第九章
東亜高等予備学校。
猿楽町にある、中国人留学生に日本語を教える為の予備校である。
明治維新によってもたらされた日本の近代化や西洋文明化を学ぶために、日清戦争以降中国からの留学生がこぞって来日するようになった。もともと学生街であった神保町にそれら中国人留学生が集まってくるのは自然の成り行きであり、その留学生相手に中華料理店が続々と開店していくのもまた当然の事でもあった。神保町は書店街・学生街という顔の他に、小規模なチャイナタウンという一面も持ち合わせていたのだ。
……という訳で、賢芳の依頼から数日後、健太郎はこの東亜高等予備学校の前に腕組みをして仁王立っていた。
翔宇は留学生だった。ならば、日中間の取り決めで、指定されたいくつかの学校に受験が出来るはずだ。いや、既に合格してその中のどこかの学校に通っていたかも知れない。けれど、その一歩手前だったという可能性も捨てきれない。日本の学校を受験するため日本語を学んでいたということだってあり得るのだ。
とにかく翔宇という名だけでは調べようがない。もっと具体的な手がかりを求めて、彼は一番手近なここにやって来た。見上げると木造三階建ての立派な校舎。中国服や詰襟の学生服を着た数多の若者達がぞろぞろと中へと吸い込まれてゆく。六尺を超える巨体に久留米絣に銘仙の袴、高下駄という健太郎の格好が妙に異質で目立っている。通り過ぎる学生がちらちらと彼を振り返ってゆく。しかし本人は全く気にかける風でもなく、その高下駄を威勢良く鳴らして予備校の中へと入っていった。
「失礼します」
職員室を覗いて声をかける。手前に座っていた、今流行の髪型の耳かくしをした気むずかしそうな女性が顔を上げた。おそらく事務の女性だろう、不快感を与えぬよう、にこやかに健太郎は名刺を見せた。
「長尾探偵事務所 長尾健太郎」
思い切り手書きの、よれたその名刺を舐めるように吟味すると女性は用件を尋ねた。
「実は依頼を受けまして、とある男性を捜しています。少しお話をお伺いしたいと思いま
して……」
女性は暫くの間、名刺と健太郎の顔とを何度も見比べていたが、思案の結果が出たのか、「お待ち下さい」と言って、奥の部屋に引っ込んでいった。そしてものの五分も経たないうちに、がっしりとした体躯の初老の男性と共に出てきた。
「校長の松本が詳しくお話を伺うとのことです」
面倒臭そうに早口で言うと、さっさと自分の席に戻ってしまった。
白い口髭を蓄え、威風堂々とした物腰の松本校長は、名刺を持ったまま健太郎に向かって穏やかに頭を下げた。
「もしかして『ナルミヤ』のノンちゃんの兄上では?」
まさかこんなところで伸子の名前が出てくるとは思わなかった。
「はい……そうですが」
「やっぱり。お店の方にはよくお邪魔させてもらっています。お顔もノンちゃんにそっくりですし、兄上が探偵事務所を開いたと伺っていたものですから……」
「まだ開業したばかりですが……」
健太郎は少し照れているのか、頭をぽりぽりと掻いた。
「頑張って下さいよ。それより人を捜していらっしゃるそうで」
「はい。ご協力いただけると助かるのですが」
「もちろんいいですよ。ノンちゃんの兄上なら喜んで。実をいうと、私は『ナルミヤ』の常連なんですよ」
松本校長は踵を返すと、健太郎をもと居た部屋に招き入れた。健太郎は心の中で両手を合わせ、秘かに伸子に感謝した。
「お掛け下さい」
どうやらここは校長室らしい。勧められて、柔らかそうな海老色のびろうどが張られた長椅子に腰を下ろした。