第5話 猟犬の鎖
「……大黒ファイナンスから引き継いだ全口座の残高確認、および関連法人3社への資産差し押さえ手続き、すべて完了しました」
株式会社アビス・マイニングの社長室。
久保真琴はエンターキーを強く叩き、膝の上に乗せていたラップトップを閉じた。彼女の目の下には、連日の徹夜作業を物語る深いクマが刻まれているが、その表情には大きな山を越えた安堵と、自らが成し遂げた仕事への微かな高揚感が浮かんでいた。
「想定より2時間遅いですね」
デスクの向こう側で、千葉秀俊は手元の書類から視線すら上げずに言い放った。寸分の狂いもなく仕立てられたネイビーのスリーピーススーツ。その声には労いの色は一切なく、ただ冷徹な事実の確認だけが響く。
「法務局のオンラインシステムが深夜メンテナンスに入っていたんです。アナログの手続きを併用してこれですから、むしろ私の処理速度を褒めていただきたいくらいですが」
「結果がすべてです、久保CFO。言い訳はバランスシートには記載されません」
真琴は小さくため息をつき、淹れっぱなしで冷え切ったコーヒーに口をつけた。反論する気力も湧かない。この男にとって、人間はシステムを回すための歯車に過ぎないのだと、ここ数日で嫌というほど思い知らされていた。
千葉は万年筆を置き、ゆっくりと顔を上げた。
「大黒ファイナンスの処理はこれで終わりました。ハンターたちの負債は適正な労働によって回収するサイクルに入ります。しかし、我が社が本格的な企業拡張フェーズに入るためには、決定的に不足しているピースが一つある」
「不足、ですか? 留美子さんという規格外の武力が担保されたのに?」
「彼女は『ハンマー』です。正面から壁を破壊するには最高の道具ですが、精密な切開や、見えない毒を取り除くことはできない。組織が巨大化すれば、必ず内部の腐敗や、外部からの非合法な工作活動が起きます。それを察知し、隠密に処理する『メス』が必要です」
千葉はデスクの上にあった一枚のファイルを、真琴の方へ滑らせた。
そこには、黒いタイトなショートカットの女性の写真がクリップされていた。中性的で端正な顔立ち。だが、その目はひどく冷たく、虚無的だった。首筋から肩にかけて、ダンジョンの呪詛を模した幾何学的なタトゥーが覗いている。
「この女性を知っていますか」
「……いえ。覚醒者のようですが、うちのリストには載っていませんよね」
「市川ひろみ。ダンジョン庁の『特務監査局』が裏で飼っていた非公式の掃除屋です。ルールを破ったハンターの始末や、敵対組織への破壊工作など、国家の汚れ仕事を引き受けてきました」
真琴は息を呑んだ。
ダンジョン庁といえば、この国のダンジョン産業を牛耳る国家機関だ。その暗部にいた人間を引き抜くなど、自ら巨大な権力に喧嘩を売るようなものだ。
「そんな危険な人物に、どうやって接触するつもりですか」
「接触の必要はありません。現在、彼女は庁の腐敗官僚によるトカゲの尻尾切りに遭い、非公式な処分命令が下されています。市場価値が暴落した今こそ、買い叩く絶好の機会だ」
千葉は立ち上がり、椅子に掛けられていたジャケットを羽織った。
「買い付けに行きますよ。最高の猟犬を、底値で拾うために」
★★★★★★★★★★★
横浜港、本牧ふ頭。
放棄され、赤錆にまみれた巨大な第4倉庫の中に、金属が激しく打ち据えられる甲高い音が響き渡っていた。
「ハァッ……、ハァッ……」
市川ひろみは、積まれたコンテナの陰に身を隠し、荒い息を吐いた。
黒いレザージャケットの左腕は無惨に引き裂かれ、血が滴り落ちている。首筋のタトゥーが魔力不足を知らせるように明滅していた。
「諦めろ、市川。お前は知りすぎた。ここで大人しく消えれば、家族の口座に手切れ金くらいは振り込んでやる」
コンテナの反対側から、無機質な声が響く。
特務監査局の暗殺部隊。A級2名、B級4名。対モンスターではなく、対人戦闘に特化したプロの殺し屋たちだ。いくらひろみが優秀な掃除屋であっても、この数の同業者を相手に、補給も逃げ場もない状況で生き残ることは不可能に近い。
「……ふざけないで。誰の尻拭いでこんな目に遭ってると思ってるの」
ひろみは血を吐き捨てるように呟き、両手に握った短刀に最後のリソースである魔力を注ぎ込んだ。
どうせここで死ぬ。ならば、せめて道連れにしてやる。冷たい怒りと共に、彼女の思考は極限まで研ぎ澄まされ、死を受け入れた者特有の静寂が訪れた。
足音。右から2、左から1。
ひろみが飛び出そうと筋肉を収縮させた、その瞬間。
轟音。
鼓膜を破るような爆音と共に、倉庫の巨大な鉄扉が紙くずのように吹き飛んだ。
千切れた鉄の塊が、左から接近していたB級の暗殺者を直撃し、壁に縫い付ける。
「……なっ!?」
暗殺者たちが一斉に銃口と武器を扉の方向へ向けた。
舞い上がる土埃を切り裂いて現れたのは、身の丈ほどもある巨大な黒鋼の大剣を肩に担いだ少女だった。
「あーあ、グリップ新しくしたのに、鉄なんか斬ったら傷がついちゃうじゃんか」
菅原留美子は、周囲の殺気など微塵も感じていないかのように、不満げに大剣『ニーズヘッグ』を振って血のついた鉄粉を払った。
「何者だ! ここは国家機関の作戦領域だぞ!」
部隊のリーダー格の男が怒鳴る。しかし、留美子から放たれるS級特有の圧倒的な魔力圧に当てられ、その声はわずかに震えていた。
「道を開けなさい。私の資産に傷がつきます」
留美子の背後から、一切の乱れがないネイビーのスーツ姿の男が現れた。千葉秀俊。その後ろには、タブレットを抱えた久保真琴が続いている。
血と泥と魔力にまみれた廃倉庫に、冷徹なビジネスマンという異物。その強烈な違和感が、現場の空気を一瞬にして凍らせた。
「貴様ら、民間ギルドか。ここは一般人が……」
「国家機関の作戦領域? 冗談を。ここはただの不法投棄の現場ですよ」
千葉は自らのスマートフォンを取り出し、画面をリーダーの男へ向けた。
「あなた方の雇い主であるダンジョン庁の木暮審議官は、3分前に東京地検特捜部に任意同行を求められました。魔石の違法輸出および収賄の容疑でね。決定的な証拠となる口座の取引記録は、私が提供しました」
「……なっ」
暗殺者たちの間に、目に見える動揺が走った。
「雇い主は失脚しました。あなた方の非公式作戦資金のプール先も、すでに特捜部が押さえています。つまり、今ここで彼女を殺しても、報酬は1円も支払われない」
千葉は左手首の高級時計に視線を落とした。
「あなた方に残された道は、無報酬でS級ハンターと命のやり取りをするか、今すぐ武器を捨てて海外へ高飛びするかです。5秒だけ待ちましょう」
暴力による制圧ではなく、情報と金による完全なる包囲。
リーダーの男はギリッと奥歯を噛み締め、留美子の大剣と千葉の余裕を見比べた後、忌々しげに舌打ちをした。
「……撤収だ! 散れ!」
暗殺者たちは蜘蛛の子を散らすように、倉庫の奥へと消えていった。
「えーっ、もう終わり? アタシ、まだ1回しか振ってないんだけど!」
「無駄な疲労は避けてください、留美子。帰りに肉を食わせてやりますから」
「やった! 肉!」
歓喜する留美子をよそに、千葉は血溜まりの中に座り込んでいるひろみの前へと歩み寄った。
ひろみは短刀を構えたまま、荒い息を吐きながら千葉を睨みつけていた。
「……何の真似? 私を助けたって、あなたたちが得するような情報なんて、もう特捜部に渡したんでしょう?」
「ええ。木暮審議官を失脚させる程度の情報はすでに使いました」
千葉は、泥に汚れた床を気にする素振りも見せず、ひろみを見下ろした。
「ですが、あなたの脳内には、ダンジョン庁が過去に切り捨てた数多の『不都合な真実』と、それを実行してきた裏ギルドのネットワーク構造が残っている。それが私の欲しい情報です」
「……それを聞き出したら、次はあなたが私を消すのね。庁の連中と同じように」
ひろみは自嘲気味に笑った。
しかし、千葉の目は冷たく、そしてどこまでも透き通っていた。
「私は非合理な命の奪い合いはしません。あなたの能力と知識は、アビス・マイニングが今後直面するであろう物理的リスクを排除するために極めて有用です。私はあなたを『最高コンプライアンス責任者』として雇いたい」
「コンプライアンス? 私みたいな人殺しを?」
「我が社にとってのコンプライアンスとは、ルールを守ることではなく、私の定めたルールを脅かす不純物を物理的に排除することです」
千葉は懐から銀色のシガーケースを取り出した。
「私は飼い主を気取るつもりはない。裏切れば、合法的に破産させ、社会から完全に消去するまでです。だが、あなたが私に利益をもたらし、その役割を確実にこなす限り、私は法と金であなたに絶対的な安全と適正な報酬を保証します。感情ではなく、数字と契約であなたを縛ろう。どうですか」
ひろみは、目の前の男の顔をまじまじと見つめた。
これまで彼女を使ってきた権力者たちは、皆、大義名分や薄っぺらい情で彼女を縛ろうとした。そして最後には保身のために切り捨てた。
だが、この男は違う。彼女の命すらも、ただの「資産価値」として冷徹に計算している。そこには一切の偽善がなく、だからこそ、裏社会を生きてきたひろみにとって、これ以上なく信用できる言葉だった。
「……私の首輪は、血生臭くて重いわよ」
ひろみは短刀を床に投げ捨て、ふっと口角を上げた。
「適正価格で買い取りますよ」
千葉が差し出した右手を、ひろみは血まみれの左手でしっかりと握り返した。
★★★★★★★★★★★
それから数日後。
アビス・マイニングの社長室は、わずかにその空気を変えていた。
「久保CFO。この下請けの採掘業者、代表の経歴が少し綺麗すぎるわ。裏で例の反対派ギルドと繋がっている可能性がある。現場で意図的な『事故』を起こされる前に、物理的な監視態勢を強化したほうがいいわね」
ひろみは、オーダーメイドの黒いスーツをマニッシュに着こなし、真琴の提出した書類を細い指で弾いた。中性的な美貌に、シャープな黒のタイトヘア。首筋のタトゥーは、ネクタイを少し緩めた襟元から妖しく覗いている。
「えっ……? あ、すみません、そこまでの背景は調べがついていませんでした」
「書類上の数字はあなたが正確に追えるでしょうけど、現場の人間がどう動くかという『悪意』の計算は、私の領分だから」
真琴は小さく縮み上がりながら、書類を受け取って足早に自席へと戻っていった。彼女の背中を見送りながら、ひろみは短く息を吐く。
「……ボス。今日の午後は、例の反対派ギルドの残党が接触してくる可能性があるわ。移動ルートはBプランに変更しておく」
「頼みます」
千葉は手元のタブレットから目を離さずに答えた。
ひろみは自然な動作で千葉の背後に回り込み、彼がキーボードを叩く手元を肩越しに覗き込んだ。その距離は、一般的なビジネスのパーソナルスペースを完全に無視している。
「……ちょっと、香水の匂いがするわね。どこの女かしら」
ひろみは千葉の首元に鼻を近づけ、からかうように囁いた。
「昨夜、情報収集のために会食した政界のフィクサーが連れていたホステスが、名刺代わりに置いていったものです。意味はありません」
千葉は動じず、淡々と事実だけを述べる。
ひろみはクスクスと笑い、千葉のわずかにズレていたネクタイの結び目に手を伸ばし、美しく締め直した。
「そう。……私の背中を預けられるのは、この世界でボスだけみたいだから。だから、誰にも指一本触れさせないし、誰にも渡す気はないわ。物理的にも、ね」
その声には、冷酷な掃除屋としての殺気と、静かだが重すぎる執着が入り混じっていた。
千葉はネクタイを直されたことに何も言わず、ただ手元の数字を更新する。
「私に利益をもたらす限り、好きにしてください、市川CCO」
「ええ、ボス。確実に守ってあげるわ」
ひろみは手からネクタイを離し、千葉の背後で静かに姿勢を正した。彼女の冷たい視線は、部屋の入り口と窓の外へ、隙なく向けられていた。




