第五話 嘘の終わる朝
【アルヴェイン侯爵邸・回廊/深夜】
月明かりの回廊。
立ち尽くすリディア。
その前で、ノエルが静かに微笑んでいる。
リディア
「知っていた……?」
リディア
「いつから……」
ノエル
「最初から」
リディアの目が、大きく見開かれる。
ノエルは、回廊の奥へ視線を向ける。
ノエル
「……長い話になります」
ノエル
「温室へ。誰にも聞かれずに話せる場所へ行きましょう」
短い回想・一コマ。
温室の奥の長椅子。
幼いノエルが、リディアへ囁く。
幼いノエル
「姉上。ここなら、誰にも見つかりません」
現在へ戻る。
リディアは、小さく頷く。
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【アルヴェイン侯爵邸・温室/深夜】
夜の温室。
硝子の天井越しに、月光が降りそそぐ。
白薔薇の影が、石床に淡く落ちている。
古い長椅子の前で、二人は向かい合う。
リディア
「どうして……わかったの」
ノエル
「姉上は嘘をつく時」
「右手の親指で、左手の指輪をなぞるでしょう」
リディアの右手が、反射的に左手を隠す。
ノエル
「その癖を、昔から知っています」
リディア
「知っていたのに……」
「どうして、あんなことをしたの?」
ノエル
「最初は」
「少しだけ、付き合ってくださるのだと思いました」
ノエル
「俺が失敗して落ち込まないように」
「姉上が、嘘をついてくださったことも」
一拍。
ノエル
「……嬉しかったんです」
リディアの瞳が揺れる。
ノエル
「このままなら、姉上は俺のそばにいてくれるかもしれない」
「俺の願いを、少しくらい叶えてくれるかもしれない」
ノエル
「そう思ったら、やめられませんでした」
リディア
「……ずるいわ」
ノエル
「ええ。ずるい男なんです」
ノエルは否定しない。
ノエル
「姉上が俺を傷つけたくなくて、嘘をついたことを」
「俺は、自分のために利用しました」
温室の硝子越しに、寝静まった屋敷が見える。
ノエルは、その暗い影を見つめる。
ノエル
「かつて……父上が、俺の両親が陥れられていたことを知っていたとわかった時」
リディアが息を呑む。
ノエル
「この屋敷の人間を、誰も許せないと思いました」
ノエル
「父上の娘である姉上まで、嫌いになれたら」
「きっと、楽になれると思ったんですが」
ノエルは、苦しそうに笑う。
ノエル
「……できなかった」
短い回想。
熱に浮かされた幼いノエル。
リディアの膝の上で、服の裾をぎゅっと掴んでいる。
幼いリディア
「大丈夫よ、ノエル」
別の回想。
眠れずに泣きそうな幼いノエルへ、リディアが本を読んで聞かせている。
現在へ戻る。
ノエル
「この邸で、姉上だけは」
「俺を、家のために引き取られた子供として扱わなかった」
ノエル
「ただ、ノエルとして呼んでくれた」
リディアの紫の瞳が揺れる。
ノエル
「姉上の存在だけが、俺の救いでした」
一拍。
ノエル
「……姉上のことを、好きになってしまった」
月光の下。
ノエルは、拳を軽く握る。
ノエル
「だからこそ、その優しさに甘えた」
「催眠を口実に、姉上を縛った」
ノエル
「こんな卑怯者の俺とは」
「もう顔を合わせているのも、苦痛でしょう」
リディア
「ノエル……」
ノエル
「――父上には、俺からお断りします」
ノエル
「グレンヴィル家との縁談を受けることになっても」
「今度は、姉上の邪魔をしません」
ノエルが温室の出口へ向かう。
リディア
「待って」
ノエルの足が止まる。
ゆっくり振り返る。
リディア
「私は、すぐにあなたを許せるとは言えないわ」
ノエル
「……はい」
リディア
「あなたが私の気持ちを利用したことも」
「催眠術を口実に、私を縛ったことも」
リディア
「簡単に、なかったことにはできない」
ノエル
「……当然です」
リディア
「でも……私も同じよ」
ノエルの目が、わずかに見開かれる。
リディア
「ノエルを傷つけたくないなんて、言い訳だった」
リディアは、自分の胸元をきゅっと掴む。
リディア
「私はもうすぐ、この家を出る」
「その前に、少しだけ昔に戻りたかった」
リディア
「あなたの『姉』に、もう一度なりたかったの」
リディア
「だから……本当は、嬉しかった」
「あなたが私を呼んでくれることが」
月光の中、二人の視線が重なる。
リディア
「あなたが私を好きだったことも」
「私が、あなたを嫌っていなかったことも」
リディア
「今まで、ちゃんと向き合えていなかった」
リディア
「だから、もう少し時間がほしいの」
ノエル
「……俺との婚約を」
「考えてくださるのですか」
リディア
「今すぐ、誰かとの婚約を決めるわけではないわ」
「レオンとの縁談も」
「ノエルとのことも」
「今の私には、まだ答えを出せない」
リディア
「二週間だけ」
「ノエルとのことを、私自身で考えたい」
ノエル
「……二週間」
リディア
「明日の朝、父にそう頼むつもりよ」
ノエルはしばらく、リディアを見つめる。
けれど手を取らない。
ノエル
「わかりました」
ノエル
「姉上がそう望むなら」
「俺は、待ちます」
リディア
「その代わり、約束して」
ノエル
「……何でも」
リディア
「これから先、暗示を使うなら」
「必ず、先に私へ聞いて」
リディア
「私が嫌だと言ったら、すぐにやめて」
「私の気持ちを、あなたが決めないで」
ノエル
「約束します」
ノエルは、懐から青い魔石の振り子を取り出す。
月光にかざし、しばらく見つめる。
ノエル
「これはもう、姉上には使いません」
振り子が、そっと懐へしまわれる。
温室の硝子の向こう。
東の空が、うっすらと白み始めている。
夜通し語り合った二人の頬を、夜明けの光が淡く照らす。
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【アルヴェイン侯爵邸・オズワルドの書斎/朝】
朝の書斎。
机の上には、グレンヴィル伯爵家から届いた縁談の書状。
返書用の紙。
封蝋。
まだ使われていないペン。
オズワルドは机に座り、向かいに立つリディアとノエルを見る。
オズワルド
「答えは出たか」
リディアは、隣のノエルを見る。
ノエルは何も言わない。
昨日までなら、先に答えを用意していたはずの彼が。
今は、待っている。
リディア
「今すぐ、ノエルとの婚約を決めることはできません」
オズワルド
「なら、グレンヴィル家との縁談を受ける」
リディア
「待ってください」
オズワルドの手が、返書用の紙の上で止まる。
リディア
「レオンとの縁談も、今は受けられません」
オズワルド
「理由は」
リディア
「二週間だけ、時間をください」
オズワルド
「何のためにだ」
リディア
「ノエルとのことを」
「私自身で考えるためです」
オズワルドは、しばらくリディアを見つめる。
オズワルド
「昨夜、伯爵邸で婚約者だと名乗った」
リディア
「はい」
オズワルド
「今朝にはもう、社交界中に噂が回っている」
「それを、なかったことにはできん」
リディア
「わかっています」
静かな沈黙。
オズワルドは、書状へ視線を落とす。
オズワルド
「……いいだろう」
リディアが顔を上げる。
オズワルド
「今さら『あれは誤りでした』と引っ込めれば」
「アルヴェイン家もグレンヴィル家も、社交界の笑いものだ」
オズワルド
「ならば、こうする」
オズワルドは、二人を順に見る。
オズワルド
「二週間、お前たちは対外的に」
「内々の婚約者として振る舞え」
リディアの目が、大きく見開かれる。
リディア
「こ、公認……!?」
オズワルド
「正式な発表も、破談も、二週間は許さん」
「その間に、リディア、お前は答えを出せ」
オズワルド
「グレンヴィル家へは、正式な返答に猶予を求めると私から伝える」
「ただし、レオンへの説明はお前自身がしろ」
リディア
「私が……?」
オズワルド
「グレンヴィル家との関係を、これ以上損ねるな」
「お前の言葉で、返答を待ってほしいと頼め」
リディア
「……わかりました」
オズワルド
「言っておくが」
オズワルドの視線が、ノエルへ向く。
オズワルド
「婚約者として振る舞えとは言ったが」
「屋敷の内外を問わず、節度を欠く振る舞いは許さん」
ノエル
「……善処します」
オズワルド
「『承知しました』と言え」
ノエル
「承知しました」
リディア(心の声)
(い、今、一瞬ためらったわよねこの子……!?)
オズワルド
「二週間後、もう一度ここで答えを聞く」
オズワルド
「その時までに」
「自分の選択に責任を持て」
リディア
「はい」
オズワルド
「下がれ」
リディアとノエルは、静かに頭を下げる。
リディア(心の声)
(催眠術の嘘は、終わったのに)
(今度は「偽装の婚約者」を二週間……!?)
(断るどころか、公認になってしまった……!)
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【アルヴェイン侯爵邸・居間/朝】
書斎を出た二人が、居間へ入る。
そこへ、執事が銀盆を運んでくる。
盆の上には、一通の手紙。
深緑の封蝋に、グレンヴィル家の紋章。
執事
「リディア様へ。グレンヴィル家のレオン様より、早馬にて」
リディア
「レオンから……?」
リディアが封を開く。
流麗な筆跡の手紙。
レオン(手紙の文面)
「昨夜は、言いそびれたことがある」
「僕はまだ、君の本当の答えを聞いていない」
レオン(手紙の文面)
「二週間後、我が家で園遊会を開く。招待状を送るよ」
「その席で、君自身の言葉を聞かせてほしい」
レオン(手紙の文面)
「それまで――僕はこの縁談を、降りない」
リディアの手が、小さく震える。
リディア(心の声)
(二週間後……父が答えを聞くと言った、まさにその頃に)
背後から、ノエルが手紙を覗き込む。
すっ、と部屋の温度が下がった気がした。
ノエル
「……ずいぶんと、諦めの悪い方だ」
微笑んでいる。
微笑んでいるのに、紫の瞳がまったく笑っていない。
ノエル(心の声)
(それに――あの夜会で、彼は俺を見ていた)
(値踏みするような、探るような目で)
ノエルは、手紙の封蝋をじっと見つめる。
ノエル(心の声)
(グレンヴィル家……)
リディア
「ノエル?」
ノエルは、いつもの微笑みに戻る。
ノエル
「いいえ。何でもありません」
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【アルヴェイン侯爵邸・庭園/朝】
朝の庭園。
白薔薇のアーチの下を、二人が並んで歩く。
夜通し話したせいか、どちらの足取りも少しゆっくりだ。
ノエルは、少し離れて歩いている。
昨夜までなら、当然のように手を取っていた距離。
けれど今は、触れない。
リディア
「ノエル」
ノエルが振り返る。
ノエル
「はい」
リディアは少し迷う。
それから、自分から手を差し出す。
リディア
「二週間だけ」
ノエルの目が見開かれる。
リディア
「私を、口説いてください」
ノエル
「……それは」
リディア
「今度は、催眠術なしで」
ノエルは、すぐには手を取らない。
ノエル
「それは、姉上自身の意思ですか」
リディア
「ええ」
ノエルの紫の瞳が、静かに揺れる。
リディア(心の声)
(ノエルのことを、もっと知りたい)
(私が、彼をどう思っているのかも)
やがて、ノエルがそっとリディアの手を包む。
ノエル
「喜んで」
ノエルは、今にも泣き出しそうな顔で微笑んだ。
リディアの胸が、きゅうと締めつけられる。
リディア(心の声)
(ああ、この顔)
(この顔に、私は昔から弱いのよ――)
――と。
ノエルが、繋いだ手をゆっくり持ち上げる。
リディアの指先に、そっと口づける。
リディア
「……!?」
ノエル
「では姉上、早速ですが」
顔を上げたノエルは、もう泣きそうな顔などしていない。
完璧で、優しくて――どこか、獲物を前にした獣めいた微笑み。
ノエル
「今夜、月を見に行きませんか。二人で」
リディア
「こ、今夜!?」
ノエル
「二週間しかないので」
「一日も、一晩も、無駄にはしません」
リディア
「の、ノエル、あの、節度……! お父様が節度と……!」
ノエル
「善処します」
リディア
「さっき『承知しました』って言い直させられていたでしょう!?」
朝の光の中。
真っ赤になって後ずさるリディアへ、ノエルが一歩、また一歩と距離を詰める。
リディア(心の声)
(助けて……!)
(催眠術は終わったのに)
(今度は本気の義弟に、本当の恋人にされちゃいそうです……!!)
――同じ頃。
ノエルの部屋。
閉じられた抽斗の中で、青い魔石の振り子が、静かに眠っている。
――第五話・了




