第47話 最終防衛線
深夜二時。都市の喧騒が最も深く沈み込む時間帯のアビス・マイニング本社。
最上階のCEO室は、分厚い防音ガラスと何重にも張り巡らされた最新鋭の物理的セキュリティによって、外部の音を完全に遮断していた。空調の微かな稼働音だけが広大な空間に漂う中、ユン・ソアは最高級の革張りソファに身を沈めながら、自身の肌を絶え間なく撫で回すようなおぞましい悪寒にじっと耐えていた。
彼女の能力は精神への干渉だ。対象の記憶や感情を読み取る彼女の特殊なセンサーは、物理的な壁や床を透過して「それ」を明確に感知していた。
本社ビルの外周を包囲し、一階のエントランスから侵入を果たそうとしている濃密でどす黒い殺意の群れ。
「……三十人。いえ、もっといるわ」
ソアは、目の前のマホガニーのテーブルに置かれたクリスタルグラスの縁を細い指でなぞりながら、震える声で呟いた。
「全員がS級クラスの異常な魔力を持っている。それも、裏社会で血を啜ってきた本物の殺し屋たちよ。連携も完璧に取れている。……アメリカの連中、なりふり構わず世界中の裏ギルドから猟犬をかき集めてここへ送り込んできたのね」
彼女の額にはじわりと冷たい脂汗が浮かんでいた。かつて韓国の巨大財閥である大玄グループの暗部を取り仕切り、数々の修羅場を裏から操ってきた彼女でさえ、これほど純度の高い、明確な死の質量を同時に向けられたことはない。彼らの精神から伝わってくるのは、標的を確実に排除するという冷徹なプロフェッショナリズムと、薬物によって強制的に引き上げられた狂気的な攻撃衝動の入り混じった、暴力の結晶のような感情だった。
しかし、テーブルの向こう側に座る男の態度は、階下から迫り来る致命的な脅威など存在しないかのように、どこまでも平然としたものだった。
千葉秀俊はスーツの袖を汚さぬよう静かにナイフを取り、自身のプライベートキッチンで先ほど焼き上げたばかりの、シャラン鴨の胸肉のローストを均等な厚さに切り分けていた。銀の刃が肉の繊維を滑らかに断ち切り、赤みがかった美しい断面から透明な肉汁が微かに滲み出す。芳醇な脂の香りが、室内に漂う。
「冷めないうちにどうぞ、ソアさん。肉の温度が下がれば、バルサミコと無花果を煮詰めたソースの香りが死んでしまう。最高の食材に対する冒涜です」
千葉の声は、街角で明日の天気を語るように平坦だった。
「……正気なの? 下から、軍隊規模の暗殺部隊が上がってきてるのよ! いくらここが要塞でも、あの数のS級を相手にしたら……」
「私は常に、計算された数字の通りに行動しているだけです」
千葉は切り分けた鴨肉を口に運び、ゆっくりと咀嚼した。その所作にはミリ単位の乱れもなく、フォークが皿に触れる音すら立てない。
「マヤCTOの事前解析通り、四十二名ですね。我が社の防衛リソースで十分に対処可能です」
千葉はグラスを手に取り、ブルゴーニュの赤ワインを静かに喉に流し込んだ。
「今日は、あなたへの投資の時間です。冷める前に、ナイフを動かしなさい」
ソアは、目の前の男の顔をまじまじと見つめた。
狂っている。だが、その底知れぬ平穏が、彼女の心を侵食し始めていた恐怖を、少しずつ別の感情で塗り潰していくのを感じていた。
★★★★★★★★★★★
アビス・マイニング本社、一階エントランスホール。
吹き抜けの広大な空間は、すでに常軌を逸した暴力の坩堝と化していた。
「シールド展開! 前衛は壁を作れ! 散開しろ、的になるな!」
英語の怒号が飛び交う。
侵攻してきたS級暗殺部隊は、各国の裏社会を生き抜いてきた精鋭中の精鋭だった。重装甲の男たちが展開した高密度の魔力シールドは、通常の対戦車ライフルすらも容易く弾き返す強度を誇る。彼らは流れるような連携で大理石の床を踏み締め、後衛の魔術師たちが詠唱の準備に入るための完璧な防衛陣形を構築していた。
「あはははっ! なんだよ、S級って言うから期待してたのに、遅すぎだろ!」
血風のど真ん中で、菅原留美子が獰猛な笑い声を上げた。
彼女は敵の強固な防衛陣形など一切意に介さず、正面から一直線に突っ込んでいた。彼女の背丈ほどもある特注の大剣『ニーズヘッグ』の極厚の刀身が、真横に薙ぎ払われる。
凄まじい風圧が空気を圧縮し、爆鳴を上げた。
展開されていた三枚の強固な魔力シールドが、まるで薄いガラス細工のように一瞬で粉砕される。盾ごと両断された前衛の男たちが、原型を留めない肉の塊となって後方の壁に激突し、大理石の壁面をクレーターのように陥没させた。
「右翼が抜かれた! 後衛、拘束魔法を撃ち込め!」
敵の指揮官が血相を変えて叫ぶ。
瞬間、ロビーの暗がりから数名の魔術師が姿を現し、留美子の足元に泥沼のような重力場を発生させた。床の大理石がメリメリと音を立ててひび割れ、留美子の足取りがほんのわずかに鈍る。
その隙を見逃さず、陣形の奥から別の男が魔力コーティングされた対物ライフルを構え、留美子の眉間を正確に狙って引き金を絞ろうとした。
その男の首が、不自然な角度でずれた。
「……え?」
男が自身の視界が傾いた理由を理解する前に、彼の頸動脈から鮮血が噴水のように吹き出した。男の手から重いライフルが滑り落ちる。
「射線が甘いわよ、三流」
男の背後に落ちていた太い柱の影から、音もなく市川ひろみが立ち上がった。
彼女の左手に握られたカランビットナイフが、冷たい銀色の弧を描く。銃身が床に落ちる鈍い音と同時に、ひろみは滑るような足捌きで次の標的へと肉薄した。
「右だ! 影から来るぞ!」
魔術師の一人が悲鳴のように叫び、ひろみに向けて高熱の火球を放つ。
だが、ひろみは避ける素振りすら見せなかった。彼女の体が再び自身の足元の影の中に沈み込み、火球は虚しく大理石の床を黒く焦がすだけだった。
「どこだ……ッ! ソナーを展開しろ!」
「上」
魔術師が声に反応して見上げた瞬間、天井の梁から音もなく落下してきたひろみの両膝が、男の鎖骨を完全に粉砕した。そのままの勢いで首筋に刃を滑らせ、男の命を瞬時に刈り取る。
「おい、ひろみ! アタシの獲物を取るなよ!」
留美子が重力場を純粋な筋力だけで引きちぎり、床を砕きながら跳躍した。空中で体を捻り、大剣を円月のように振り抜く。巻き起こった物理的な衝撃波が、さらに数人の暗殺者をまとめて吹き飛ばした。
「連携してくる連中から潰しなさい、留美子。ボスは『被害状況』ではなく『完了時刻』を見ているわ」
ひろみは血のついた刃を軽く振り、冷酷な目で残りの暗殺者たちを見据えた。
精鋭部隊の指揮系統は、すでに完全に崩壊していた。
前衛の強固な物理装甲は少女の大剣によって紙くずのように破砕され、後衛の魔術師や狙撃手は影から現れる暗殺者によって次々と喉を掻き切られていく。重火器の弾幕も、高度な魔術も、圧倒的な質量と神出鬼没の死刃の前では時間稼ぎにすらならない。彼らがこれまでに培ってきた戦術のすべてが、ただ蹂躙されていく。
「……退け! 一旦引いて態勢を立て直す! 規格外すぎる、情報と違うぞ!」
指揮官が絶望的な声を上げ、入り口へと踵を返した。
だが、その背中に、ひろみの冷たい声が突き刺さる。
「逃げる場所なんて、もうないわよ」
エントランスの分厚い防爆シャッターが、けたたましい音を立てて完全に降ろされた。上層階のラボにいるマヤ・ワシントンによる、システムからの物理的な封鎖。退路は完全に断たれた。
「狩りの時間よ」
ひろみの首筋のタトゥーが鈍く光り、留美子の大剣が再び凄惨な死の風を巻き起こした。
★★★★★★★★★★★
CEO室。
千葉が二杯目のワインを注ぎ終えた頃。
ソアの肌を粟立たせていた下層階からの異常な魔力圧が、潮が引くようにスッと消え去った。断末魔の感情すら途切れ、あとに残ったのは、空調の音だけが響く冷たい静寂だった。
「……終わった、の?」
ソアは乾いた唇を舐め、千葉を見た。
千葉は手元のタブレットを一瞥し、画面をオフにした。
「所要時間は十一分三十秒。エレベーターの停止を考慮すれば、妥当なタイムですね」
彼にとっては、この軍隊規模の襲撃も、部下たちの苛烈な防衛も、すべてはエクセルのセルに入力された関数の結果に過ぎない。数字が正しく処理されたという、ただそれだけの事実。
ソアは、震えの治まった手でフォークを握り、目の前の鴨肉を刺して口に運んだ。
濃密な死の気配はすでに消え去っている。代わりに、豊かな赤身の旨味と、無花果の甘酸っぱい香りが鼻腔を抜けた。完璧に計算された火入れによって、肉は舌の上でほどけるように柔らかかった。
「……美味しい」
ソアは無意識のうちに呟いていた。大玄グループに追われ、世界中どこにも安住の地はないと絶望していた彼女にとって、この静寂と味覚は信じがたいものだった。
「当然です。投資には確実なリターンを求めます」
千葉はナプキンで口元を拭い、ソアの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「世界がどれほど我々を敵に回そうと、私の盤面にいる限り、あなたの命と価値は私が保証します。あなたの精神操作能力は、私の構築する新たなインフラに不可欠なピースだ。だからこそ、最高の燃料を提供する」
恐怖ではない。
圧倒的な合理性と、その背後にある絶対的な力。
ソアは、自分を縛り付けていた過去の亡霊たち――大玄グループの重圧や、明日をも知れぬ逃亡の恐怖――が、この男の前ではひどく些細で、意味のないものに思えてくるのを感じた。この部屋こそが、今の世界で最も安全な場所なのだと。
「……ずるい人」
ソアは小さく息を吐き、ワイングラスを手にした。
「私の能力を使わなくても、あなたは人の心を操作するのが上手いみたいね」
「私は数字と事実を提示しているだけです。非合理な感情の誘導などしません」
「それが一番、タチが悪いって言ってるのよ」
ソアは初めて、このCEO室で純粋な笑みをこぼした。
千葉はそれに答えることなく、卓上のベルを短く鳴らした。
「デザートは、和三盆を使ったブランマンジェです。糖分を補給し、脳を休ませなさい。明朝には、アメリカの金融当局に対するカウンター訴訟の最終確認が控えていますから」
「……ええ。死ぬ気で働かせてもらうわ、ボス」




