第48話 市場の崩壊と空売り
暗殺部隊の脅威が完全に排除された後も、最上階のCEO室にはひどく重い緊張感が滞留していた。
下層階で繰り広げられていた惨劇の余韻――大玄グループ残党とアメリカの裏ギルドが放った暴力的な魔力圧の残滓は、すでに潮が引くように消え去っている。分厚い防音ガラスの向こう側には、いつもと変わらぬ新宿の冷たいネオンが毒々しく瞬いていた。広大な空間を満たしているのは、空調の微かな稼働音と、大型サーバーの低い排気音だけだ。
だが、壁面を覆い尽くす巨大なモニター群が放つ深紅のアラート光は、この部屋に別の種類の死の影を落としていた。
アメリカの金融当局による国際的な金融ネットワークからの強制遮断。資金の動脈を絶たれ、国内外の口座を次々と凍結されたアビス・マイニングの当座預金残高は、完全にショートする寸前の状態のまま、冷酷に時を刻んでいる。物理的な破壊を免れても、企業としての死は刻一刻と迫っていた。
「……ニューヨーク市場の開場まで、残り四分です」
フロアの反対側、三枚の巨大モニターの前に陣取る久保真琴は、血走った目を画面の右下に固定したまま、ひどく掠れた声で報告した。
連日の徹夜作業と、国家権力という巨大な暴力に喉元を締め上げられている極限のプレッシャーが、彼女の神経を刃物のように研ぎ澄まし、同時に今にも千切れそうなほどにすり減らしている。乾ききったコンタクトレンズが眼球に張り付き、瞬きをするたびに砂を噛むような痛みがあった。キーボードに置かれた指先は芯から冷え切り、微かに震えている。
だが、そんな張り詰めた空間の足元で、ひどく間抜けな音が響いた。
「キュゥゥ、フンッ、フンッ……!」
真琴が窮屈さからデスクの下で脱ぎ捨てていた黒のパンプス。その片方に、灰白色の毛玉が頭を突っ込んで抜けなくなり、短い四肢をフローリングの上でバタつかせていた。シベリアンハスキーの仔犬、アッシュだ。
彼は靴の奥底に微かに残る革の匂いに惹かれたらしいが、成長期特有の豊かな冬毛のボリュームが災いし、見事にスタックしていた。自力で抜け出そうと後ずさりするたびに、パンプスごと床をツーッと滑っていく。爪が空しくフローリングを掻くシャカシャカという音が、静寂のオフィスに響き渡る。
「ちょっと、アッシュ……今そんなことしてる場合じゃ……」
真琴は乾いた溜息をつき、手を伸ばしてパンプスをそっと引き抜いてやった。解放されたアッシュは「ワフッ」と短く鳴き、ぶるぶると首を振って毛並みを整えると、そのまま真琴のストッキングの膝によじ登ってきた。
徹夜続きで張り詰めていた真琴の神経が、アッシュの無邪気な温もりによって少しだけ解きほぐされていく。脈打つ小さな鼓動と、何の疑いも持たない澄んだアイスブルーの瞳。彼女は無意識のうちにその柔らかい背中を撫で、小さく息をついた。
だが、その安らぎの時間は、モニターから鳴り響いた無機質な電子音によって無慈悲に切り裂かれた。
日本時間、午後十時三十分。
ニューヨーク時間、午前九時三十分。
ウォール街の市場が、開場のベルを鳴らした。
真琴はアッシュを膝に乗せたまま姿勢を正し、キーボードに指を置く。
数時間前に放たれた劇薬。松尾伸子が世界に向けて配信した、大玄グループとアメリカの巨大ファンドによる資金洗浄の暴露動画。そして、マヤ・ワシントンによる中枢インフラの不可逆的なハッキング。それらの致命的な情報が、資本市場でどのような連鎖を引き起こすのか。
「……来ます」
真琴の細い指がエンターキーを叩いた瞬間、三枚のモニターを埋め尽くしていた株価ボードの数字が、一斉に血のような赤色に染まり、文字通り滝のように崩れ落ちた。
「トライデント・アームズ、開場と同時に前日比マイナス四〇パーセント! 売り注文が殺到しています。買い手が全くつきません!」
真琴が叫ぶように数値を読み上げる。
「オブシディアン・キャピタル傘下のエネルギー関連銘柄、および軍需産業セクターも全面安! 機関投資家のアルゴリズムが完全にパニックを起こし、リスク回避のための連鎖的な投げ売りを誘発しています……駄目です、サーキットブレーカー発動。ニューヨーク証券取引所、対象銘柄の取引を強制停止しました」
画面の端に表示された取引所のフロアの映像は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。トレーダーたちが頭を抱え、複数台の受話器を壁に叩きつけ、怒号を上げて走り回っている。彼らが長年かけて構築してきた「絶対的なアメリカのインフラ支配」という前提が、たった一晩で足元から崩れ去ったのだ。
「取引停止は一時的な延命措置に過ぎません。再開されれば、溜まった売り圧力がさらに巨大な雪崩となって市場を飲み込む」
千葉秀俊は、手元のペリエのグラスを傾け、氷の溶ける音を微かに響かせながら平坦な声で言った。
「久保CFO。私のメイン端末から、暗号化ファイル『Niflheim』を開きなさい」
「……ニフルヘイム? 社長、そんなファイルは私の管轄する財務フォルダには……」
言いながらも、真琴は指定されたディレクトリを叩いた。強固なプロテクトを二重のパスワードで解除すると、見慣れないダッシュボードが展開された。
その画面を見た瞬間、真琴の呼吸がピタリと止まった。
画面に並んでいたのは、ケイマン諸島、スイス、シンガポールに籍を置く、七つの無名のヘッジファンドの口座情報だった。そして、そのすべての口座が、トライデント・アームズやオブシディアン・キャピタルをはじめとするダンジョン関連銘柄のショートポジションを、天文学的な規模で保有していた。
そのエントリーの日付を見て、真琴は戦慄した。
「……社長。このポジションの構築……クロエさんがヨーロッパの規制委員会で動き始めた日、そしてマヤさんがアメリカの特許を無効化する申請を出した直後から、少しずつ分散して仕込まれています。まさか」
真琴は、自身の膝の上で無邪気に欠伸をするアッシュの存在すら忘れ、振り返って千葉を見た。
「うちの表の口座が凍結されて資金がショートする危険があったのに、あなたは、個人で管理していた裏のファンドの資金を、会社の防衛ではなく……証拠金に全額突っ込んでいたんですか!?」
レバレッジが極限までかけられたポジションだ。もし市場が彼らのシナリオ通りに暴落せず、少しでも逆に振れていれば、証拠金は一瞬で吹き飛び、アビス・マイニングどころか千葉秀俊という人間そのものが完全に破産する。
「賭けではありません。計算です」
千葉はスーツの袖口をわずかに引き上げた。
「彼らが国家権力を使って我々の口座を凍結することは、盤面上の必然でした。彼らは『資金を断てば勝てる』という旧時代的な思い上がりに浸っている。ならば、彼らが勝利を確信し、最も無防備になるタイミングで、致命的な一撃を入れればいい」
「取引、再開されました!」
真琴の叫びと共に、モニターの赤い数字がさらに深い谷底へと落下を始めた。一時停止で堰き止められていた売り注文が、再開と同時に一気に溢れ出す。
「オブシディアン・キャピタルの主力ファンド、証拠金維持率を完全に割り込みました! マージンコール発生! ……駄目です、彼らの手元にキャッシュはない。銀行団が融資の引き揚げを始めました!」
数十年にわたり世界のインフラを裏から支配し、千葉を業界から追放した巨大資本が、今、システムによる機械的な処理によって、ただの不良債権へと成り下がろうとしていた。
「カバーを実行しなさい、久保CFO」
千葉の命令は、日常業務の承認を下すときと何ら変わらないトーンだった。
真琴は震える手を必死に抑え込み、キーボードを叩いた。マウスカーソルを走らせ、七つのヘッジファンドのアカウントを一括で制御するスクリプトを起動する。
市場の底を探るような悠長な真似はしない。現在の価格で、市場に溢れ返っている売り注文を片っ端から飲み込むように買い戻しのオーダーをぶつける。
膨大な売りポジションが、底値で次々と買い戻されていく。赤いエラーコードに染まっていた画面の隅に、利益の確定を示す緑色の数字が、滝のような勢いで積み上がっていく。モニターの放つ光が、真琴の蒼白だった頬を青緑色に照らし出した。
「……全ポジションの決済、完了しました」
真琴は自身の喉がカラカラに乾ききっているのを感じながら、最終的な数値を読み上げた。
「純利益、二百四十億……ドル」
日本円にして数兆円規模の利益。それが、たった数十分の市場のパニックの中で、千葉の管理する口座へと完全に吸い上げられた。黒幕であるオブシディアン・キャピタルは破産し、彼らが保有していた世界のダンジョン関連の優良な資産は、今や借金のカタとして、アビス・マイニングが二束三文で買い叩ける状態に置かれた。
「よくやりました」
千葉は手元のタブレットを置き、短く労った。
「これで彼らの資産を合法的に解体する準備が整いました。ウォール街への請求書の支払いは、彼ら自身の肉で行ってもらいましょう」
ソアは少し離れたソファの上で、自分の体を抱きしめるようにして震えていた。
かつては大玄のトップすら恐れさせた自分の精神操作の力が、今この部屋で起きている現実の前ではひどくちっぽけなものに感じられた。
感情も恨みすらない冷徹な数字の操作だけで、世界を裏から支配していた巨大な組織が破産していく様を、ただ見つめることしかできなかった。血の一滴も流れない、しかし確実にすべてを奪い尽くす金融という名の暴力が、彼女の芯を凍らせていた。
「……化け物」
ソアの口から、無意識のうちにその言葉が漏れた。
だが、その張り詰めた空気を読まない存在が一つだけあった。
「クゥン、ワフッ」
真琴の膝から抜け出したアッシュが、トコトコと短い足で歩き、千葉の足元にやってきた。彼は最高級のイタリア製革靴のつま先に前足を乗せ、靴紐をハムハムと甘噛みし始めた。
千葉は足元にすり寄るアッシュを片手で静かに抱き上げ、その確かな重みを見つめた。アッシュは空中で足をぶらつかせながら、千葉の親指をペロリと舐めて目を細める。
真琴は、無表情のまま仔犬の冬毛を撫でる千葉の姿に、深く、長い溜息をついて椅子の背もたれに体を預けた。
「……社長。とりあえず、凍結されてない口座から、今月のサーバー代とアッシュの高級ドッグフード代は引き落とせそうですね」
「ええ。最高の猟犬たちには、最高の給油を約束していますから」
千葉はアッシュを抱えたまま、窓の外に広がる白み始めた東京の空を静かに見下ろした。




