3月:お返事はマシュマロで
すとん。
ずっと長い間、女の子は為す術もなく風に運ばれていましたが、ふいに地面に足がつきました。……ここは何処でしょう。あの公園とはずいぶん違います。道行く人はみんなせわしなく、どこか堅苦しい様子でした。でも誰もが『商品』を持っているということはあの場所と同じです。
疲れてしまった女の子は、ベンチを見つけてぺたんと座り込みました。目の前には大きな四角い建物が建っています。人々はその中に吸い込まれ、そこから出てくるのでした。
ふと、女の人がひとり、こちらに向かってくるのに気がつきました。なにやら手に持った紙を見つめ、どこか思い詰めた顔。女の子には気がつかないようで、隣に腰を下ろしました。
どうしてこんなに浮かない顔なのかしら。女の子は横目でちらちらと女の人を眺めました。その『商品』は優しい若草色でしたが、女の人の表情は暗く曇っていました。
女の子の視線に気がついたのか、女の人が顔を上げました。ちょっとぎこちなくほほえんで、
「お隣、いいかしら」
女の子は小さく頷きました。女の人の持っている紙が見えました。道行く人々のようにどこか堅苦しい雰囲気で何かが書かれていましたが、女の子は文字が読めません。
思い切って、尋ねてみました。
「……その紙、なぁに?」
女の人の表情がより一層硬くなり、また紙の上に視線を落としてしまいました。それでも女の子が見つめ続けていると、ひとつため息をついて小さく呟きました。
「……役所で貰った書類よ。離婚届」
「離婚届?」
「えぇ。これを書いて役所に出せば、離婚。あの人と夫婦でなくなる」
あの人、と言ったとき、女の人は悲しそうに眉をよせました。もうひとつ、ため息をついて、女の人は顔を上げて女の子を見つめました。
「……私の話、ちょっと聞いてくれる?」
私ね、三年前に結婚したの。あの人は私の二つ上でね、上司のすすめで交際を始めて、半年後にプロポーズされた。とてもいい人だなとは思ってたんだけど、正直まだすぐに結婚、て気持ちでは無かったの。それでもやっぱりプロポーズされて嬉しかった。あの人のこと、好きだったし。気持ちは後からついてくるかしら、と思って、喜んでって答えたの。
……最初の頃は幸せだったわ。あの人はいつもよくしてくれた。二人の時間を大切にしてくれた。……そうね、どこかおかしくなってきたのは一年がたった頃からかしら。
特にどうということがあったわけでは無いの。ただ、なんだかあの人の気持ちがわからなくなってしまって。本当に何も無い。喧嘩もしたことが無かった。でもあの人の気持ちは全然分からなかったの。いつもにこにこ笑ってる。でも本当はどうなのかしら、なんて思い始めたらもうきりが無くって。そんな私の思いが分かったのかは分からないけれど、あの人のほうもだんだん私と距離を置くようになってしまった。
……あの人と『夫婦』として、一つ屋根の下で暮らすことがつらくなってきたのよ。それでも踏ん切りがどうしてもつかなかったんだけど、ちょっと前にね、見ちゃったの。あの人が他の女の人と、それは楽しそうに笑っているところ。
私の前では見せたことも無いほど幸せそうだった! プロポーズに返事した時だって、ああはいってなかった。ちょっと変なのかもしれないけど、なんだか納得してしまったわ。あぁ、あの人とこの女の人こそ、一緒にいるべきなんだって。
あの人の浮気はほぼ間違いないと思ったんだけど、念のため携帯まで見ちゃった。私の知らない女性に、私には一度もかけてくれなかったような気持ちのこもった言葉を贈ってた。……こんな女だから、駄目なのかもね。
……だから今日、この紙を貰いに来たの。きっとあの二人が一緒にいるべきで、私にはもしかして別の、本当に一緒にいるべき人がいるんじゃないかって。
ふぅ、と女の人は息を吐いて、さっきとは違ってすっきりした笑顔を女の子に向けました。
「不思議ね、あなたに話したら整理がついた感じがする。聞いてくれてありがとう」
そうだ、と言って女の人は携帯電話を取りだし、女の子に見せました。旅行でしょうか、めかし込んだ女の人と男の人が、綺麗な風景の前に並んで写っています。
「私の隣にいるのがあの人。私の今までの旦那様」
二人は一見仲睦まじげでしたが、女の子は二人の『商品』が対になっていないことに気がつきました。よく似てはいるものの、女の人のものは若草色で、男の人のそれはもう少し深い緑です。ふと、公園で出会った二人を思い出しました。やっぱり対になっていると相性がよくて、そうでないとうまくはいかないのでしょうか。
「でももう決心がついた! この離婚届は結婚生活の終わりだけど、同時に新しい人生への扉でもあるの!」
女の人は勢いをつけて立ち上がって、ぐっと背伸びをしました。携帯電話を仕舞おうとして、あら、と笑いました。
「今日ってホワイトデーだったのね。バレンタインは結構いいチョコをあげたけれど、あの人、多分何もくれないわ。どうせだから、この離婚届にマシュマロでも添えてあげようかしら!」
ホワイトデー? 女の子が首をかしげていると女の人は明るく笑って、秘密を打ち明けるように、身をかがめて女の子の耳にささやきました。
「ホワイトデーってね、バレンタインデーのお返しをする日なの。でもお返しにマシュマロをあげるって、『ごめんなさい、お付き合いできません』って意味があるのよ」
あの人がその意味を知ってるかはわからないけどね、と女の人はクスッと笑って、手を振りながら軽い足取りで去って行きました。
女の子は自分の握りしめた『商品』を見つめました。くすんでいて、色がよく分かりません。この対がない『商品』にも本当の持ち主はいるはずです。でもその人には対がないのです。……独りぼっちなのかしら。寂しさがこみ上げてきました。
身に覚えのある強い風が女の子をさらいました。心の奥に寂しさを引っかけながら、女の子はされるがままに舞い上がりました。




