第二話 アリスの記憶
2017/1/1 若干修正。
「ちょっと煙草を吸ってくる」
「あ、葵さん」
葵が病室を出て行き、入れ替わりに熊川医師がやってきた。
「やあ、待たせたね。リーナ――アリスさんだったね。何か、思い出せたかな?」
「いえ、何も…すみません、先生」
「ああ、いいよ。こういう症例だと、知り合いに会った途端に思い出すというケースが多いのでね、それを期待したんだが…そうでない場合もある。記憶障害、君たちには記憶喪失と言った方が、分かりやすいかな」
「はあ、記憶喪失…」
熊川が色々と説明を加えるが、こちらを申し訳なさそうに見ているアリスは、そんな事とは異質の感じがした。説明が俺の耳を右から左へと通り過ぎていく。
「――と言うわけだ。ここまでで何か質問があるかね?」
「あの、先生、記憶障害で、性格まで変わるというのは、あり得るんですか?」
俺は引っかかっていた点を質問する。
「希なケースだが無くはない。特に外傷の時は合併症とでも言うべきか、人格の変化も報告があるが…アリス君の性格は違うのかね?」
「ええ、全然違いますよ。こいつ前は、なー! って変わった口癖で、全然子供で、明るい元気な駄々っ子みたいな感じで…知的障害のはず…んん?」
「知的障害? 何か問題が有ったのかね? 病名は?」
「あ、いえ、僕も詳しくは知らないんです。葵さんが知ってるかも知れませんが…」
「ああ、さっき出て行った彼女か。ま、戻って来たら聞こうじゃないか。煙草を吸いに行くと言っていたし。それで、彼女の問題、君はどう感じていたのかい? 参考程度に、教えてくれないか」
「はい、僕から見て…彼女はLDかアスペルガー症候群のように見えました。会話に対する正確なオウム返し、精密な絵を描いたり砂の城を作ったり、難しい医学書でもじっと見て読んだりと」
不思議そうに小首を傾げる銀髪の彼女は普通の人間で、子供でもない。俺と同い年か少し下だろう。高校生かそれより上に見える。まるで、アリスが大人になってしまったようで、なんだか妙な気分だ。パジャマ姿も少し色っぽいので、あまり見つめられない。
「ふむ……君は研修医かな?」
「あ、いえ、ただの医大生です」
「そうか。LDねえ…そっちの検査もやってみるかな。他に気になったことはあるかね?」
「いえ、精神年齢がもっとずっと下で、言葉遣いも小学生低学年か幼稚園児くらいだったという事以外には…」
「そう。それは…ああ、そうだ、君はいつくらいからの知り合いかね? 彼女の小学校の思い出とか、何か知っているかな」
「ああいえ、僕はほんの二週間前くらいに知り合っただけで、アリスとは昔からの知り合いではないんです」
「そうか。ふむ」
「えっ、そうなのですか?」
麗華が驚く。
「では、アリス君の通っていた学校、連絡先というのは…」
「すみません、僕には分かりません。葵さんなら知っていると思いますが…」
「そうか、じゃあ、ま、彼女が戻ってくるのを待つか。アリスさん、彼について、見覚えの有る感じ、何でもいいから、印象を話してくれないか」
熊川がその人に話しかける。
「あ、はい…。見覚えは……よく解らないです。知っているような気もしてきたんですが…あやふやで。勘違いかも」
銀髪の少女が自信なげに答えた。
「うん、じゃあ、それはひとまず置いておこう。彼の特徴について、何か有るかな? どんな人に見える? 優しい人、厳しい人、怖い人、いい加減な人――」
「あ、優しい人だと思います。さっき、あの、葵さんという人が、そのう…ショックを受けられて私を揺すったときに、この人が取りなしてくれましたから」
「うん、論理的な観察による感想だね、それはそれで良いんだが、ぱっと見た感じの直感の印象も教えてくれるかな」
「ぱっと見ですか…えっと、あの、変な事でも?」
「ああ、構わないよ。何でも良いさ。思いつくままに言ってくれ。ロリコンに見えるなぁ…なんて事でも、いいんだぞ」
ぐぐ。俺はロリコンに見えるのか。ちょっとショックだ。
「あ、いえ…外見だと、格好良い人なんですが」
「ふむ、まあ、中性的だが、美形には違いないな。格好良いね。男らしく見えるかい?」
「え? ええ、どちらかというと。それに、頼れる人のようにも見えます」
「頼れる人? ふむ…」
熊川医師が俺をみて顎髭に手をやるが。俺もそう言われたのは初めてだ。
「あ、ごめんなさい」
銀髪の少女は少しばつが悪そうにうつむいてしまった。それを見て熊川医師が笑って首を振った。
「あ、いやいや、いいんだよ。君が見たままの感想だからね。他には? 思いついたことをどんどん言ってみて」
「困惑、失望、悲しみ……、すみません、まとまりが無くて」
「いや、結構。困惑というのはよく解る。真田君だったね、君の気持ちはそんなところだろう?」
熊川が俺に聞くので頷く。
「ええ、全くその通りです」
「よく観察している。シンパシーもやはり優れているが…鬼岩君、君は真田君を見て、どう思う?」
「え? 私ですか?」
「ああ。ちょっと参考までに聞かせてくれ。特に彼の感情について」
「感情…いえ、困惑と言う事くらいしか。それほど、感情を表に出すような方には見えません」
「ふむ、そうだな。君は割合、センスが鋭い人間だと思うが…その君から見ても、その程度なわけだ。真田君、失望や悲しみは間違っていないんだね?」
「ええ。あの、それが何か?」
熊川が何を調べようとしているのか、よく分からない。
「ああ、うん、親しい人間の感情というのは、ちょっとした仕草で分かったりするものだからね。君とアリス君はやはりそう言う繋がりがあるんだろう。それに、僕から見て君が男らしくて頼れると言った風には見えないんだが、アリス君の目からはそう見えている。以前の君の記憶が無意識のレベルで、想起されているのだろうね」
「ああ…」
ようやく合点がいった。
「熊川先生、熊川先生、内線115までご連絡願います」
病院のアナウンスが入った。
「おっと、いかん、予約の時間だ。悪いが、一旦失礼するよ。真田君、また時間が取れたら見舞いに来てくれないか。思い出話を聞かせてやれば、記憶も早く戻ると思う。それじゃ、また後で」
熊川が病室を出て行った。麗華が言う。
「では、真田さん、何か、アリスさんとの思い出を話してくれませんか。あ、私は席を外しますね」
「あ…」
アリスがちょっと困った顔をする。今の彼女にとっては、俺よりも麗華の方が知り合いなのだろう。
「待った。邪魔じゃないし、アリスも麗華さんがいてくれた方が安心すると思うから。入院の面倒、見てくれたんだよね? お礼が遅れて、申し訳ない」
「ああ、いえ、お礼なんて。当然のことをしたまでですから」
「料金の方だけど」
「それは気にしないで下さい」
「いや、そう言うわけにはいかないよ」
「いえ、本当に、構いませんので」
「いや、それは悪いよ。ああ、詩織」
病室に詩織が顔を見せた。
「こっちに葵さん、まだ来てない?」
「いや、もう来てたよ。今、煙草を吸いに行ったから」
「そう。ああ、アリス…ちゃん?」
詩織もアリスの変化に戸惑った様子。
「紹介しておこう。彼女は白百合詩織。君の近所のお姉さん的な存在かな」
俺が言う。
「お姉さん…」
「アリスは記憶障害だそうだ。少し、性格も変わった感じに見える」
詩織に簡単にアリスの状態を説明しておく。
「そうね」
「じゃ…うーん、思い出話と言われてもなあ」
「私、リンゴを剥きますね」
詩織が棚のリンゴを取る。カゴには果物が一杯だ。
「うーん」
俺が考え込んでいると、麗華が言う。
「そうですね、急に思い出と言われても、難しいかも知れませんね。では、アリスさんとの出会いはどうですか? 差し支えなければ、二人が最初に出会ったときのことをお話ししてもらえればと…」
「ああ、構いませんよ」
俺は学校の帰りに彼女と出くわしたこと、付いてこられたこと、交番に連れて行ったこと、泊めてやったことを話した。
「わ、私、そんな事しません!」
俺の目の前にいるアリスは、戸惑った様子で首を横に振った。
「いや、うん、まあ、そうだよね…」
「部屋に連れ込んだのですか? それはまた…真田さんは一人暮らしだったのでしょう? 殿方の部屋に…なんて」
「軽率ですよね」
女性陣の目が厳しい。
「い、いや、言い訳させてもらうと、アリスが帰るのを嫌がって…」
「う、嘘です、知らない人になんて…私、そんなの、覚えてません」
「いや、まあ、そう思うよねえ…」
「それを証明する手立ては、あ、いえ、疑っているわけではないのですが」
麗華が言うが、証明は簡単だ。
「交番に連れて行ったし、一度は迷子の届け出をしてるから、彼女が家出していたと言うのはそれで証明できると思う」
「あの、私がその人と別人だという可能性は有りませんか?」
ベッドの上のアリスが聞いた。
「うーん、俺もそんな感じがするんだけど、ただ、葵さんが間違い無いって言ってるし…それに、君の瞳と髪の毛、それに、その顔形からすると、アリスと何らかの関係があるのは間違い無いと思う。親戚か姉妹か。お姉さんじゃないのかなあ」
「その可能性は有りそうですけど、アリスさんに血縁者はいらっしゃいますの?」
「ああ、いや、それは葵さんに聞かないと分からないな」
「もう、頼りない人」
麗華に言われてしまった。
「すみません…」
自分でもそう思う。俺はアリスのことは何も知らない。葵に聞いても教えてもらえない、つまり、葵が教えたがらなかったという事も有るのだろうが。
「でも、私から見ると…表情は少し違いますが、本人だと思います」
詩織はそう言うが、アリスの仕草やしゃべり方があまりに違うので、何とも言えない。
「他に思い出話はありませんの?」
「うん、そうだな…アリス、さん。翌日、僕の大学へ付いて来ちゃったこと、覚えてない?」
「大学へ?」
「そう。ちょうどあの時は、そうそう、試験前で、どうしても出席しようと思ってて、遅刻しながら席に着いたんだけど、君…アリスが、追いかけて入って来ちゃって、はは、ノートの取り合いになっちゃって、授業を邪魔するなって教授に怒られてさあ」
「すみません、思い出せないです…」
「詩織が一緒にお風呂に入れてあげたことは?」
「あ、私と一緒にお風呂に入ったよね」
「はあ、そう…なんですか…」
「うちの姉貴とアルバムを見せる約束とかもしたな」
「はあ…真田さんのお姉さんですか」
「ま、君じゃないかも知れないし、アリスの思い出話ってことで。君はひょっとするとお姉さんの方かも知れないし、妹のことを知っておいてもいいだろ?」
「ええ、そうですね」
今は誰かにアリスのことを話しておきたかった。まるで、彼女が消えてしまいそうで、それが嫌だった。いくつか話したが、さすがに、産婦人科に連れて行っただとか、そういう危険なところは、麗華の前では話せない。だが、アリスがどんな子なのかは、麗華とアリス姉?に少し伝わったようだ。
「へえ、アリスちゃんって可愛らしい感じですね。今のアリスさんからはちょっと想像が付きませんけど」
麗華が俺の知ってるアリスの感想を述べる。
「もう、私…そんなアホな子じゃないです。あの、他には…」
アリスも多少打ち解けて、幼女アリスの存在は否定はしているが、自分から話を促してきた。
「そうだなあ。あとは、ああ、そうそう、りっちゃん、俺の友達が大学で飴をくれただろう」
「りっちゃん…」
「本名は中田珠美なんですけど、あの子、自分であなたにりっちゃんだって言ってて、ふふっ」
「面白い方みたいですね」
「そうだな。ま、後で連れてくるか」
「ええ」
「どうですか、アリスさん、何か思い出せましたか?」
麗華が聞くが。
「いえ…あの、真田さん、その後はどうなったんでしょう?」
「うーん、あとは、葵さんが大学へ怒鳴り込んできて、俺が誘拐したと勘違いして、ここをぶん殴られた」
「えっ!」
「まあ、大したことなかったんだけどね、ちょっと腫れただけで。その時に、アリスが必死に喧嘩を止めようとしてくれてたな。駄目、賢一、いい人って、くっ」
目の前で必死なアリスを思い出し、急に感情が高ぶってしまう。
「ああ…大丈夫ですか?」
「ああ、悪い。ちょっと。何でも無い。くそ、アリス、どこにいるんだ。どこなんだよ…!」
目の前にいるのがアリスだとどうしても受け入れられない。ひょっとしたら、まだ彼女はどこかでひとりぼっちで腹を空かせているのではないか、車に轢かれたりしているのではないか、そんな不幸な考えが浮かんでしまう。
「真田さん…私、ここです。ここ」
「えっ? 何か思い出したの?」
「あ、いえ、ごめんなさい…その、つい」
アリスが困った顔をする。思い出したフリだったようだ。
「ああ、そういうこと。人が悪いな。はは」
「すみません…」
「ああ、いやいや、ありがとう。ごめん、みっともないところを。君の方が大変なのに」
「いえ、私は皆さん、良くしてくれますし。ただ…ごめんなさい。どうしても、思い出せなくて。いっつ」
アリスが右手で自分のこめかみを押さえて、頭痛がしたらしかった。
「ああ、無理しては行けませんわ。先生もあまり思い詰めないようにと仰っていましたし」
麗華がアリスをそっとベッドに寝かせた。
「アリスさん、大丈夫、きっと思い出せますから。あなたには時間が必要なんですよ」
「はい、ありがとうございます。麗華さん」
この子には、良い友人がいる。だが、アリスには…。
「そう言えば、葵さん、何やってるんだろ。ちょっと探してきます」
「あ、はい」
廊下に出てみたが、葵は見当たらない。ロビーに降りてみたが、ここにも姿は無い。人が多いので、ちょっと苦労しそうだ。呼び出しを…その前に一応携帯にかけてみようかと思い立ち、一度病院の電話コーナーの近くで携帯をかけてみる。
すぐ繋がった。
「ああ、葵さん、今どこにいるんですか?」
「熊川先生の診察室だ。アリスが何か思い出したのか?」
「いや、まだ何も…それより、ああ、話を聞いてたのか」
「まあな。そうか。何も思い出さないか。くそっ」
「葵さんもちょっと顔を見せて欲しいんだけど。本当に彼女、アリスなんですよね?」
「そう言っただろ。あれが本来のアリスなんだよ」
「本来の?」
「病室にいるんだな。待ってろ、今、熊川先生とそっちに行く。いや、お前がこっちに来い」
教えられた診察室へ入る。




