誤解
「エリー! 待ってくれ!!」
逃げ続けた末、エリーズは噴水広場でついに捕まった。
学年棟に囲まれたこの場所は、人の往来が多い。
他学年の生徒たちも足を止め、何事かと二人の様子を窺っている。
「お願いだ……逃げないで、話を聞いてくれ!」
切羽詰まった声。
「……離して」
エリーズは俯いたまま、なおも身を捩って逃げようとする。
「嫌だ。ちゃんと聞いてくれるまで、離さない」
ステファーヌの手が、エリーズの手首を強く掴んだ。
「エリー……こっちを向いてくれ。顔を見て話したい」
「嫌ですわ」
掠れた声。
「……こんな、醜い顔……見られたくないもの」
掴んだ手首越しに、エリーズの震えが伝わる。
その震えに、ステファーヌの胸が締め付けられた。
次の瞬間。
彼は衝動的に、エリーズを背後から抱き寄せた。
「……っ!」
肩から首にかけて回された腕。
背中に押し付けられる、確かな体温と早鐘のような鼓動。
ステファーヌの腕も、僅かに震えている。
彼自身も、必死なのだと――それが嫌でも伝わってきた。
この人も、勇気を振り絞っている。
そう理解した瞬間、エリーズの抵抗がふっと止まった。
身体の力が抜けたのを感じ取り、ステファーヌは腕の力を緩める。
エリーズは彼の腕を掴み、静かにほどいた。
そして、ゆっくりと向き合う。
「ステファー……まだ、お祝いを言っていなかったわね」
一歩、距離を取るように、彼の胸を両手で押す。
「首席……おめでとう」
顔を上げたエリーズは、笑っていた。
けれど、それは――
どう見ても、無理に作った笑顔だった。
「エリ――」
「凄いわよね」
ステファーヌが口を開くよりも早く、言葉を重ねる。
「本当に……有言実行しちゃうんだもの」
「話を――」
「わたくしに勝ってでも、守りたい存在が出来たのね」
その声は、穏やかで、祝福するようで。
「……喜ばしいことだわ」
――嘘。
心の奥では、そんな感情は一欠片もなかった。
胸の内側に、どす黒いものが渦を巻く。
嫉妬。
喪失感。
置き去りにされた恐怖。
黒い靄のような感情が、ゆっくりと全身を侵食していく。
それでも、エリーズは微笑み続けた。
壊れそうなほど、必死に。
「エリー、止まって」
ステファーヌが制そうとするが、エリーズの口は止まらなかった。
「貴方の言いたいことは分かっているわ。何年も一緒にいたんですもの」
声も、体も震えている。
言葉を止めてしまえば、心が持たない。
彼の口から紡がれる答えが怖くて、縋ってしまいそうで、泣き崩れてしまいそうで――
話し続けることでしか、自分を保てなかった。
「何年も縛り付けてごめんなさい。たくさん我儘を言ったし、傲慢な態度も取ったわね。ステファーが愛想を尽かすのも、無理ないわ」
言葉は止まらない。
「エリー、黙って」
ステファーヌの声が、低く、強く落ちる。
「そうよね。わたくしのように一人でなんでも出来て、強い女、男性は苦手よね……こんな可愛げのない女性より、守ってあげたくなるような令嬢の方が――」
無理に作った笑顔のまま、卑下する。
その瞬間、強い力で腕を引かれ、顎を取られた。
「――っ!?」
視界が一気に近づく。
次の瞬間、唇に柔らかな感触が重なった。
言葉を塞ぐように、ステファーヌの唇が触れてくる。
顔を背けようにも顎を固定され、腰に回された腕が逃がさない。
胸板を押して距離を取ろうとする。
「なっ、にを――」
言葉は最後まで形にならなかった。
強く引き寄せられ、再び追うように唇が重なり塞がれた。
拒もうとしたはずの思考が、触れ合った瞬間に白く弾けた。
息が詰まるほど近い距離。
逃げようとした身体は、抱き留められ、離れる隙を失う。
荒く、衝動的で、余裕のない――
それは慰めでも、甘さでもなかった。
ただ、溢れ出した感情がぶつかり合っただけ。
エリーズは思わず彼の胸を押した。
けれど、力が入らない。
視界が揺れ、頬が熱を帯び、呼吸が乱れる。
何かを言おうとしても、声がうまく出てこなかった。
唇が離れ、熱を帯びた吐息が零れた。
「それ以上、言うな」
怒鳴ってはいない。
けれど、その声は抑えきれない感情に震えていた。
言葉を止められたことよりも、強引に奪われた距離に、エリーズはかっとなり、反射的に手を振り上げた。
だが、その手首は容易く掴み取られる。
腰に回された腕に力が込められ、逃げ場が塞がれる。
「強引だったことは謝る。……だが、いくらエリーでも」
低く、噛みしめるような声音。
「君を蔑むのは、許さない」
彼の瞳に宿っていたのは、怒りだった。
それは激情ではなく、痛みを伴った怒り。
今まで一度も見たことのない表情。
息がかかるほど、近い。
「可愛くない? 強い女が苦手?」
ぎり、と歯を噛みしめる音がした。
「……ふざけるな」
掴んでいた手首と腰から、ふっと力が抜ける。
代わりに、両肩を強く掴まれた。
その手は震えていた。
「俺が、どれだけ――」
言葉が、そこで途切れる。
「どれだけ、君の強さに救われてきたと思ってる」
初めて、はっきりと声が掠れた。
「一人で立てる君を、誇りに思わなかった日なんてない」
逸らさない、真剣な眼差し。
「だから……そんな言葉で、自分を貶めるな」
視界が、じわりと滲む。
エリーズは、何も言えなくなった。
「俺は、エリーズ! 君のことが好きだ!」
その言葉に、エリーズの瞳が大きく見開かれる。
「婚約者だからじゃない。一時の感情なんかでもない! 俺は……幼い頃からずっと、君だけを想っていた」
胸の奥を抉るように、ステファーヌは言葉を重ねる。
「今回、君に宣戦布告をして挑んだのも、他の女を守るためじゃない!」
その瞬間、周囲の空気がざわりと揺れた。
「君との仲を――俺たちの関係を、周囲にきちんと認めさせるためだ!」
噂を信じていた者たちが、息を呑む。
「君より下の立場じゃ、駄目だった。エリーの影にいる男じゃなく、君の隣に立つ男として認められたかった」
ステファーヌは一歩、踏み出す。
「エリーに従っているんじゃない。俺自身の意思で、君を選び――君の隣にいるんだと示したかった」
それは、告白であり、宣言だった。
「信じ……られないわ」
「エリー……」
エリーズは一歩、ステファーヌから距離を取った。
震える身体を抑えるように右手で左腕を掴み、彼の視線から顔を逸らす。
――信じたい。
けれど、アンヌと寄り添っていたあの光景が、何度も脳裏に焼き付いて離れない。
この告白のために自分を呼び出したのだとしたら、なぜ、あの場にアンヌがいたのか。
「……アンヌ嬢は、どうするの」
顔を向けることなく、エリーズは問うた。
ずっと一緒にいた。
誰よりも彼のことを理解していると、そう信じていた。
それなのに今は、ステファーヌのことが何一つ分からない。
「あの場所にアンヌ嬢がいたのは、エリー以外に、彼女も俺が呼んだからだ」
ステファーヌは、迷いのない声で答えた。
「……彼女と、抱き合っていたのは?」
つい、責めるような言い方になってしまう。
それでも、胸の奥に溜まった靄が晴れなかった。
「君を探しに行こうとして、よろけたところを支えただけだ。エリー以外の異性に、特別な感情を向けたことは一切ない」
その言葉に、周囲がどよめいた。
そして――
一年棟側の人混みが、ゆっくりと割れていくのが目に入った。
そこに立っていたのは、ステファーヌの後を追ってきたアンヌだった。
「……え?」
アンヌは立ち尽くし、理解できないというように首を傾げる。
「あの……ステファーヌ様?」
震える声で、縋るように問いかけた。
「聞き間違いでしょうか……? ステファーヌ様は、エリーズ嬢よりもわたくしを選んでくださったから首席を取り、今日、お呼び出しくださったのですよね……?」
それは、アンヌ自身が作り上げてきた物語だった。
ステファーヌは一度だって彼女を選んだことはない。
想いを告げたことも、希望を持たせたこともない。
彼女が信じてきた“物語”は、ただの独りよがりな補完に過ぎなかった。
一方的な期待と、押しつけ――
それが、真実だった。




