第三話 本当のアリス
2017/1/1 若干修正。
診察室には葵と熊川医師がいた。
「遅いぞ」
葵さんが俺を見て言うが。
「いや、ちょっと迷ったから。葵さんの説明、悪すぎ」
俺も言い返す。
「ふん、だったら看護師でも捕まえて聞けばいいんだ」
「そうしたんだけどね。話、まだ長引きそうなんですか?」
「いや、もうほとんど話し終わった」
カルテと難しい顔でにらめっこしている熊川はさっきと様子が違う。
「熊川先生?」
「ああ、いや、すまない。しかし、そんな事が……つまり、彼女の記憶は一切、共有していないんだね?」
「ええ、今の、いえ、あの時のアリスは過去のことは全く覚えておらず、完全な別人格でした」
葵が丁寧な口調で言う。黒レザーのライダースーツなので、余計に変な感じだ。
「だとすると、どう判断すべきかな。元の人格に戻ったと言う事は、改善と見るのが普通だと思うが…」
「そう見えただけで、また新しい人格かもしれない。くそ、最悪だ…」
「葵さん? 別人格って、やっぱりあれがアリスなんですか」
俺は質問する。
「そうだ。彼女は幼児退行していた。ある精神的なショックでな」
葵が頷いた。
「幼児退行……知的障害じゃなかったんですか?」
「違う。あれは精神病だ。ま、お前は障害と勘違いしていたようだが」
精神病。その事実に衝撃を受ける。
「な、何で。何で教えてくれなかったんですか」
「医者の守秘義務だ。私がアリスの担当医だったからな」
「な…」
医者にはとても見えないのだが、いや、橘クリニックへ勤めているとも言っていたか。となると…?
「え? じゃあ、今のアリスが正常で、あの子供のアリスは…」
「そういう事になるな。あれが正常と言えるなら、だが」
「記憶さえ戻れば、問題無いのではないかね? 多重人格なら、別の人格の記憶をすっかり忘れてしまうという事も有ると聞く」
「熊川先生、自分で言ってるじゃないですか。そう、別の人格なんですよ、あれも」
診断の話になっているようなので、俺は口を挟まないでおく。
「ふむ…では、オランザピンやペロスピロンは?」
「全く効果なし。他も色々試して、半年で打ち切りました。メジャートランキライザーは全般的に嘔吐、鬱状態、無気力、絶望感、自殺の衝動が出てくるので要注意です」
「自殺か。それも当然と言えば当然か。厄介だな」
「ええ。他に質問は?」
「いや、今のところは、もう何も」
「そうですか。では、熊川先生、よろしくお願いします」
「ああ。だが、本当に良いのかね? 橘先生が主治医なら、経過が安定するまでそちらで治療した方が安全な気がするが…」
「いえ、移す方が危険ですよ。環境がまた変わってしまう。だいたい、あいつ、いえ、アリスは私を覚えていなかった。おそらく、クリニックも覚えていないでしょう」
「分かった。少し、慎重に様子を見よう」
「お願いします。待たせたな。賢一。帰ろう」
葵が席を立つ。
「帰るって。アリスを連れて帰らないんですか?」
「ああ。状態が状態だからな。しばらくここで入院だ」
「いや…入院なら、橘クリニックの方では? 前はそこにいたんでしょう?」
「お前は何だ?」
葵が聞いた。
「え?」
「アリスの主治医か?」
「あ、いや…違います」
「だったら、口を挟むな。これが最善のはずなんだ」
葵も判断を迷ったのだろう。
「あたしが余計な事をしたばっかりに、ま、それはあたしがクビになるか親父に殴られるかすればいいだけだ。どのみち、アリスは…親父が正しかったって事だな。あたしはもう……」
「葵さん?」
「いや、何でも無い。それじゃあ熊川先生、アリスをよろしく」
「ああ。葵先生、気が変わったら、連絡してくれ。こちらも何か有れば連絡する」
「ええ。失礼します」
俺も一礼して葵を追った。黙々と先を歩く葵。麗華に挨拶を忘れたと思ったが、それより、聞かなくてはいけない。
「葵さん。ちょっと。待って下さい、葵さん!」
「話なら後にしてくれ。クリニックに戻らないと」
忙しいのは分かるのだが、それにしたって……。
「ああ、そうだ、病室に戻らないと」
葵を追いかけようとした俺だったが、アリスや麗華達にまだ帰ると告げていない。
詩織の携帯に掛けてみるが、電源を切ってしまっているようだ。
仕方なく俺は、葵を追いかけるのを諦めてアリスの病室へ向かう。
「あ、賢一さん。葵さんは?」
病室に戻ると、詩織が聞いてきた。
「うん、葵さんはさっきクリニックへ帰ったよ」
「ああ、そうですか」
「ううん…」
さっきの葵と熊川医師の話。
葵が医師の守秘義務としてアリスの精神病を隠していた以上、俺がべらべらと喋っていいものか。
詩織は確かに夕食も作ってくれてアリスの面倒を見てくれたが……。
「賢一さん?」
「ああ、いや、そろそろ俺達は帰ろう。アリスはここにしばらく入院するという話だった。さっき、熊川先生と葵さんと下で話をしたんだ」
「そうですか。早く記憶が戻ると良いですね」
「ああ。じゃ、そろそろ僕らは帰ります。また来ますから」
俺はアリスと麗華に向かって言う。
「ええ、では、私も帰りますわね」
麗華も言う。
「はい。お気を付けて」
アリスがどこか申し訳なさそうに言う。
俺は早くアリスに元に戻って欲しいと一瞬願ったが、それは正常なアリスではない。
それがショックで無性に悲しかったが、とにかく、今はアリスの記憶が戻り、彼女が元気になることを祈ろう。
病室を出てから、俺は麗華に頼む。
「鬼岩さん、できれば彼女の記憶が戻るまで、お見舞いに来てもらえませんか」
アリスの記憶が戻っていない以上、俺や詩織はアリスにとって見ず知らずの人間であり、まだ保護してくれた麗華の方が安心できるのではないか、そんな風に思えたからだ。
「ああ、それでしたら、お願いなさらなくても、もちろんですわ」
しっかりと頷いてくれた麗華はいい人のようだ。彼女ならアリスを任せても大丈夫だろう。
「良かった。明日、三時くらいにまた僕は面会に来ようと思ってるんですが……」
同席してくれと頼むのは厚かましいか。だが、アリスにとっては俺だけ見舞いに来ても戸惑うかも知れなかった。
「ええ、では、私もその時間に面会に来ますね」
良かった。俺の意を汲んでくれたようで麗華は頷く。
「それと私の名前ですけど、麗華と下の名前で結構ですわ。鬼岩って、少し言いにくいでしょう?」
「そうですね」
「それに、私、あまりこの名字は気に入ってないもので」
「分かりました、麗華さん」
「は、はい」
自分で下の名前を要求しておいて照れるのはどうなのかと思ったが、まあいい。実際、麗華の方がずっと呼びやすいし。
「じゃ、私達はこれで。失礼します」
「ええ」
「行きましょう、賢一さん」
「ん、ああ」
詩織が少し急いだように俺の腕を引っ張る。
「麗華さんと二人で会うのは禁止ですから」
そして小声で詩織が言った。
「えっ、なんで?」
「当然です。なんで初対面なのに、下の名前なんですか……。おかしいです」
「ああ、なんだ、嫉妬なのか? 全然、そんなんじゃないぞ」
「でも…」
「珠美だって下の名前だし、葵さんだってそうだろ。でも、俺が好きなのは詩織だけだから」
「うっ、そうやってさらりと口説く賢一さんは油断できません」
「ええ? まるで俺が凄腕のナンパ師みたいな言い方だなぁ」
「実際、そんな気がしてきました」
「無い無い」
アリスのことは心配なのだが、今、俺にできることは何も無い。治療の方は葵や熊川医師に任せるべきだ。明日、また授業の後で見舞いに行って、アリスを元気づけたり、記憶を取り戻す手伝いをするくらいか。それよりも今は、やきもちを焼いてくれている可愛い恋人の機嫌を取っておくべきだろう。
「詩織、これから、少し公園を歩かないか」
「あ、はい」
俺のアパートの近くの小さい公園では無く、別の場所、広い方の三鷹市立公園に向かう。
蝉がうるさく鳴いていて、夕方近くだというのにまだ日差しが強い。
これなら喫茶店の方が良かったか。少し失敗した。
「詩織、大丈夫か? 暑いなら、喫茶店にするが」
「いえ、大丈夫です」
彼女は汗も掻いていないし、顔色も良かった。遊園地では青白い顔でぐったりしていたが、今は問題無さそうだ。
俺達は公園の敷地内に入り、ケヤキの並木道を歩いた。
五メートル近く有りそうな高い木が道の両脇から空を覆うように枝葉を伸ばしており、心地良い日陰ができている。その新緑の自然なトンネルを見て、俺は来て良かったと思った。
「なんだか、森の中を歩いているみたいですね」
「そうだな。こういう場所もいいなあ」
「はい。心が落ち着きますね」
時折、涼しい風が通り抜け、なんだ、彼女とのデートなんてここでいいじゃないかと俺は思ってしまった。
「詩織はどこか、行きたいところはある?」
のんびり歩きながら、隣を歩く彼女に聞く。
「そうですね……賢一さんは、どこか行きたいところは?」
「俺か? ううん、基本、インドアだからなあ」
パッと思いつかない。珠美なら山だ海だとあちこち挙げそうだが。
「私もです」
「アリスが退院したら、ここ、連れてきてやりたいな……も、もちろん、三人で」
途中で嫉妬の矛先がアリスに行く可能性に思い至り、慌てて付け加える。
「もう。そうですね。アリスちゃんと三人で。でも、あの子、お姉さんのほうかも…」
「いや、葵さんが本人だと言っていた。その可能性は無いよ」
俺は真実を伏せてではあるが、否定しておく。
「そうですか。記憶障害って性格まで変わるんでしょうか?」
「まあ、そういうケースもあるんだろうな」
熊川と葵は多重人格という話をしていた。
しかし、どうして精神を病んでしまったのか。分からない。葵に聞いても簡単には教えてくれない気がする。
帰ったら、その方面の医学書を読んでみるか。
「詩織、図書館に寄ってもいいか?」
「ええ、行きましょう。私も今、記憶に関する本を探そうと思ってたところです。ふふっ」
気が合うね。良い彼女だ。大事にしていきたい。




