第45話 システム・ジャック
絶望的な深紅のアラートが明滅を続けるCEO室。外部からの金融ネットワークの強制遮断を知らせるエラーコードが壁面の巨大なモニター群を埋め尽くし、アビス・マイニングの心臓部である当座預金の枯渇まで残り数十時間という死へのカウントダウンを冷酷に刻み続けている。
シンガポール、スイス、ケイマン諸島。あらかじめ張り巡らせていた迂回ルートのダミー口座すらも、アメリカという巨大な国家権力の容赦ない圧力によって次々と凍結されていく。
だが、極限の緊張感と焦燥が支配するその広大な空間に隣接したCEO専用のバスルームからは、ひどく場違いで穏やかな水音が響いていた。
「……もう、どうしてそんなに大人しいんですか。可愛すぎます」
久保真琴は、タイトスカートの膝をタイル張りの床につき、捲り上げたブラウスの袖口を濡らしながら、深く、ひどく重いため息をついた。
彼女の目の前の特注のバスタブには、浅く張られた温水に浸かり、目を細めてとろけきった表情を浮かべる灰白色の生き物がいた。愛犬のアッシュだ。
普段は成長期特有の無尽蔵の体力と暴力的なまでのモフモフ感を誇る彼だが、お湯をたっぷりと吸い込んだ今は、毛がペタンと体に張り付き、本来の細いシルエットを暴露してひどく情けない姿になっていた。それでも彼は、お風呂という密閉空間と温かいお湯の感触をこよなく愛しており、真琴がシャワーヘッドで背中にお湯をかけるたび、「キュウゥ……」と喉の奥で至福の音を鳴らしてバスタブの縁に顎を乗せる。
四十二時間。それが、アビス・マイニングが物理的にショートし、完全に破産するまでの猶予だ。
連日の徹夜作業と、アメリカの巨大なシンジケートが容赦なく仕掛けてくる法と金融の暴力的な包囲網により、真琴の精神はとうに限界を迎えていた。どれほど完璧な法的防壁を構築し、隙のない契約書を書き上げようとも、国家権力という絶対的で理不尽な暴力の前では、小手先の理屈など容易く踏み躙られる。資金が尽きれば、この会社に集った規格外の天才たちを繋ぎ止める鎖も消え去る。
そんな極限状態において、この無防備な仔犬をシャンプーの泡で優しく包み込み、そしてドライヤーの温風で再びフワフワの毛玉へと復元させる単純な作業は、真琴の自我を繋ぎ止めるための、唯一にして絶対的な現実逃避だった。
ドライヤーの風を当てながら、真琴はアッシュの首筋に顔を埋めた。香ばしいような、太陽のような匂いがする。温かい体温と、力強い心臓の鼓動が、冷え切った彼女の頬に伝わってくる。
「……久保CFO。現実逃避の時間は終わりましたか」
背後から響いた平坦な声に、真琴は弾かれたように振り返った。
千葉秀俊は、いつものスーツ姿のままバスルームの入り口に立ち、手元の時計に目を落としていた。国家レベルの理不尽な暴威に晒され、自らが築き上げた帝国が崩壊の危機に瀕してなお、彼の歩調にも、呼吸のリズムにも、一切の乱れは生じていない。
「予定の時刻です。第一会議室へ」
「……はい」
真琴はアッシュの頭を最後に一度だけ撫で、濡れた手をタオルで手早く拭き取ると、表情をCFOのそれへと切り替えて立ち上がった。
★★★★★★★★★★★
第一会議室の巨大なメインモニターには、ベルギーのアントワープにいるクロエ・ヴァン・デル・ベルグが映し出されていた。
『……EUの規制委員会はパニック寸前よ。アメリカのシンジケートが、なりふり構わず金融ネットワークを止めてきたせいで、連鎖的にヨーロッパの市場決済にも遅延が出始めているわ。彼ら、本気でアビス・マイニングを経済的に抹殺する気ね』
クロエの透き通るような碧眼には、明確な苛立ちと焦りが浮かんでいた。画面越しであっても、彼女が置かれている緊迫した状況が伝わってくる。欧州の裏社会と政財界を渡り歩いてきた彼女のロビー活動すら、圧倒的な資本の暴力の前では押し流されそうになっていた。
長大なテーブルを囲むように座っているのは、千葉、真琴、そしてCHROのユン・ソア。そして、大量のエナジードリンクを持ち込み、すでにノートパソコンを展開しているCTOのマヤ・ワシントンだった。
「アメリカが国際金融のルールを歪めてまで我々の資金を凍結したということは、彼らが市場経済という盤面上において我々に手も足も出なくなったという事実の証明に過ぎません」
千葉は手元のミネラルウォーターのグラスを静かに置き、モニターのクロエを見据えた。
「資金と物流を止めれば、我々が干上がると彼らは計算した。ならば、その計算の前提そのものを破壊するまでです」
「前提の破壊? 具体的にどうするつもりなの。これ以上の資金調達ルートは物理的に存在しないわよ」
クロエの鋭い問いに、千葉は視線をマヤへ移した。
「マヤCTO。彼らの首輪の構造は」
「最悪で、最低で、最高に脆弱ね」
マヤはピンク色のパーカのフードを深く被り直し、ニヤリと不敵に笑い、手元のキーボードに指を置いた。
「アメリカの連中が使ってる『世界ダンジョン管理システム』のコアアルゴリズムを書いたのは、軍需産業にいた頃の私よ」
真琴は息を呑んだ。
「……つまり、あなたにはあのシステムの内部構造がすべて分かっていると?」
「構造が分かっているどころじゃないわ」
マヤはキーボードの上で軽く指を躍らせた。
「あいつら、私が残したコードの意味も完全に理解しないまま、特許として独占して使い回してるのよ。私が自分用の『裏口』を仕込んだままにしていることにも気づかずにね。……今まで会社の方針で手を出さずにいてあげたけど、向こうからルールを破ってきたんだ。私の本気のオモチャ箱を開けても、文句は言われないわよね?」
「ええ」
千葉は淡々と頷いた。
「彼らが我々の金融インフラを止めたように、我々も彼らの物理インフラを一時的に『管理』します。実行を」
「了解、ボス」
マヤは手元のエンターキーを強く叩いた。
瞬間、会議室のサブモニターの画面が切り替わり、複雑なコードの滝がすさまじい速度で流れ落ち始めた。
マヤの指先は、まるでピアノの鍵盤を叩くように軽快で、しかし一切の無駄がない。彼女の視線は複数の画面を同時に捉え、シンジケートが構築した何重ものファイアウォールを、紙を破るような容易さで次々と突破していく。
アメリカのシンジケートが主導して構築した『世界ダンジョン管理システム』。それは、世界中のA級以上のダンジョンゲートの魔素濃度の調整から、周辺の防衛機構の制御、果てはゲートの開閉ロックに至るまでを一元管理する、極めて巨大で複雑なインフラだ。魔石エネルギーに依存する現代社会において、このシステムが停止することは、世界中の発電所が止まり、物流が麻痺し、社会が完全に凍結することを意味する。本来であれば、国家レベルの軍事的なセキュリティ網によって厳重に守られているはずの領域だった。
「生体認証偽装、クリア。ルーティングの暗号化キー、逆算完了。……はい、メインサーバーの第一層、抜けたわ」
ソアが、その光景を信じられないものを見るような目で見つめていた。
彼女はこれまで、人間の精神を操作し、恐怖と幻術を植え付けることで、どんな強固な組織の扉も強引にこじ開けてきた。大玄グループという巨大財閥の裏側で暗躍してきた彼女の常識から見ても、目の前の光景は異次元だった。
ピンク色のパーカを着たストリート上がりの少女は、ただ指先を動かすだけで、アメリカの軍事機密と同等のセキュリティ網を、物理的な暴力も精神操作も使わずに次々と解体していく。
「……嘘でしょ。あのシステムのセキュリティは、ペンタゴン並みのはずよ」
「ペンタゴンのシステムだって、大元を辿れば人間が書いたコードの集合体よ。論理に綻びがある限り、必ず入れる」
マヤの指の速度がさらに上がる。
モニター上では、WDMSの心臓部を守る最後の防壁が、マヤの送り込むウイルスによって食い破られていく様子が赤と緑のグラフィックで視覚化されていた。魔素濃度の調整弁を司るセクターが次々と掌握され、各国の防衛機構のオートロックが無効化されていく。
「第二層、第三層……はい、管理権限の偽装完了。さあ、世界のへその緒、もらったわよ」
最後のキーストローク。
その瞬間、壁面のメインモニターに表示されていた世界地図のグラフィックが、一斉に変化した。
北米、ヨーロッパ、アジア、中東。世界中の主要なダンジョンゲートを示す数千の赤いドットが、波紋が広がるように次々とアビス・マイニングのシステムカラーである冷徹なブルーへと染め上げられていく。
「……WDMSのメインコントロール、完全掌握」
マヤは椅子に深く寄りかかり、大きく息を吐いた。
「これで、世界中のA級ゲートは、うちのサーバーの許可がなければ扉1枚開かないし、魔石の採掘もできない。防衛機構も完全にうちの指揮下よ」
会議室に、深い静寂が落ちた。
「見事な仕事です」
千葉の平坦な声が、静寂を破った。彼はモニター越しのクロエを見た。
「ヴァン・デル・ベルグ嬢。EUの規制委員会、およびアメリカの管理団体へ、直ちに通告を」
「……なんて通告する気?」
クロエの声は、かすかに震えていた。彼女もまた、この日本企業のトップが世界に対して仕掛けた、あまりにも巨大な反撃のスケールに慄いている。
「『貴機関が管理するWDMSに致命的な脆弱性が確認されたため、被害を未然に防ぐべく、我が社が善意でシステムを保護し、管理権限を暫定的に代行した』と」
真琴が目を丸くした。
「ぜ、善意の保護!? これ、完全にサイバーテロですよ!」
「彼らが放置していた脆弱性を、我々が『善意』で修正し、鍵を預かっただけです。法的な解釈の余地は十分にあります」
千葉は一切の悪びれもなく、冷徹な事実として端的に言い放った。彼は自身の行動を正当化するために声を荒らげることも、弁明することもない。ただ、そこにある盤面を操作し、最も効率的な一手を打ったに過ぎない。
「彼らが我々の口座凍結を解除するまで、魔石供給は完全に停止します。……どちらが先に音を上げるか、市場に計算してもらいましょう」




