独占欲
アンヌの問いに、ステファーヌは一切の情を感じさせない冷徹な視線を向けた。
そして、ためらいなくエリーズの腰に片腕を回し、己の側へと抱き寄せる。
「俺は一度たりとも、君を選んだことはない」
その声は低く、はっきりとしていた。
「俺の気持ちは、今も昔も――エリーにしかない」
逃げ場のない断言だった。
「君の勘違いも、虚構も……正直に言って迷惑だ。今日、君を呼び出したのは、それをはっきりと伝えるためだ」
ステファーヌは一度も、アンヌに特別な態度を取ったことはない。
曖昧な言葉も、期待を持たせるような約束も、一切していない。
それにも関わらず、彼女は周囲を巻き込み、噂を膨らませた。
――そして、最も大切な存在であるエリーズを傷つけた。
だからこそ、エリーズを抑え、首席に立った“今”が必要だった。
人目のある場所で。
誰の目にも分かる形で。
アンヌの言葉が、幻想であり妄想であると断じるために。
自分が選ぶ女性は、この先もずっと――
エリーズただ一人であると、示すために。
「……ステファーヌ様……?」
アンヌは呆然としたまま、震える声を漏らした。
「どう、なさったのですか……? いつもは……あんなにも優しく微笑みかけてくださって、熱い眼差しを向けてくださるではありませんか……」
困惑と混乱が、そのまま表情に滲み出ている。
視線は泳ぎ、声は頼りなく揺れていた。
だが――
それは、決定的な勘違いだった。
ステファーヌは、誰に対しても同じ穏やかな笑みを向ける。
それが礼儀であり、彼の基本的な態度に過ぎない。
ただ一人を除いて。
アンヌが恋い焦がれたのは、慈しむようなその眼差しだった。
その奥に宿る、燃えるような情熱にも気付いていた。
あれほど一途な想いを向けられれば、逃れられる者などいない――そう、信じて疑わなかった。
けれど。
彼女が見ていたものは、自分に向けられた視線ではない。
ステファーヌから、エリーズへと注がれるものだった。
それをアンヌは、自分に向けられているのだと、必死に思い込もうとしていただけだった。
「先程、わたくしを抱き寄せてくださったではありませんか」
「君がつまずいたのを支えただけだ」
即答だった。
「放課後、わたくしに勉強も教えてくださいましたし……それに、エリーズ嬢より、わたくしを選んでくださったではありませんか」
「他の者にも教えていた。君だけを特別扱いした覚えもないし、誰かを“選んだ”覚えもない」
そこに含まれるのは、苛立ちではなく断絶だった。
――勘違いも甚だしい。
そう言外に告げる眼差し。
それでも、アンヌは現実を見ようとしなかった。
自分が選ばれないはずがない。
学園のマドンナと呼ばれ、異性は誰もが自分の味方になる。
――そんな自分より、別の女を選ぶなど、あり得ない。
「……エリーズ嬢に、何か吹き込まれたのですか?」
アンヌは、縋るように声を落とす。
「彼女は、わたくしのことを嫌っていますわ。ですから……わたくしの悪口しか、言わないのです」
双眸に涙を浮かべ、必死に訴えかける。
「エリーは、そんな女性じゃない」
「それは、貴方様の前だから猫を被っているだけですわ!」
アンヌは一歩前に出て、涙を零した。
「わたくしは……エリーズ嬢に呼び出され、直接、酷いことを言われましたもの……」
か細く、儚げな声。
周囲の同情を誘う、完璧な被害者の姿。
「それに……エリーズ嬢は、こう仰ったのです」
アンヌは言葉を選ぶように、一拍置いた。
「――ステファーヌ様は、自分のものだ、と」
ざわり、と空気が揺れる。
「人を……もののように扱うなんて」
「所有物みたいじゃないか……」
周囲から、ひそひそとした声が漏れ始めた。
「ステファーヌ様は“もの”ではありません。誰かの所有物でもないというのに……酷いと思いませんか?」
アンヌは、涙に濡れた瞳で見上げる。
「わたくし……驚きましたし、心から可哀想だと思いましたわ。お気持ちを無視して、あんなことを仰るなんて……」
その言葉を聞いた瞬間――
ステファーヌは、エリーズを抱く逆の手で口元を押さえ、目を見開いた。
怒りではない。
困惑でもない。
――驚愕。
「俺が……エリーの“もの”……?」
ぽつり、と零れた声。
「彼女が……本当に、そう言ったのか?」
「はい」
アンヌは、確信に満ちた声で頷く。
「わたくし、この耳で……はっきりと聞きましたわ。それに、ステファーヌ様に近付くな、と……圧までかけられましたの」
周囲は完全にアンヌの言葉に引きずられ始めていた。
「それは……」
「独占欲が強すぎるんじゃ……」
――その時。
「……エリーが」
ステファーヌの声が、震えた。
「俺に……独占欲を?」
一瞬の沈黙。
「これは……夢か?」
その言葉に、アンヌは思わず間の抜けた声を漏らした。
「……え?」
――喜びとも、安堵とも、信じられない幸福とも取れる、完全に想定外の反応。
「エリー。……彼女が言ったことは、本当か?」
ステファーヌは勢いよくエリーズへと顔を向けた。
問われたエリーズは、視線を逸らしたまま沈黙する。
けれど――否定の言葉は、どこにもなかった。
僅かに覗いた頬と耳が、はっきりと赤く染まっている。
それだけで、十分だった。
「……ははっ」
思わず、笑いが零れる。
「そうか。俺は……エリーのもの、か」
信じられないほど柔らかな声。
胸の奥から溢れ出た感情を抑えきれないような笑みだった。
その反応に、アンヌだけでなく、周囲にいた者たちも息を呑む。
そして、ステファーヌをよく知る者ほど目を見開いた。
――こんな笑顔、見たことがない。
まるで、欲しかった宝物をやっと手に入れた子供のような顔。
「ステファー……?」
戸惑いと、僅かな不安を含んだ声で、エリーズが彼を見上げる。
その視線を受け止めて、ステファーヌは照れたように視線を逸らし、頭を掻いた。
「……いや、すまない」
一度、深く息を吸う。
「あまりにも嬉しくて、つい」
そして、真っ直ぐにエリーズを見る。
「俺はずっと――君にとっての俺は……ただの幼馴染か、兄妹みたいな存在なんだと思っていた」
静かな声。
「君は強くて、一人で立てて、何でも出来る。だから……俺が隣にいなくても平気なんだって、勝手に決めつけてた」
ほんの一瞬、弱さが覗く。
「でも、君が……俺に独占欲を持ってくれていたなんて」
胸元を押さえ、言葉を探す。
「それを知っただけで、胸がいっぱいになった」
誇らしげでもなく、威張りもせず、ただ、愛されていた事実を噛みしめる男の声だった。
エリーズの喉が、小さく鳴る。
「……そんな、大層なものじゃ……」
弱々しい否定。
「わたくしは、ただ……失うのが、怖かっただけで……」
「それでいい」
即座に、ステファーヌは言った。
「失うのが怖いほど想ってくれるなら、それで十分だ」
その言葉に、エリーズの瞳が揺れる。
――独占欲は、罪ではない。
――想いがある証だと、肯定された。
その瞬間、エリーズの胸に長く巣食っていた自己嫌悪が、少しだけ溶けた。




