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第1話 俺を男にしてください!


「佐々木パイセンって、彼女いたことないんすか?」


 折笠がそんなことを言い出したのは、飲み会が始まって一時間ほど経った頃だった


 お盆休暇前日の金曜日


 上野駅近くの居酒屋には仕事から解放された会社員が詰め込まれ、うちの営業部も奥の座敷を十二人で占領している


 最初は今月の成約がどうとか、休み中に担当企業から電話が来たら嫌だとか、それなりに会社員らしい話をしていたはずだ


 酒が回れば、この有様である


「いきなり何の話だよ」


「だって佐々木パイセン、そういう話ぜんぜんしないじゃん」


 向かいに座った折笠がジョッキを持ったまま身を乗り出してくる


 金髪のショートに派手なピアス、ネイルまでばっちり決めた二十二歳の後輩は、こういう場になると仕事中より三割増しくらいで遠慮がない


「しないんじゃなくて、する話がないだけだ」


「え、彼女いないの?」


「いない」


「今はいないってだけ?」


「どういう意味だよ」


「元カノは?」


「いない」


 折笠の動きが止まった


「……え、待って」


「何だよ」


「じゃあ今まで一人も?」


「いないけど」


「マジで?」


「何で二回聞いた」


 折笠が隣の長澤へ勢いよく顔を向ける


「路歌ちー、聞いた?」


「聞こえてます」


 長澤は困ったように笑いながら、小さなグラスを両手で持っていた


 黒く長い髪にお姫様カット、小柄でふわっとした雰囲気のせいか、二十一歳なのにこういう居酒屋へいると少し場違いに見える


「でも佐々木せんぱい、女の人とも普通にお話しできますよね?」


「仕事ならな」


「優しいですし」


「長澤」


「はい?」


「今の流れだと、そのフォローは地味に刺さる」


「あっ」


 ようやく気づいたらしい


 長澤が口元を押さえる横で、折笠が噴き出した


「路歌ちー天然すぎ!」


「ち、違います、わたし褒めたかっただけで」


「分かってるよ」


 実際、長澤に悪気がないことくらい知っている


 入社して間もない頃、取引先への連絡で失敗して電話を怖がっていたことがある


 あの時も俺は電話自体を代わってやったわけじゃない


 横に座って、何かあったらフォローするから掛けてみろと言っただけだ


 長澤は今でもその時のことを妙に覚えているらしい


「ほら、やっぱ優しいじゃん」


 折笠が枝豆を摘まみながら口を挟んでくる


「だったら普通モテん?」


「知らん」


「顔だって別に悪くないし」


「お前、さっきから何がしたいんだ」


「純粋な疑問」


「人の恋愛歴を酒のつまみにするな」


「じゃあ最後に一個だけ」


「嫌だ」


「もしかして童貞?」


 直球にもほどがある


 近くにいた何人かが反応して、こっちを見た


 逃げたい


 今すぐ座敷の床下にでも潜りたい


「折笠さん」


 低い声が飛んできた


 折笠の肩がぴくっと揺れる


 座敷の上座でグラスを持っていた部長が、少しだけ眉を上げていた


 亜麻色の髪をハーフアップにまとめ、店に入ってすぐジャケットを脱いだはずなのに、なぜか一人だけ仕事中の空気が残っている


 俺より三つ年上の二十八歳


 営業成績も交渉も部下の管理も強く、二十五歳で営業部長になった人だ


「飲み会だからって、何を聞いてもいいわけじゃないでしょう」


「ぶちょー、すんません」


「佐々木くんが嫌がってるじゃない」


「でも否定してないっすよ?」


「折笠」


「はい、やめまーす!」


 部長に見られて、折笠が両手を上げる


 助かった


 助かったのだが、俺が童貞かどうかは否定されないまま話が終わった


 結果として答え合わせだけ済んだ気がする


「佐々木せんぱい、ごめんなさい」


「長澤は何もしてないだろ」


「わたしも話に乗っちゃったので」


「気にしなくていい」


「ほら路歌ちー、やっぱ優しい」


「お前は反省しろ」


「あーしも謝ったじゃん!」


 そんなやり取りに周りが笑い、話題が別の方へ流れかけたところで、少し離れた席から森川が口を挟んできた


「でもマジなんすか、佐々木さん」


 一年後輩の森川英二


 金髪の短髪に日焼けした肌、百八十二センチの長身


 同じ営業部でも俺とは明らかに違う種類の生き物で、他部署の女性社員からもよく声を掛けられている


「もう終わった話だろ」


「いや、だって佐々木さん、二十五ですよね?」


「そうだけど」


「二十五で経験ないとか今まで何してたんです?」


 笑いながら言われた


 森川にしてみれば、いつもの軽口だったんだと思う


 俺だって普段なら、うるさいと返して終わったはずだ


 それなのに妙に耳へ残った


「……仕事してたよ」


「いやいや、そういう意味じゃなくて」


「分かってる」


 ハイボールへ手を伸ばす


 氷がグラスの中で鳴った


 朝起きて会社へ行き、担当先を回って、資料を作って、帰れば漫画かラノベを読む


 休みの日は溜めていたアニメを見て、気が向けば本屋へ行く


 俺としては普通に生きてきたつもりだった


 その結果を一行にすると『二十五歳、彼女いない歴イコール年齢』になるらしい


 便利な要約だな


 全然嬉しくないけど


「森川くん」


 部長の声で、森川の笑いが止まった


「そういうことで人を馬鹿にしない」


「いや、部長、オレは別に馬鹿にしたっていうか」


「冗談でも」


 森川が一瞬だけ黙る


「……すみません、佐々木さん」


「別にいいよ」


「ほら、佐々木さんもこう言ってますし」


「本人が許すのと、言っていいかどうかは別」


 森川が今度こそ口を閉じた


 強い


 客先で無茶な条件を出された時もそうだが、部長は声を荒らげないまま相手の逃げ道を塞ぐ


 俺にはできない芸当だ


「佐々木くんも」


「はい」


「少し飲むペース落としてね」


 持ち上げかけたグラスを見られていた


 俺は大人しくテーブルへ戻す


「……はい」


「素直でよろしい」


 折笠が横から笑う


「佐々木パイセン、ぶちょーの言うことだと一発で聞くじゃん」


「上司だからな」


「従順〜」


「お前は黙って飲んでろ」


「はーい」


 今度こそ話題は変わった


 誰が休み中に旅行へ行くとか、実家へ帰るとか、そんな話が座敷のあちこちで始まる


 俺も適当に混ざったが、森川の一言だけは思ったよりしつこく残った


         ◇


「佐々木くん、大丈夫?」


 店を出て駅へ向かおうとしたところで、部長に呼び止められた


 飲み会は十時前に終了


 二次会へ行く連中と帰る連中に分かれ、折笠と長澤は他の女性社員たちと駅へ向かい、森川は二次会組へ混ざって消えていった


 俺も帰ろうとしたのだが、まっすぐ歩いているつもりなのに一度だけ歩道の縁石へ靴を擦った


 そこを見られたらしい


「大丈夫です」


「その台詞、今日何回目?」


「初めてです」


「じゃあ一回目から信用できない」


「厳しくないですか?」


「誰かさんが思ったより飲んでるからね」


 部長が呆れたように俺を見る


 上野駅へ続く通りはまだ人が多く、居酒屋から出てきた集団が何組も歩いていた


「水買おうか」


「そこまで酔ってないですよ」


「いいから」


 近くのコンビニへ押し込まれた


 自分の水くらい自分で払おうとしたのに、部長はついでみたいに自分のお茶と一緒に会計を済ませる


 店を出ると、そのままペットボトルを渡された


「飲んで」


「俺、二十五ですよ」


「知ってる」


「子供じゃないんですけど」


「今日の佐々木くんは二十歳くらい」


「五歳しか下がってないじゃないですか」


「じゃあ十八歳」


「急に未成年にしないでください」


 部長が笑った


 会社で見るのとは少し違う笑い方で、それにつられて俺も口元が緩む


 キャップを開けて半分ほど飲むと、熱を持っていた喉が少し楽になった


「さっきはすみませんでした」


「何が?」


「変な空気にして」


「佐々木くんが謝ることじゃないでしょう」


「でも俺の話で」


「始めたのは折笠さん」


 部長が即答する


「森川くんも余計なこと言ったしね」


「森川はまあ……ああいう奴なんで」


「だからって、何を言ってもいいわけじゃないよ」


 店の中より声が柔らかい


 それでも内容は部長のままだった


 俺はペットボトルを握ったまま、しばらく歩く


 気にする必要なんてない


 森川と俺では生き方も性格も違う


 分かっているのに、酒が入っているせいか頭の隅に残ったままだ


「部長」


「ん?」


「女の人って、やっぱり経験ない男は嫌なんですか」


 部長の足が止まった


 俺も二歩ほど進んでから止まる


 やった


 今のは確実に失言だ


 直属の女性上司へ夜の上野で聞く質問じゃない


「すみません、忘れてください」


「森川くんの言ったこと、気にしてるの?」


「……ちょっと」


 部長が黙って俺を見る


「かなりです」


「でしょうね」


 見抜かれていた


「私は別に、経験があるかないかだけで男の人を決めないけど」


「そうなんですか」


「そこで急に元気になるのやめて」


「いや、重要な情報なので」


「佐々木くん、酔ってるね」


「それは否定できません」


 再び歩き始める


 信号待ちで並ぶと、隣にいる部長の横顔がやけに近く感じた


 会社では毎日のように会っているのに、二人だけで夜道を歩いたことなんて一度もない


「でも佐々木くん、今まで好きな人くらいはいたでしょう?」


「学生の頃なら」


「告白しなかったの?」


「してません」


「どうして?」


「俺が言っても迷惑かなって」


 信号が青へ変わる


 歩き出した部長が、横断歩道の途中でちらっと俺を見た


「佐々木くんって、恋愛になると急に弱気になるね」


「仕事と違って正解がないじゃないですか」


「仕事にも正解なんてないでしょう」


「ありますよ、契約取れたら正解です」


「そんな営業してないくせに」


 言われて返事に詰まった


 確かに、契約さえ取れれば何でもいいなんて仕事はしていない


 客に合わない条件なら止めるし、後輩にも数字だけ見ろとは言わない


「相手がどう思うかは、相手にしか決められないよ」


 部長が前を向いたまま言った


「最初から自分で駄目って決めてたら、何も始まらないでしょう」


 その言葉が、酔った頭の変なところへ引っかかった


 相手がどう思うかは相手にしか決められない


 だったら――


 いや


 普通なら、ここで終わる


 なるほどと頷いて、そのまま駅へ行けばいい


 明日からお盆休みだし、家に帰って寝ればいい


 なのに俺の足は止まった


「部長」


「ん?」


 部長が振り返る


「一個、お願いしてもいいですか」


「内容によるけど」


 心臓が急にうるさくなる


 酒の勢いなのは分かっている


 明日の俺が今の俺を見たら、全力で首を絞めに来るかもしれない


 それでも口は止まらなかった


「ちょっと、人の少ないところ行きません?」


「……何する気?」


「お願いします」


「その言い方すごく不安なんだけど」


 大通りでやる勇気だけは残っていなかった


 一本横の通りへ入る


 飲食店が並ぶ表通りより人は少ない


 そこで鞄を肩から下ろした


 部長の眉が寄る


「佐々木くん?」


 膝をついた


「え?」


 両手を地面へ置く


「ちょっと待って」


 額を下げる


 そして腹の底から声を出した


「俺を男にしてください!」


「何してるの!?」


 即座に腕を掴まれた


 そのまま物凄い力で引っ張り上げられる


「立って! 今すぐ立って!」


「お願いします!」


「お願いじゃないの! ここ外!」


「じゃあ場所を変えます!」


「そういう問題でもない!」


 怒られている


 完全に怒られている


 さすがに俺も、自分がとんでもないことをした自覚はあった


 酔った勢いで直属の女性上司へ土下座して、童貞卒業を頼んでいる


 文字にするとさらに終わっている


 部長は周囲を確認すると、俺の腕を掴んだまま建物の脇へ移動した


「佐々木くん」


「はい」


「私が何を頼まれたか、本当に分かってる?」


「分かってます」


「言ってみて」


「それは改めて言わせるんですか?」


「言って」


 逃げられない


「……俺の初めての相手になってほしいです」


 口にした途端、一気に恥ずかしくなった


 土下座して叫ぶより、普通に言う方がきつい


 部長が額へ手を当てる


「あなた今、お酒入ってるよね」


「はい」


「かなり」


「さっきよりは水飲んだので」


「そういう問題じゃないの」


 部長は少し黙ってから、俺の目をまっすぐ見た


「酔って勢いがついただけ?」


「それは……あります」


「あるんだ」


「嘘ついても仕方ないので」


「明日の朝になったら、やっぱりなしって言う?」


「言いません」


「今から駅へ行って、一人で帰る選択もできるよ」


「帰りたくないです」


 言ったあと、自分でも驚いた


 部長も一瞬だけ目を細める


「誰でもいいから経験したいって話?」


 また聞かれた


 酔った頭でも、ここだけは間違えたら駄目だと分かった


 誰でもいいなら、そもそも部長へ土下座なんてしていない


 会社で毎日顔を合わせる上司だ


 失敗すれば仕事まで気まずくなる


 それでも頼んだのは――


 目の前にいるのが、この人だったからだ


「違います」


「じゃあ誰がいいの?」


 喉が詰まりそうになる


 部長は助け舟を出してくれない


 俺は一度だけ唾を飲み込んだ


「水口部長がいいです!」


 言った


 さっきの土下座より恥ずかしい


 今度こそ明日の俺に殺される


 部長はすぐには返事をしなかった


 通りを走る車の音がやけに大きく聞こえる


「……佐々木くん」


「はい」


「もう一回聞くけど、明日になって後悔しない?」


「恥ずかしくて死にたくはなると思います」


「そこはもう諦めて」


「でも、頼んだことをなしにはしません」


「私が上司だから断れなかった、とかもなしよ」


「むしろ部長だから頼むのに死ぬほど勇気使ってます」


「それは見れば分かる」


 部長の口元が少し緩んだ


 怒られると思っていた分、その変化に心臓が跳ねる


「最後に確認」


「はい」


「私でいいの?」


 さっきと似た質問なのに、今度は声が違った


 俺はもう迷わなかった


「部長がいいです」


 数秒の沈黙


 部長が小さく息を吐いた


「……分かった」


「え?」


 思わず聞き返す


「聞こえなかった?」


「聞こえましたけど」


「じゃあ何?」


「本当に?」


「嫌なら今ここで帰る?」


「帰りません!」


 声が大きくなった


 部長が吹き出す


「じゃあ、もう少し静かにして」


「すみません」


「ただし条件がある」


 急に仕事の打ち合わせみたいになった


 俺は反射的に背筋を伸ばす


「何でしょう」


「これから私の家に行く」


「はい」


「途中で嫌になったら、ちゃんと言う」


「はい」


「怖くなった時も」


「……はい」


「私も嫌なら止める」


「はい」


「どっちかが止めたら、そこで終わり」


 そこまで言って、部長が俺を見た


「できる?」


「できます」


「よろしい」


 仕事中に何度も聞いた言葉なのに、今日は意味がまるで違う


 部長がスマホを取り出した


「タクシー呼ぶから」


 そこで初めて、本当にこの人の家へ行くのだと実感した


「……部長」


「何?」


「心臓止まりそうです」


「今さら?」


「さっきまでは勢いだったんです」


「正直すぎるでしょ」


「今から帰れって言わないでくださいね」


「言わないわよ」


「よかった……」


「でも慎太郎」


 一瞬、誰の名前か分からなかった


 部長がスマホから顔を上げる


 今、俺を何て呼んだ?


「……もう一回お願いします」


「何を?」


「今の」


「聞こえてたんでしょう」


「聞こえてましたけど」


 部長が少しだけ目を逸らす


「慎太郎」


 やっぱり俺だ


 名字ではない


 佐々木くんでもない


 その二文字だけで、さっきとは別の意味で頭が真っ白になる


「会社の外で、これからそういうことする相手を佐々木くんって呼ぶの、変でしょう」


「俺は何て呼べば」


「それくらい自分で考えて」


 急に難題が飛んできた


 部長


 違う気がする


 水口さん


 もっと違う


 名前


 名前か


 俺は意を決した


「……美冬さん」


 返事がない


 やらかしたかと思ったところで、美冬さんが少しだけ笑った


「うん」


 たったそれだけだった


 なのに土下座した時より緊張した


         ◇


 タクシーの後部座席で、美冬さんは俺の隣に座っていた


 つい十分ほど前まで直属の上司だった人を、もう頭の中で美冬さんと呼び始めている


 いや、直属の上司なのは今も変わっていない


 そこは何も変わっていない


 変わったのは、今からその上司の家へ行くという一点だけだ


 一点が致命的にでかい


「慎太郎」


「はい!」


「声」


「すみません」


「そんな緊張する?」


「しますよ」


「土下座した人が?」


「あれは事故みたいなものです」


「自分からやったでしょう」


「酒に押されました」


「お酒のせいにするの禁止」


 痛い


 さっき自分で、明日になってなしにはしないと言ったばかりだ


 美冬さんが窓の外を見る


 その手がシートの上に置かれていた


 近い


 少し動かせば触れる距離にある


 どうする


 握るのか?


 俺から?


 そんな高難度ミッション、まだ聞いてないんだけど


 悩んでいる間に、美冬さんの小指が俺の手の甲へ触れた


 反射的にそちらを見る


「嫌?」


「嫌じゃないです」


「じゃあ何で固まってるの」


「初めてなので」


「手を繋ぐのも?」


「まともに繋いだことは……」


 美冬さんが何も言わず、俺の手のひらへ指を滑り込ませた


 そのまま手が重なる


 温かい


 俺はたぶん、とんでもなく間抜けな顔をしていたと思う


「慎太郎」


「はい」


「今ならまだ駅に変更できるよ」


「行きます」


「即答するんだ」


「ここまで来て帰ったら、一生後悔します」


「一生は大げさ」


「二十五年何もなかった俺には大げさじゃないです」


 美冬さんが肩を揺らして笑った


 繋いだ手は離れなかった


 マンションへ着くと、美冬さんが先にタクシーを降りる


 俺も続き、エントランスへ入った


 エレベーターの扉が閉まる


 二人きりになった途端、さっきまで普通に喋れていたのが嘘みたいに静かになった


 数字が一つずつ上がっていく


 美冬さんが隣にいる


 手もまだ繋いだままだ


 ここで急に現実感が増すのはやめてほしい


 心の準備が追いついていない


「慎太郎」


「はい」


「まだ緊張してる?」


「めちゃくちゃしてます」


「帰る?」


「帰りません」


「よろしい」


 扉が開いた


 美冬さんが先に降りる


 廊下を進み、一つのドアの前で立ち止まった


 鞄から鍵が取り出される


 カチャリと音がした


「どうぞ」


「……お邪魔します」


 玄関は綺麗に片付いていた


 靴を脱ぎ、端へ揃える


 美冬さんがパンプスを脱いで先に上がり、振り返った


「慎太郎」


「はい」


「最後にもう一回だけ聞くね」


 差し出された手を見て、それから美冬さんを見る


「本当に来る?」


 ここまで何度聞かれただろう


 酒の勢いはまだある


 緊張も消えていない


 それでも答えだけは、もう最初ほど揺れていなかった


「行きます」


 その手を取る


 美冬さんの指が俺の手へ絡んだ


「じゃあ、おいで」


 引かれるまま玄関を上がった


カクヨムで先行連載しております

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