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第10話 横にいるから


 その翌日の月曜日


 営業部へ着いてパソコンを立ち上げると、休み明けのメールがまとめて流れ込んできた

 返信が必要なものを拾い、自分の予定表と見比べていると、始業から十分もしないうちに机の横へ人が立つ


「佐々木せんぱぁい……」


 顔を上げると、長澤がノートパソコンを胸の前で抱えていた

 普段なら離れた席からでも「せんぱ〜い!」と飛んでくるのに、今日は声まで小さい


「どうした?」


「わたし、やらかしました」


「何を」


「これです……」


 長澤が空いている椅子を寄せ、ノートパソコンを開く

 画面に出ているのは担当企業とのメールで、先週の打ち合わせ後に勤務地と応募条件の一部が変更されていた


 修正版の求人資料はフォルダにちゃんと残っている

 問題は送信済みメールの方で、添付されているファイル名が一つ古い


「旧版送った?」


「……はい」


「修正版はこれ?」


「それです」


 中身を開くと、変更箇所はきちんと反映されていた

 資料を直すところまではできていて、送信する時に隣へ並んでいた古いファイルを選んでしまったらしい


「先方から連絡来た?」


「さっき電話が来ました、『先週お伝えした内容が反映されていないようですが』って」


「何て返した?」


「確認して折り返しますって……」


「なら、まず部長に報告しよう」


 長澤の肩が目に見えて下がる


「やっぱりですよね……」


「黙って送り直すわけにはいかないだろ」


「分かってるんですけどぉ……」


 語尾まで弱っている


「修正版はできてるんだから、あとはちゃんと訂正すればいいよ」


「でも、担当になってから初めて大きめの求人を任せてもらった会社なんです」


「だったら余計に長澤が最後までやらないとな」


 唇を結んだ長澤は少し黙り、それから小さく頷いた


「……行きます」


「うん」


 俺も立ち上がる


「一緒に来てください」


「それくらいなら」


 二人で部長席へ向かうと、水口部長が顔を上げた


「部長、少しいいですか」


「うん、どうしたの?」


 俺が横へずれると、長澤が一歩前へ出る


「先週、先方から変更いただいた求人条件の件なんですが、修正前の資料を添付して送ってしまいました、先ほど先方から確認のお電話をいただいています」


 水口部長は途中で遮らず、最後まで聞いてから長澤へ視線を戻した


「正しい資料はできてる?」


「はい」


「佐々木くんも確認した?」


「今見ました、変更箇所は反映されています」


「分かった、じゃあ長澤さんから先方へ謝罪して、正しいものを送り直してもらえる? 終わったら私にもメールを転送して」


「はい」


「再発防止はそれが済んでから考えよう、今は先方を待たせないこと」


「分かりました」


 それで話は終わった


 席へ戻る途中、長澤が胸元へ手を当てる


「……緊張しました」


「報告は嫌だよな」


「水口部長、怒ってませんでした?」


「今からやること言われただろ、それをやればいいよ」


「はい……」


 自席へ戻ると、長澤はすぐ謝罪メールを書き始めた


         ◇


 数分後、ノートパソコンの画面をこちらへ向けられる


「佐々木せんぱい、これで大丈夫ですか?」


 さっきまでとは違い、今度は伸ばさない呼び方だった


「一回自分で読んだ?」


「読みました」


「じゃあ見る」


 文章そのものに大きな問題はない

 ただ、冒頭で謝ったあと、中盤でもほとんど同じ内容を繰り返している


「ここ、なくしていいよ」


「二個目の謝罪ですか?」


「同じこと二回書いてるから、一回で伝わる」


「あ、ほんとだ」


 長澤が一文削り、そのまま送信ボタンへカーソルを合わせる

 けれど、クリックする直前で指が止まった


「……先に電話ですよね」


「うん」


 マウスから手が離れる


 しばらく受話器を見ていた長澤が、今度は俺を見た


「佐々木せんぱい」


「何?」


「電話、代わってもらうのは……」


 そこまで言って、自分で困ったように笑う


「駄目ですよね」


「俺がやれば早いけどな」


「はい」


「でも長澤の担当だろ」


 受話器へ伸ばしかけた手が止まったので、俺はメモ用紙を一枚取った


 謝ること

 古い資料を送ったこと

 修正版をすぐ送ること

 変更箇所の確認


 長い台本にしたら余計に読み上げるだけになりそうなので、それだけ書いて長澤の横へ置く


「電話は長澤がしろ」


「……はい」


「横にいるから」


 顔が上がった


「いてくれます?」


「いるよ」


 長澤は一度深く息を吐き、今度こそ受話器を取った


         ◇


「いつもお世話になっております、キャリアネクサスの長澤です」


 最初の声は少し高い

 俺は口を挟まず、メモの一行目を指す


「先ほどご連絡いただいた資料の件ですが、こちらの確認不足で変更前のものをお送りしておりました、申し訳ありません」


 そこで黙り、相手の話を聞く


 向こうの声までは聞き取れない

 長澤は何度か「はい」と返してからメモへ視線を落とした


「修正版はすでに用意できておりますので、このあとすぐに再送いたします、勤務地と経験年数についても反映済みです」


 また相手の話を聞く

 さっきまで受話器を強く握っていた指から、少しずつ力が抜けていった


「はい、ありがとうございます、今後は添付時の確認を徹底いたします、失礼いたします」


 受話器を戻しても、長澤は数秒そのままだった


「終わったぞ」


「……終わりました」


「メール送っとけ」


「あっ、はい」


 今度は迷わず送信し、水口部長への転送まで済ませる

 そこまで終えたところで、長澤が机へ突っ伏した


「つかれましたぁ……」


 いつもの伸びた声が戻っている


「先方、大丈夫だった?」


「修正版送ってくれれば問題ないって」


「じゃあよかったな」


「はい……」


 長澤は机へ頬をつけたまま、しばらく動かなかった

 やがて身体を起こすと、メモ用紙を自分の方へ引き寄せる


「次から添付開いて確認します、ファイル名にも日付入れます」


「その方がいいな」


「もう間違えません」


「そこまで言い切らなくていいよ、間違えた時に気づけるようにしとけば」


「……それもそうですね」


 さっきよりは普通の顔に戻った


 俺が自分の席へ戻ろうとすると、シャツの袖口を軽く引かれる


「佐々木せんぱい」


 振り返ると、真面目な声だった


「ありがとうございました」


「電話したの長澤だろ」


「でも、横にいてくれたじゃないですか」


「それくらいならいつでもやるよ」


 袖を摘まんでいた指が離れる


 長澤は何か言いかけたあと、少しだけ笑った


「……はい」


         ◇


 昼休み


 コンビニから戻ると、俺の机に見覚えのない缶コーヒーが置いてあった

 手には今買ってきたばかりの同じ銘柄がある


「……増えてる」


「せんぱ〜い!」


 少し離れた自分の席から長澤が手を振った


「それ、わたしです!」


 そう言うと、自分の缶を持って席を立ち、そのままこちらまで歩いてくる


「朝のお礼です」


「俺も買ってきちゃったんだけど」


「えっ」


 長澤が俺の右手を見て、机の一本を見て、最後に自分の手元へ視線を落とした


「……三本ありますね」


「あるな」


「いっぱい飲めます」


「そんな前向きに処理する量じゃないだろ」


 長澤は笑いながら、俺の机の横にある空いた椅子を引いた


「じゃあ一本は午後にしてください」


「そうするよ」


「冷蔵庫入れときます?」


「午後までなら平気だろ」


「せんぱい適当ですね」


「コーヒーにそこまで厳しくないだけ」


 一本を開けると、長澤も隣で自分の缶を開ける


「パイセン、何そのコーヒー祭り」


 通りかかった折笠が足を止めた


「長澤がくれた」


「へえ?」


 折笠の視線が俺から長澤へ動き、そのまま二人の椅子の間へ落ちる


「路歌ちー、近くない?」


「え?」


 長澤が自分と俺の距離を見た


 机の真横まで椅子を寄せている


「……あ」


 急に椅子を引いたせいで、キャスターが思った以上に転がった


「危な」


 背もたれを掴んで止める


「す、すみません!」


「別にそこまで離れなくてもいいだろ」


「はいっ!」


 返事だけ大きい


 折笠が肩を揺らして笑った


「路歌ちー、分かりやす」


「何がですか!」


「んー?」


「その顔、絶対なんかあります!」


「別にぃ?」


 折笠はそう言いながら俺の机の横へ回り込み、長澤の耳元へ顔を寄せた


 何か小さく囁く


「……え?」


 長澤の動きが止まった


 折笠を見る

 次に俺を見る


 目が合った瞬間、勢いよく逸らされた


「長澤?」


「な、何でもないです!」


 耳まで赤い


「真奈美さん!」


「はいはい、あーしは何も言ってませーん」


「言いました!」


 二人のやり取りを見ても、俺には何の話か分からない

 折笠だけは妙に楽しそうだった


         ◇


 午後になると、長澤の様子が少し変わった


 仕事そのものは普通にしている

 電話もメールもいつも通りなのに、俺の席へ来る時だけ妙に距離を取る


「佐々木せんぱい、少しいいですか」


「いいよ」


 持ってきたのは午前中とは別の求人票だった


「この勤務時間なんですけど、フレックスのコアタイムが書いてなくて」


「そこは聞いた方がいいな、候補者から聞かれるだろうし」


「ですよね」


「あとリモートの頻度も一緒に確認しとけば?」


「あ、それも聞きます」


 長澤がメモを取っている

 いつもなら画面を覗き込めるところまで椅子を寄せるのに、今日は俺との間がやけに空いていた


「長澤」


「はいっ」


「遠くない?」


「え」


 俺と自分の椅子を見比べる


「……近いって言われたので」


「今度は画面見えないだろ」


「見えます!」


 たぶん見えていない


「折笠に何か言われた?」


 肩がぴくっと動いた


「……言われました」


「何て?」


 長澤はペンを持ったまま少し黙り、やがて首を横に振った


「それは内緒です」


「そんな大事な話?」


「……わたしには、ちょっと」


 そこまで言われると、これ以上聞くのも違う気がする


「分かった」


「はい」


 長澤はほっとしたように息を吐き、求人票へ視線を戻した


「じゃあ、この二つ確認してきます」


「頼む」


 立ち上がって二歩ほど進んだところで、長澤が一度だけ振り返る


 また目が合った


 今度はすぐには逸らさなかったけれど、何も言わず小さく頭を下げ、自分の席へ戻っていった


         ◇


 仕事を終え、美冬さんの部屋へ戻ったのは俺の方が少し早かった


 冷蔵庫から鶏肉を出し、照り焼きの準備を始める

 肉を焼き始めたところで玄関が開いた


「ただいま」


「おかえりなさい、美冬さん」


 ジャケットを脱いだ美冬さんがキッチンを覗く


「今日なに?」


「鶏の照り焼きです」


「やった」


 会社ではまず聞かない声だった


 着替えに行くのかと思ったら、美冬さんはダイニングの椅子へ腰を下ろした

 俺は鶏肉を裏返し、合わせておいた調味料へ手を伸ばす


「慎太郎」


「はい?」


「今日、長澤さんのフォローありがと」


「俺、ほとんど横にいただけですよ」


「それが助かったんじゃない?」


「ならよかったですけど」


 美冬さんはそこでスマホへ視線を落とした


 俺も料理へ戻る

 しばらくしてフライパンから甘辛い匂いが立ち始めた頃、後ろからもう一度声がした


「長澤さんって、慎太郎の席にいる時近いよね」


「今日、折笠にも言われてましたよ」


「そうなんだ」


「本人は気づいてなかったみたいですけど」


「ふーん」


 短い返事で会話が終わる


 俺は醤油をもう少し足そうと手を伸ばした

 すると美冬さんが先に椅子から立ち、ボトルを取る


「これ?」


「ありがとうございます」


 受け取ろうとしたのに、手渡されない


「美冬さん?」


 そのまま後ろへ回られ、背中に身体がくっついた

 腰へ腕まで回ってくる


「ちょっと、火使ってますよ」


「うん」


「危ないですって」


「じゃあ弱くして」


 言われるまま火を弱める

 それでも腕は離れず、美冬さんは俺の背中へ額をつけたまま黙っていた


「……疲れました?」


「ちょっと」


「じゃあ少しだけですよ」


「うん」


 片手を伸ばしてフライパンを火の中心からずらす


 数秒待っても離れる様子がない


「美冬さん」


「なに?」


「照り焼きが止まってます」


「もうちょっと」


「鶏肉に待ってもらいます?」


「待てる?」


「無理です」


「じゃあ仕方ない」


 ようやく腕が緩んだ

 離れる直前、美冬さんが背中へ頬を一度押しつける


「はい、いいよ」


「許可制だったんですか?」


「早く作って」


「止めてたの美冬さんですよ」


 返事はない


 美冬さんは何事もなかったように椅子へ戻り、冷蔵庫から出したビールを開けた


 俺も火を元へ戻し、フライパンを揺らす


 照り焼きは、ぎりぎり焦げずに済んだ

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