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曇花  作者:
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17/22

第十七章

「翔宇……覚えていますよ。東亜予備学校に通っていた、二枚目で真面目なヤツでした。官費留学生になるために一高や東京師範を受験しようと一生懸命勉強していたようです。

ウチの店……あ、私は当時こちらではなく、『会華號』にいましてね、彼はよく通って来ていました。まあ、本当の目的は食事ではなく、賢芳お嬢さんでしたが。人も羨む美男美女の、そりゃあ、お似合いの二人でした。お嬢さんが確か十七、翔宇が二十歳だったと思います。旦那さんも、もし彼が留学生でなければ婿に欲しいとよく言っていて、親公認の仲でした。

 ただ、そんな幸せも長くは続かず……お嬢さんが亡くなったのは、そう、今と同じくらいの夏のひどく暑い日でした。本当にあっけなく……市電と車の衝突事故に巻き込まれて即死でした。翔宇と待ち合わせでもしていたのでしょう。彼は後々まで自分を責めていましたから。僕がもっと早く待ち合わせ場所に来ていれば良かった。そうしたらお嬢さんも事故に巻き込まれることはなかったのにと。

 その後の彼は傍から見ても気の毒な有様でした。みるみる痩せて、次第に店からも足が遠のいて。たまに街中で見かけても元気が無くて。あの寂しげな、丸まった背中を今でも思い出すことができます。愛するお嬢さんを亡くして悔やんでも悔やみきれなかったのでしょう。もう勉強どころではなくなって、受験にも失敗して失意のうちに翌年帰国してしまいました。

 私もしばらくの間『会華號』で働いていましたが、向こうにいる母親の具合が悪くなって一時帰国せざるを得なくなりました。でもそれが幸いでした。あの震災に遭わずに済みましたから。その後、母親の具合も良くなってこちらに戻って来た時には愕然としましたよ。何たって神保町が以前とはまるで変わっていたのですから。もちろん『会華號』もありません。震災でご主人様も奥様も従業員もひとたまりもなかったそうです。けれど私は運良く避難出来たこちらの『漢耀楼』のご主人に拾って頂きまして、この店にお世話になることができました。本当にありがたいことです。

 あ、翔宇の名前ですか? そうです、よくご存じですね。翔宇というのは字で、名前は確か周恩来だったと思います。あ、かくいう私の希慧も字で……どうでもいいことでしたね。そうそう、翔宇は若かりし頃の哀しい初恋から立ち直ったのでしょう。今では向こうでいろいろと活躍しているようですよ」


 重苦しい沈黙の後、伸子はやっと口を開いた。

「賢芳ちゃんて……死んでるの?」

「らしい」

「じゃあ、あの店は? 皆で招待された……」

「昼間行ってみたんだが、無かった」

「無い? どういうこと?」

「本当に無い。そのままその通りの意味だ。あの場所に店なんか無くて、荒れ放題の空地だった。それと、彼女から聞いていた住所を頼りに、彼の下宿先だったという旅館にも行ってみた」

「どうだったの?」

「やっぱり無かった。えらく愛想の悪い親父のいる古本屋になってた」

「じゃあ……あたしたちが会ってた……ここに依頼に来た賢芳ちゃんてもしかして……」

 冷たい汗が背中を伝う。二人はごくりと唾を飲み込んだ。部屋中に心臓と柱時計の振子の音が妙に大きく響き渡る。

伸子は冷や汗で湿った手を袂で拭おうとした時、ふっと脳裏に閃きが走ってしまった。

 ──そうだ、あの本……!

「そういえばさ、若松さんと賢芳ちゃんて……」

「ああ、なんだかいつの間にか二人ともいいカンジになっちまったな。何だ、おまえ、焼きもちやいてんのか?」

「違うったら、バカ! それだったら若松さん、絶対危ないかも……」

「……何でだ?」

 こんな時に何でそんな話を? と問いたげな視線を伸子に投げる。

「いいから……早く捜しに行こう! 四人目になっちゃうかも知れないよ!」

 伸子は健太郎の肉厚の太い腕をしっかりと掴んで、深い眠りに落ちている街へと一目散に躍り出た。


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