第44話 反撃のシナリオ
けたたましく明滅する深紅のアラート光が、深夜のCEO室を不吉な色に染め上げていた。
壁面を覆い尽くす巨大なモニター群には、外部の金融ネットワークからの強制的な遮断を知らせるエラーコードが、まるで滝のように流れ落ち続けている。アビス・マイニングの当座預金が完全にショートするまで、残り四十二時間。都市の喧騒から隔絶された分厚い防音ガラスの向こうでは、東京の街が徐々に白み始めていたが、この広大な部屋の空気はひどく重く、冷え切ったままだった。
千葉秀俊は手元のタブレットをデスクに置き、皺一つないネイビーのスリーピーススーツのフロントボタンを静かに留めた。
国家権力という巨大な暴力によって退路を断たれた極限の状況下にありながら、彼の歩調にも、呼吸のリズムにも、一切の乱れは生じていない。
「久保CFO。役員全員を、十五分後に第一会議室へ集めなさい。ベルギーのヴァン・デル・ベルグ嬢にも暗号化回線でリンクを」
平坦で無機質な声が、張り詰めた静寂を破る。
別のデスクで、血走った目を三枚のモニターに向けたままキーボードを叩き続けていた久保真琴は、その指示に弾かれたように顔を上げた。連日の徹夜作業により、彼女の目の下には濃い疲労の影が落ち、マグカップの中のコーヒーはとうに冷え切って濁っている。
「……社長。集まったところで、打つ手は」
「十五分後です」
有無を言わせぬ短い返答。千葉はそれ以上語ることなく歩き出した。
その足元に、灰白色の毛玉がシャカシャカと爪の音を立ててまとわりついてくる。シベリアンハスキーの仔犬、アッシュだ。彼は室内の絶望的な空気などどこ吹く風で、短い尻尾を振りながら千葉の革靴のつま先に前足を乗せてきた。
千葉は立ち止まり、アッシュの胸部を下から掬い上げると、真琴のデスクの空いているクッションの上に無造作に置いた。
「彼にも休息が必要です。行きましょう」
★★★★★★★★★★★
薄暗い第一会議室。
巨大なオーバルテーブルを囲むように、真琴、マヤ、ひろみ、留美子、ソア、伸子が各々の席についていた。壁面のメインモニターには、ヨーロッパの豪奢な自室にいるクロエの姿が映し出されている。
徹夜組の真琴やマヤが限界に近い顔色をしている一方で、ひろみは静かにカランビットナイフを手の中で弄び、留美子は大あくびを噛み殺しながら手元のスマートフォンの画面をスワイプしている。
千葉は上座に立ち、手元の端末を操作した。
メインモニターの表示が切り替わり、世界地図と、アメリカの主要な軍需・インフラ企業上位五社の株価チャートが大写しになる。
「現在の当座預金がショートするまで、残り四十一時間半。国家という巨大な暴力装置が既存のルールを歪め、我が社を国際的な金融ネットワークから完全に物理切断しました」
千葉の声に感情の色はない。怒りも焦りもない、ただの事実の確認だった。
「……はい。SWIFTから弾き出された以上、海外に構築したダミー法人の口座も完全に凍結されています。一セントたりとも動かせません。既存の法律と金融システムの上で戦う限り、完全な詰みです」
真琴が乾いた声で、冷酷な現実を口にする。
「ええ。彼らが管理する盤面の上で戦う限りは、そうでしょう。ならば、盤面ごと燃やします」
千葉の指先がタブレットを叩く。
モニターの株価チャートの横に、複雑に分岐したアナログな資金の移動経路と、膨大な数字の羅列が表示された。
「これより、我が社は史上最悪のM&Aを実行します。ターゲットは、現在表示されているアメリカのインフラ上位五社」
「M&A……? 企業買収? キャッシュが完全にショート寸前なのに?」
ソアが目を丸くして問う。
「我々名義の口座が凍結されただけで、資金ならあります。彼らの監視網にかからない『アナログな金』が」
千葉がソアを見た。ソアは数秒その視線の意味を考え、やがてハッと息を呑み、血の気を引かせた。
「……大玄グループの、オフショアの地下金庫。検察のガサ入れの前に、私が会長の脳内からアクセス権を掌握した、あの裏金ネットワークね。確かに、あそこの口座群なら国家の監視網を完全にすり抜けられるわ」
「その通り。総額でおよそ八十億ドル。これを担保にダミーファンドを経由し、ターゲット五社の株式を極限まで空売りします」
「ちょっと待って」
マヤがコンソールの下から身を乗り出した。いつもならリズミカルに噛んでいるはずのガムの動きが止まっている。
「空売りって、株価が暴落しないと利益が出ないやつでしょ? なんで今からあいつらの株価が下がるのよ。むしろ、うちの資金を凍結して息の根を止めにかかってるんだから、市場はあいつらを勝者と見なして、株価は上がる一方じゃない」
「だから、落とすのです。物理的に」
千葉はさらに表示を切り替えた。
世界地図の上に、アジアから欧米へと伸びる無数の赤い物流ラインが表示される。アビス・マイニングが掌握した、世界の魔石供給網だ。
「マヤCTO。大玄から接収した魔石物流の制御システム、我が社のメインフレームへの統合は完了していますね」
「ええ、完璧よ。指先一つでアジア中の魔石の輸出入をコントロールできるわ。……まさか」
マヤの顔色が変わった。MITを十五歳で飛び級した彼女の頭脳が、千葉の意図を瞬時に理解する。
「明日の午前九時。ニューヨーク市場の開場と同時に、世界市場への魔石供給量を一時的に『ゼロ』に設定しなさい」
室内が、凍りついた。
「なっ……魔石の供給を止める!? そんなことをすれば、アメリカの軍事施設はもちろん、ヨーロッパの民生用魔力炉まで連鎖的にシャットダウンします! 世界中のエネルギー網が麻痺する……完全にテロ行為です!」
真琴が椅子から立ち上がり、叫んだ。法と数字による世界の均衡を重んじる彼女にとって、それは一線を越える巨大な暴力に他ならなかった。
「不幸な事故です。そうですね、松尾部長」
千葉は極めて平坦な声のまま、広報部長を見た。
名指しされた伸子は一瞬戸惑ったように目を瞬かせたが、すぐに自身の役割――大衆の感情を操作し、都合の良い『真実』を構築するスピーカーとしての任務――を理解し、ゾクッとするような笑みを浮かべた。
「……あ、そういうことですか! その『大事故』の原因は、アメリカが世界中に押し付けている欠陥だらけの技術規格のせいだって、私が各メディアとSNSに一斉配信するんですね!」
『素晴らしいわ』
モニター越しのクロエが、優雅にボーンチャイナのティーカップを傾けた。
『インフラが停止して大パニックになっているところに、そのリークを投下する。安全保障上の不安を抱えていたEUの政治家たちは、自国の混乱の責任をアメリカになすりつけられるなら、喜んでそのストーリーに乗っかるわ。アメリカのインフラ企業の株価は、市場の底が抜けたように暴落する』
「市場が底を打った瞬間に彼らの資産を買い叩き、我々の規格をインフラとして彼らの喉元にねじ込みます。資本主義における、適正な競争の結果だ」
千葉は、明日の天気を予想するような淡々とした口調で、世界経済の崩壊と再構築のシナリオを告げた。
真琴は深く息を吐き、ゆっくりと椅子に座り直した。
国家という理不尽な暴威によって絶望的な包囲網を敷かれた今、腐敗した巨大軍需産業を解体し、アビス・マイニングが生き残るには、もはやこの劇薬しか残されていない。
「……わかりました。空売りのスキーム構築と、買収の法的ロジックは私が完璧に組み上げます。後からSECが介入する隙を1ミリも与えない、『合法的な乗っ取り』にして見せます」
真琴の瞳から疲労の色が消え去り、冷たく鋭い修羅の光が宿った。
「頼みます。作戦開始は明日の午前九時。解散」
各々が自身の戦場へと向かうため、無言で席を立つ。その中で、千葉は一人に声をかけた。
「市川CCO。あなたは残るように」
ひろみが足を止める。全員が退室し、分厚い扉が閉まった。
「私にはどんな汚れ仕事をさせる気?」
「汚れ仕事ではありません。給油です」
千葉は左手首の時計に目を落とした。
「十九時にエントランスへ。ドレスコードはスマートカジュアルです」
「……デートのお誘い?」
「優秀な猟犬には、適切な休息が必要です」
★★★★★★★★★★★
午後七時。
銀座の地下深くにある、看板のない会員制のレストラン。
分厚いオーク材の扉の奥、計算し尽くされた間接照明に照らされた完全個室は、外の喧騒を完全に遮断していた。
テーブルの中央には、炭火で表面を完璧に焼き上げられた極上のシャトーブリアンが置かれている。肉の表面で微かに弾ける脂の音が、静かな空間に響いていた。
千葉はスリーピースのジャケットを脱ぎ、純白のシャツの袖口をわずかに引き上げている。彼の手元には氷を入れないペリエ。ひろみの手元には、ヴィンテージのピノ・ノワール。
千葉は銀のナイフを滑らかに動かし、肉の繊維を一切潰すことなく切り分けていく。
「最高品質の黒毛和牛です。脂の融点が低く、胃への負担も少ない」
ひろみはワイングラスを回し、小さく笑った。
「……こんな最高級のステーキとワイン。まるで、死刑囚の最後の晩餐みたいね」
千葉はナイフの手を止めない。
「私は非合理な投資はしません。あなたには明日、最も高いリターンを出してもらう必要がある」
ひろみは肉を一切れ口に運んだ。とろけるような食感と、暴力的なまでの旨味が口いっぱいに広がる。裏社会で生きる彼女の張り詰めた神経が、その味覚の暴力によって強制的に解きほぐされていく。
「美味しい。……で、私の獲物は誰?」
千葉はペリエで喉を潤し、グラスを置いた。
「明日の午前九時、我々が魔石の供給を断ち、作戦が実行に移された瞬間。アメリカ側は確実に、物理的な手段で我々のシステムを止めに来ます。ターゲットは、システムを制御するマヤCTOと、法的権限を持つ私と久保CFO。本社の警備レベルを最大に引き上げてください」
「光の当たる正面は留美子ちゃんに任せて、私は影から来るネズミどもを処理すればいいのね?」
「殺す必要はありません」
千葉は冷徹な目でひろみを見据え、淡々と告げた。
「無力化し、彼らがアメリカの非公式な武力であるという『物理的な証拠』として生け捕りにしなさい。国際法廷での強力なカードになります」
ひろみは呆れたように息を吐き、フォークを置いた。
世界最高峰の暗殺部隊が相手になることは明白だ。それを殺さずに生け捕りにしろという命令は、彼女の命をチップとして極限までベットする狂気の沙汰だった。
「相変わらず、無茶苦茶なオーダーを平気で出すわね」
「あなたなら可能だと計算しての指示です。それとも、この程度の肉では給油が足りませんでしたか」
ひろみは残りの赤ワインを一気に煽り、グラスをテーブルに置いた。その中性的で端正な顔に、獰猛な猟犬の笑みが浮かぶ。
「十分よ。全身の血が沸騰しそうなくらいにね」
彼女はテーブル越しに身を乗り出し、千葉の目を真っ直ぐに見つめた。
「私に一番重くて、血生臭い首輪をつけてくれるのは……世界中でボスだけよ」
千葉は表情一つ変えず、ナプキンで口元を拭った。
「適正な労働には、適正な報酬を。明日の夜は、ニューヨークの摩天楼を見下ろしながらドン・ペリニヨンを開けます。遅れないように」
「ええ。地獄の底からでも、這い上がって行くわ」




