『誰でもない彼』1.春の街角
午後三時すぎ。
陽射しが傾きかけた春の商店街には、ゆるやかな喧騒が流れていた。
行き交う人の声。
パン屋から漂う焼きたての香り。
遠くで鳴る自転車のベルの音。
――どれも、当たり前のようでいて、どこか懐かしかった。
リリアは制服姿のまま、ひとりで歩いていた。
手に持つのは、紙袋ひとつ。
中には、少し前に買ったクロワッサンが二つ。
まだ温かく、指先にふわりと熱が伝わってくる。
足取りは軽い。けれど、それは目的地があるからではない。
ただ、歩くということ自体を楽しんでいる――そんな風に見えた。
道端のポスターが、春の新生活を告げている。
街路樹の桜は、淡く色づき、風に花びらを乗せて舞わせた。
リリアはそれを見上げ、静かに微笑む。
> 「世界は、何も変わっていないようで……全部、違って見える。」
声に出した言葉が、空気に溶けていく。
それは“ナレーション”ではなく、ただのつぶやき。
――けれど、その一言には、確かな実感が宿っていた。
かつて、どんなに繰り返しても変わらなかった世界。
誰かに選ばれ、台詞を与えられ、役割を果たすだけだった毎日。
その世界が、今はもうない。
代わりにあるのは、“ただの現実”。
信号が変わる音に合わせて、リリアは一歩を踏み出す。
アスファルトを踏む音。風に揺れる髪の感触。
そのひとつひとつが、彼女に“生きている”ことを教えてくれた。
> 「これが……現実、なんだね。」
リリアはそう呟き、頬に当たる春風を受け止めた。
それはデータの風ではない。
誰かが作った物語の中の演出でもない。
――本物の風だった。




