SIDE ステファーヌ
時は、数刻遡る──。
放課後。
ステファーヌは三階の西側階段で、二人を待っていた。
エリーズは、来てくれるだろうか。
その不安だけが、胸の奥に引っかかっている。
二人とも、まだ姿を見せていない。
だが、階段の影や廊下の曲がり角から、ひそひそとした気配が漂っていた。
――やはり、来ているな。
普段はほとんど人の通らない場所。
だからこそ、ここを選んだ。
だが今回は、人気がないことが目的ではない。
人目があること。
それこそが、必要だった。
ステファーヌは最初から、野次馬が集まることを織り込み済みだった。
わざと人目につく形で呼び出し、わざと噂好きの耳目を集める。
隠れて処理すべき話ではない。
ここで、はっきりと線を引くつもりだった。
──中途半端なまま、放置するわけにはいかない。
数分後。
先に姿を現したのは、アンヌだった。
「ステファーヌ様、お待たせして申し訳ございません」
小走りで駆け寄り、軽く息を整える仕草。
頬はわずかに紅潮し、いかにも急いで来たように装っている。
「それで……お話とは、何でしょうか?」
そう言いながら、アンヌは髪を片耳にかけ、上目遣いに視線を向けた。
――ぞわり。
甘さを含ませたその視線は、好意というよりも、獲物を定めた者の目だった。
ねっとりと絡みつくような視線に、ステファーヌの背筋に寒気が走る。
「それなんだが……エリーも呼んである」
「エリーズ嬢、ですか?」
一瞬だけ、アンヌの声が硬くなった。
「ああ。だから、彼女が来てから話そうと思っている」
その言葉に、アンヌは静かに俯いた。
だが、下げた顔は見えない。
肩がわずかに揺れ、口元が必死に笑みを押し殺すように歪んでいた。
――ふふ。やっぱり、そうですのね。
アンヌの胸に、確信が広がる。
わざわざ二人同時に呼び出す理由。
人目のある場所。
そして、この沈黙。
――わたくしに、はっきりと答えをくださるおつもりなのでしょう?
長かった。
本当に、長かった。
悪役令嬢・エリーズに虐げられ、蔑まれ、それでも健気に、ただ一途に想い続けてきた。
その努力が、ようやく報われる。
ステファーヌが、自分の価値に気づいたのだと。
アンヌは、心の中でほくそ笑んだ。
「そういえば、わたくしも前回のテストから成績が上がりましたの。それもこれも、ステファーヌ様に教えていただいたお陰ですわ」
エリーズを待つ間、アンヌは嬉しそうに話しかけた。
「ああ……」
ステファーヌは、生返事で応じる。
アンヌは気にする様子もなく話し続け、ステファーヌは必要最低限の相槌だけを返した。
彼の意識は、ただ一つ。
――エリーは、来てくれるだろうか。
それだけだった。
「あら……ステファーヌ様。髪に糸くずがついていますわ」
そう言って、アンヌは一歩距離を詰め、自然な動作を装って手を伸ばした。
次の瞬間。
バチン。
乾いた音が、静まり返った廊下に鋭く響いた。
無意識だった。
視界の端に入った影に、ステファーヌの身体が反射的に反応しただけ。
「……すまない」
ステファーヌはすぐに言葉を継いだ。
「驚いて、反射的に払ってしまった」
そこでようやく、彼の視線がアンヌを捉える。
一瞬、アンヌは驚いた表情を浮かべたが、すぐに小さく首を振った。
「いえ……わたくしこそ。殿方の髪に、軽率に触れようとしてしまって……」
謝罪の言葉は殊勝だった。
だが、その瞳は、どこか楽しげだった。
「ですが……ようやく、ステファーヌ様と目が合いましたわ」
アンヌは満面の笑みを浮かべる。
首を傾げ、視線を絡め、完璧な角度で微笑む。
他の男であれば、一瞬で心を掴まれただろう。
「ステファーヌ様ったら……緊張なさるのは分かりますけれど、ちっとも、わたくしの方を見てくださらないんですもの」
ぷう、と軽く頬を膨らませ、唇を尖らせる。
その時だった。
ステファーヌは、はっきりと認識してしまった。
艶やかに光る唇。
不自然なほど潤んだ瞳。
左目の下に浮かぶ、計算されたようなほくろ。
――ああ。
胸の奥に、はっきりとした感情が湧き上がる。
――気持ち悪い。
それだけだった。
今まで、エリーズ以外の異性に意識を向けたことなどなかった。
他の女性の顔を、じっくり見たことすらない。
だから今、はっきり分かってしまった。
女であることを“武器”にして迫ってくる存在が、これほどまでに生理的に受け付けないものだということを。
艶やかさも、可憐さも、妖艶さも。
すべてが「作られたもの」に見えてしまい、嫌悪感しか湧かなかった。
美人なら、エリーズで見慣れている。
だが、アンヌは違う。
存在そのものが、男を誘うために作られている。
その事実が、ステファーヌにはただただ不快だった。
「それにしても……エリーズ嬢、遅いですわね」
なかなか姿を見せないエリーズに、アンヌが痺れを切らしたように言った。
「わたくし、少し探して――あっ」
一歩、踏み出した瞬間。
アンヌの足がもつれ、身体が前のめりに崩れる。
――わざとだと、言い切れるほど露骨ではない。
けれど、偶然だと言い切るには、あまりにも都合が良すぎた。
アンヌの身体は、そのままステファーヌの胸へと倒れ込んだ。
「……っ!」
反射的に、ステファーヌはアンヌの肩を掴み、支える。
「申し訳ございません……」
アンヌは恥じらうように視線を伏せ、そう謝罪した。
その瞬間だった。
時間の経過と共に増えていた人混みが、ざわりと割れる。
視界の端で、その変化を捉えたステファーヌは、はっと顔を上げた。
開かれた人垣の向こう。
そこにいたのは――
目を見開き、硬直したまま立ち尽くす、エリーズの姿だった。
最悪のタイミング。
胸の奥が、ひやりと冷え切る。
「エリー――!」
ステファーヌは、弾かれたようにアンヌから手を離した。
だが、遅かった。
一瞬とはいえ、肩を支え、寄り添うように見える体勢は、確かに“抱き合っている”ように見えてしまう角度だった。
それを、エリーズは見てしまった。
次の瞬間。
エリーズは、何も言わず、何も訴えず、ただ、踵を返した。
そして、来た道を全速力で走り去っていく。
「エリー!! 待ってくれ、誤解だ!!」
ステファーヌの叫びは、騒然とする空気に掻き消される。
――ようやく、守れると思ったのに。
胸を締め付ける後悔が、遅れて襲ってくる。
だが、立ち止まっている暇はなかった。
誤解を解く。
それだけが、今のステファーヌの行動原理だった。
彼は、迷わずエリーズの後を追った。
中央階段。
あと一歩、という距離まで迫ったその時。
伸ばした手が、空を切る。
エリーズは、思いもよらぬ身のこなしで、するりとステファーヌの腕をすり抜けた。
掴まれることすら拒絶された――
その事実が、胸に深く突き刺さる。
嫌われたのかもしれない。
そう思った瞬間、喉の奥が詰まった。
「……くそっ」
それでも、ステファーヌは立ち止まらなかった。
好きな女に全速力で逃げられようが、みっともなく周囲の目に晒されようが、どうでもいい。
元より、エリーズには、自分の情けなさも、弱さも、全部知られている。
格好つけたい相手は、一人だけだ。
この腕で、彼女を取り戻すために。
ステファーヌは、必死に、ただ必死に、エリーズの背を追い続けた。




