。


 艶子は日中実家に来ては、居間のソファで横になって過ごした。

「何にも変わらない」

艶子は横になったまま言った。

「夜が来て朝が来て、聖一さんは何事もなかったかのように会社に行って。それでも私の赤ちゃんは死んだんだよ」

艶子は泣き出した。私は艶子に箱ごとテッシュを渡す。荒療法だ、恐山に遺品を奉納して来いとのどまで出かかるが、もちろんそんなことは口に出せやしなかった。赤ちゃんの魂があんな寂しい場所をさまよっていると思い知らされたら、艶子は後追い自殺しかねない。それに秋が深まりつつある今は、恐山は閉山しているのだ。赤子の死から十年も二十年も経ったら、あるいは恐山参拝が艶子に何かの答えを与えるかも知れないが。


 ある日大学から帰宅するとパジャマ姿の艶子がいた。日中実家で過ごしていたのだろう。私は気にも留めなかった。夕飯後も帰ろうとはせず、結婚前に使っていた自分の部屋に引き上げていった。

「今日は艶子は泊まるの?」

私は母に聞いた。母は

「私が連れて帰ってきたの。実家でゆっくりさせる」

「聖一さんは何て言っているの?」

「あの子は会社に行っていたから」

母は聖一をあの子呼ばわりする。

「聖一さんに何も言わずに連れてきちゃったってこと?」

「そうよ」

無理やり別居させたということか。

「大丈夫なのかな。こういう時に夫婦が離れるなんて」

母は改まった口調で、

「艶子はあの通り食べないで泣いてばかりだから、病院に連れて行こうと思うの」

「病院?」

「こころの」

「それは良いことだね。専門のお医者さんに見せた方がいいよ」

「聖一君じゃ艶子を支えられないわよ。こういう時こそ親が出なくちゃ」

私はそうは思わなかった。小さな子供じゃあるまいし精神科ぐらい自分で行けるし、初診ぐらいは聖一が連れて行けるだろう。しかし、母はやる気になっている。私が治してやると言わんばかりだ。


 翌週から母と艶子の病院詣が始まった。

 母が朝食前に近所で一番大きい大学病院に駆けつけ、診察券を投入し、受付を済ます。昼頃診察の順番が巡って来る頃、母は今度は艶子を伴って再び病院を訪れる。午後に診察、その後もたっぷり待たされて薬を受け取り、夕方に帰宅。一日がかりだ。病気の娘のためならば、母は自分の時間を犠牲にするのを厭わない。


 あれ?似たようなこと、前もあったような。

 小学生の私に無理に学校を休ませて、病院通い。おかげで私はテストで〇点を取ってしまうのだ。

 学校に行くよりも病院だ。


 夫婦で生活を共にするよりも病院だ。

 

 家に身の置き所のない義理の妹と、いきなり独身貴族に戻った義理の兄。当然悪いことをする。

 私たちが会うようになるまで、そう時間は掛からなかった。


 私たちは人目を忍んで会い続けた。場所は藤沢などの湘南近辺だ。ここならば知っている人に会う危険はない。母の実家が近く、今でも親戚が住んでいるが、祖母の相続で揉めて以来絶縁状態である。

 

私と聖一は冬の海岸を歩いている。聖一は煙草を取り出した。私は彼の煙草に火を付ける。風に煽られて火は私の指を焦がした。

「熱い」

私が言うと、聖一は私の指を口に含んだ。

「大丈夫?」

聖一の問いかけに私は頷く。私はその指を風にねぶらせた。

 

 何度か二人で会うようになって、聖一は私を再びベッドに誘った。昼下がりのビジネスホテル。部屋に入るなり私たちはもつれ合う。一度関係を結ぶとまた元通りだ。京都の夜のように私は飲みすぎてもいないし、夜行バスに乗り遅れたわけでもない。

 体を離した後、私たちは自然と微笑み合った。

「唯恵ちゃんの近くにいたのに、ずっと遠かった」

私は聖一の腕の中で彼の言葉に頷いた。聖一の抱いていた怒りや嫌悪感はない。今私たちを隔てていた物質的精神的な壁はなくなったが、それは艶子が子供を亡くして夫婦が別居状態になっているからだ。赤ちゃんが死んだことに対して、どうも聖一はそんなに大きくはとらえていないらしい。私だってそうだ。月足らずの子の遺体を見たときは涙が溢れてきた。それなのに、今はその父親とこうして密会している。

 赤ちゃんは一人で死んでいった。自分亡き後の世界をもうどうすることもできない。

 

 聖一は私を最寄り駅のずっと手前で車から下した。誰が見ているか分からない。別れ際、

「この先どうなるかは分からないけれど、いつかは君と・・・」

と私たちの将来に含みを持たせる。どうせ確約のない口約束だ。私は彼の唇に口をつける代わりにそっと手に触れた。


 私は黒い服を着て、ヒールのあるブーツを履く。抜毛癖があるから髪を触られるのは嫌いだったけれど、勇気を出して美容院に入った。髪を栗色に染めて巻き髪にしてみた。大人びた服や髪形にすると、却って幼さが隠し切れなくなる。私は濃い目にアイラインを引いた。


 ドライブを楽しんだ帰りの車の中で聖一は

「艶子どうしている?」

と聞いてくる。艶子は相変わらず実家にいるのだ。

「こころの病院に通っているよ。最近はあんまり泣いていないな。寝てるか漫画を読んでいるかゲームしている」

私の報告に聖一は苦笑する。私は聞いた。

「このままずっと別居するつもりなの?」

「艶子の気持ちを考えたらその方がいいのかなぁ。俺と一緒にいても辛くなるだけかも知れないし」

そりゃそうだ。艶子は日に日にやせ細っているのに、聖一と来たら元気いっぱい独身生活を謳歌している。

「お母さんが艶子を連れて帰ったことはどう思う?」

「艶子とお母さんの意思ならば俺は何も言えないよ」

「艶子と連絡を取っているの?」

「たまにね。でも最後は泣かれる。泣かれて責められる」

「責められるって何を?」

「自分一人だけが苦しんでずるいって」

私たちはしばらく黙った。私はためらった後、

「艶子を迎えに来ないの?」

「どうかなぁ。あいつがそれを望んでいない」

そうだろうか、そもそも別居も母親が夫婦に介入してのことだ。

 車は信号で止まった。

「今は正直唯恵と会う時間を大切にしたいんだ。いけないかな?」

私はどう答えたらいいのだろう。信号は青に変わり聖一はアクセルを踏む。

「聖一さん次第よ」

私は聖一の横顔に向かって声を投げかける。聖一は前を向いたまま手だけを伸ばしてきて私の頭を抱き寄せた。


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