第十九章
「大丈夫か? しっかりしろ!」
健太郎が素早く賢芳の許から彼を抱えて救い出す。顔色が恐ろしく悪く、青白くて冷たい身体はまるで死人のようだ。健太郎は慌てて胸に耳をあてて心音を確かめる。制服の奥から微かに刻む規則正しい鼓動を聞いて、彼はほっと安堵のため息を洩らした。
振り返った賢芳の、ぞっとするほど凍てついた視線が長尾兄妹を震え上がらせた。
「返して……その人を私に返して」
彼女は寝台からゆっくりと立ち上がった。白い両手を二人に向かって突き出して、虚空を掻きむしる十本の指。長く伸びた爪はまるで鋭利な刃物を思わせる。賢芳の可憐な容貌はすっかり変わり果て、まさに幽鬼の如く。光る瞳は雌豹のように獲物を捕え、憎悪を漲らせてじりじりと二人に迫りくる
「やっぱ……賢芳ちゃん本当に幽霊だったんだ……兄ちゃん、どうしよう!」
伸子は半ベソをかいて今にも腰を抜かさんばかりに、ぎゅっと健太郎にしがみ付く。健太郎は、意識を失くしている若松をしっかりと抱きかかえたまま、後ずさることしかできない。背後は窓を厚いカーテンで閉ざされた壁際。後は無い。逃げる手段を必死で考えながら、冷や汗がつっと健太郎のこめかみを伝った。
「ご、ご依頼の……翔宇の行方がわかりました」
乾いた喉の奥から、やっとのことで掠れた声を絞り出した。
「何ですって?」
健太郎を鋭く睨む賢芳の歩みが止まった。
「彼は一体どこにいるの?」
「中国に……故郷に戻られました。七年前、あなたが事故で亡くなってしばらく経った後に」
「……ではもうこの街にはいないというの?」
健太郎はゆっくりと頷いた。
「嘘だわ……そんなこと……まさか」
頭を抱えて何度も何度も首を振り、唇を固く噛み締め、賢芳は呆然と立ちすくむ。血の気の無い顔は、さらに白く翳を落とし、その瞳には青白い炎が揺らいで、辛うじて残っていた偽りの人間らしささえも失ってゆく。
「そんな……待っていたのに。ずっと待っていたのに。一緒に浅草に行こうとあの場所で待ち合わせて……ずっと待っていたのにあの人は来なかった……だから私はあんなことに…こんな冷たい身体に……」
賢芳の白い身体がまるで花びらのように力無く床に崩れた。がっくりと項垂れた横顔。伏せた瞳から溢れる涙がきらきらと零れ落ちる。
「翔宇にとってみれば、突然いなくなってしまったのは、あなたの方だったのでしょう。愛する人を突然失った悲しみは、あなたも充分承知なのではないですか?」
健太郎の背後に隠れて、伸子はじっと賢芳を見つめた。
「彼はずっと自分を責めていた。自分が待ちあわせの時間に間に合っていればあなたをあんな事故に巻き込むことはなかったのにと。責めて悔やんで、受験も失敗して失意のうちに帰国したそうです」
「寂しかった……ずっと独りで翔宇を捜して……自分が死んでしまったことも信じられなくて……だからあの人を見つけて一緒に逝こうとしたのに……!」
結いあげられた黒い豊かな髪が解けて、嗚咽で震える賢芳の肩からさらりと床に滑り落ちる。長尾兄妹の沈痛と同情とが入り混じった眼差しがその小さな肩に注がれた。
「だったらどうして他の人まで連れて逝こうとしたの?」
伸子が健太郎の肩越しからおずおずと訊いた。
「独りが嫌だったから……翔宇が見つかるまで……あの暗くて冷たい場所に独りで戻るのは耐えられなかったから、だから……」
床をじっと見つめていた賢芳は、思い詰めたようにすっと顔を上げた。恨みと憎しみを滲ませたその形相はあまりにも醜かった。
「だからその人を渡して頂戴!」
「賢芳ちゃん、やめて!」
伸子は思わず叫び、若松を抱きかかえる健太郎の両手に力が籠る。
「そうよ、翔宇がもうここにいないのなら、その彼よ! 翔宇のかわりに……そっくりな彼を……私と……一緒に来てくれるって言ってくれたわ!」
幽鬼の正体を露わにした賢芳は、まるで獲物を狙う飢えた猛獣のように、瞳に凄絶な暗い陰を宿して、髪を振り乱しながら三人に向かって躍りかかった。
翔宇への未練と果てしない孤独に囚われた哀れな賢芳を、もはやどうすることも出来ない。