第十八章
この甘い香りは賢芳のものなのか。それとも咲き乱れる曇花のものなのか。
「独りはいや……」
鮮やかな模様のカーテンがぴったりと閉ざされ、明かりの落とされた賢芳の部屋。満開の刻を迎え、薄闇に微光の如く幾つも浮かび上がる白い曇花。
豪紗な紫檀の寝台の上に腰を降ろし、純白の旗袍が逞しい双腕の中でひな鳥のように震えている。滑らかな翡翠がはめられた小さな耳元に、若松は絞り出すように切なく囁いた。
「俺じゃ駄目か? 翔宇のことなんか忘れて……こんなに可愛い君を、ずっと放っておくなんて許せない」
漆黒の艶やかな髪に若松の指が滑る。
遥かに年の離れた、未だ少女の面影を残す賢芳に一目で心を奪われてしまった自分に、何より自分自身が戸惑っている。腕の中の、大きな手で繰り返し撫でる小さな頭が微かに左右に揺れた。
「だって……翔宇は言ったもの。待っててって。必ず行くから、そこで待っててって」
「でも彼は来ないじゃないか。君を独り残したまま、何処かに行方をくらませている」
「でも私翔宇を待っているの。ずっとずっと……」
若松は華奢な両肩を掴んで彼女を胸から引き剥がす。円らな黒耀の瞳をじっと覗き込んで、呻くような嗄れた声が思わず喉から洩れる。
「……俺がいる……ずっと傍にいるよ。賢芳、君を決して独りにしないから」
「……ほんと? 私と一緒に来てくれる? ずっと一緒にいてくれる?」
細く白い両腕がそっと広い背中に回り込む。若松を一途に見詰める、潤む瞳から一筋の涙が頬を伝って零れ落ちた。
「もちろんだよ。だからもう彼のことは忘れるんだ」
小さな顎を引き寄せ目を閉じる若松にはわからなかった。
賢芳の黒く濡れた瞳に妖しい光が宿るのを。
淡く灯る明かりに映し出された二人の影が、今まさに一つに重なろうとしていた。
「若松が無断欠勤?」
彼の勤務先である、お茶の水停車場出てすぐの派出所の前で、健太郎と伸子は素っ頓狂な声を上げていた。
「まあ、欠勤ちゅーか、夜の巡回に出たまま戻ってこんのだわ」
厚底の黒縁丸眼鏡をかけた、上司らしい巡査が呆れ果てた様子でため息をつく。
「クソ真面目がとりえのヤツなんだがな。ここが留守になっちまうから、捜しに行くわけにもいかず、困っとるんだわ。あんたたち、良かったら捜し……あらら」
最後まで言い終わらないうちに、派出所から二人の姿は消えていた。
「賢芳ちゃんだね」
「ああ、きっと街中で逢ったんだ……畜生、何処に消えた?」
「若松さんの家じゃない?」
「よし、行ってみよう!」
市電も自動車もなりを潜め、人っこ独りもいない、ひっそりと静まり返った神保町の街を、健太郎の高下駄の音がけたたましく響き渡る。派出所にいてほしいと一縷の望みをかけていたが、それも叶わなかった。嫌な予感がじわじわと確証となって二人の心を侵食してゆく。
走っては歩き、歩いては走ってやっと辿り着いた若松の下宿先。近所迷惑を顧みずに戸を叩きまくって大家を起こす。
「若松さんなら帰って来てないわよ! 夜勤なんじゃないの? ッたく一体何時だと思ってんのよ!」
平身低頭、二人は頭を下げに下げた鼻先で、ぴしゃりと戸が閉められてしまった。
「どうしたらいいのよぉ……もしかしてもう……」
息を切らしてしゃがみ込む伸子。
「『会華號』だ!」
健太郎は弾かれたように顔を上げ、高下駄を脱いで手に持つと、裸足のまま即座に走り出した。
「待ってよ、兄ちゃん! だってそこ、無かったんじゃないの?」
「夜なら絶対ある!」
既に声が遠くなる。
「あん、もう! 待ってったら! あたし方向オンチなんだから!」
若松の下宿先とは正反対の方向に健太郎は走ってゆく。その姿を見失わないように伸子は必死に後を追う。空を見上げると、気のせいか東の空が明るく煙っているように見えた。
信じられないことに、というべきか、やはり、というべきか。健太郎の言ったとおり「会華號」は本当に存在していた。以前訪れたあの時と寸分違わない煌びやかな姿のまま。
立ち止まってふうっと息を吸い込むと、健太郎は思い切り店の扉を開けた。意外にもあっけなく開いて二人は店内になだれ込む。明け方近いというのに、店内には皓々と明かりが灯り、円卓にはとびきりの料理がところ狭しと並んでいる。
「若松、何処だ!」
応えは無い。人の気配もまるで感じられない。
「兄ちゃん、こっち」
伸子は厨房横の階段を指さして素早く駆け上った。健太郎は手に持っていた自分の高下駄を投げ捨てて伸子の後を追う。上り切った先には、深紅の絨毯が敷かれた長い廊下が伸びていた。その両脇と一番奥にドアがあり、二人は片っ端から開けてゆく。
「若松さん、どこ? いたら返事して!」
両脇の部屋には誰もいない。伸子は残る最奥の部屋に近づくと、震える手でドアの取っ手を力任せに引いた。
「若松さん!」
開けた途端にむせかえるような甘い香りが気流となって、一気に伸子と健太郎に押し寄せてくる。部屋には所狭しと無数に狂い咲く曇花。
驚いた賢芳は、思わず若松から唇を離してしまった。その拍子に彼の身体がずるりと絨毯の上に崩れ落ちた。