第1話 ウォール街の死神、帰還す
コンクリートの照り返しが容赦なく網膜を焼く、蒸し暑い東京の午後。
千葉秀俊は、完璧にアイロンがけされたスリーピースの最高級オーダースーツに身を包み、新宿の裏路地にそびえる古びた雑居ビルを見上げていた。寸分の狂いもなく仕立てられた深いネイビーの生地は、この吹き溜まりのような裏通りにはひどく不釣り合いだ。身長190センチを超える巨躯と、スーツの上からでもわかる鍛え抜かれた厚い胸板は、彼がただそこに立っているだけで周囲の歩行者に息苦しさを覚えさせ、無意識のうちに道を譲らせるほどの威圧感を放っている。
スキンヘッドを撫でる生温かい風には、都会特有の排気ガスに混じって、微かに鉄錆のような甘ったるい悪臭が含まれていた。近くのダンジョン・ゲートから漏れ出す微弱な魔素と、モンスターの血、そして泥の匂いだ。
「……ひどく非効率で、野蛮な匂いだ」
千葉は不快げに眉をひそめ、薄い唇を動かした。
ほんの数ヶ月前まで彼が見下ろしていたニューヨークの摩天楼とは、雲泥の差だった。空調の効いた最上階のオフィスで、何千億という資本を動かしていた頃には想像もつかない泥臭い環境。
だが、巨大資本の罠にはまり、すべてを奪われて追放された彼にとって、この極東の地に広がる「ダンジョン産業」は、反撃のための唯一にして最大の足場だった。法整備が未熟なまま異常な速度で膨張したこの市場は、既得権益にしがみつく無能な政治家と、暴力という単純な力しか持たないハンターたちが、ずさんな契約で巨額の金と命をやり取りしている。
圧倒的な非効率によって放置された、莫大な利権の塊。
それを手に入れるための最初の狩り場が、目の前にある雑居ビルだ。入り口に掲げられた、ヒビの入った薄汚れたプラスチックの看板には『株式会社アビス・マイニング』とある。千葉が徹底的なリサーチの末に底値で目を付けた、倒産寸前のブラックギルドだ。
「点検中」の札が貼られたまま錆びついたエレベーターを横目に、千葉は静かにため息をついた。ほこりっぽい階段を4階まで上り、フロアの重い鉄扉を押し開ける。
タバコのヤニ、カビ、そして汗の染み付いた強烈な臭気が鼻を突いた。
オフィスと呼ぶのもおこがましい空間だった。剥がれかけた壁紙の部屋に長机とパイプ椅子が乱雑に並べられ、床には油染みのついた書類や空の弁当箱が散乱している。奥の給湯室からは、いつから放置されているのか水が滴る音が等間隔に響いていた。
数人の男女が、死んだような目でパイプ椅子にうなだれている。彼らは皆、薄汚れてひび割れた安物の防具を身につけ、腕や足の傷を粗末な包帯やテーピングで誤魔化すように覆っていた。装備の修繕費すら事欠く状況なのは一目でわかる。ダンジョンの浅層で日銭を稼ぐだけの、いわゆる底辺ハンターたちだ。
「ふざけるな! ポーション代は自腹だって、最初から契約書に書いてあるだろうが!」
オフィスの奥、すりガラスで仕切られた社長室から、ヒステリックな怒鳴り声が響いた。
バンッ、と乱暴にドアが開き、顔を赤く腫らした若いハンターが突き飛ばされるように転がり出てきた。
続いて現れたのは、安物のスーツを着崩し、顔を脂ぎらせた中年の男だった。彼がこのギルドの代表取締役、木崎だ。C級覚醒者であり、かつてはそれなりに探索で稼いでいたらしいが、今ではただの傲慢な借金持ちである。
「怪我をしたのはお前の避け方がトロいからだ! ギルドの備品に損害を出しやがって。今月の給料は修理代と相殺だ、文句あるか!」
木崎の怒鳴り声に、転がった若者は何も言い返せず、ただ震えていた。他のハンターたちも、自分に火の粉が降りかかるのを恐れて目を逸らすだけだ。搾取構造の末路。誰も声を上げず、ただすり減っていくだけの破綻したビジネスモデル。
「……程度の低い茶番だ」
低く、よく響く声がオフィスに落ちた。
全員の視線が、入り口に立つ男に集まる。
千葉は、床に散らばるゴミを革靴のつま先で避けながら、ゆっくりと木崎の前に歩み寄った。
「なんだお前。見ない顔だが、借金取りか? うちは今、立て込んでるんだ。用がないなら帰れ」
木崎は千葉の巨躯に一瞬怯んだものの、相手の体から一切の「魔力」が感じられないことに気づき、すぐさま横柄な態度を取り戻した。戦闘スキルを持たない非覚醒者など、彼にとっては一般人の延長でしかない。脅せばすぐに縮み上がる存在だ。
「ええ、借金取りのようなものです」
千葉は表情一つ変えず、完璧に仕立てられたスーツの内ポケットから分厚い茶封筒を取り出した。
「代表取締役の木崎社長ですね。少し、お話を」
「だから帰れと言ってるだろうが! 言葉が通じねえのか、この――」
木崎が苛立ち任せに千葉の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした、その瞬間。
「触るな」
千葉の射抜くような鋭い眼光が、木崎の動きを空中で完全に凍りつかせた。
声量は決して大きくない。怒気も含まれていない。だが、その声には、有無を言わせぬ絶対的な圧があった。それは暴力による威嚇ではなく、相手の人生そのものを合法的に終わらせることができる者の、純粋な支配力だ。
木崎は、自分が何を恐れているのか理解できないまま、本能的な恐怖に駆られて思わず手を引っ込めていた。
社長室の応接ソファは、スプリングが完全にへたり、タバコの焦げ跡が無数についていた。千葉はそこに座ることを拒否し、散らかったデスクの前に立ったまま、先ほどの封筒から書類の束を取り出して広げた。
「……なんだ、これは」
デスク越しにそれを見た木崎の顔から、一瞬で血の気が引いた。そこには、目を疑うような数字の羅列が印字されていた。
「御社が抱える負債の債権譲渡通知書、ならびにその契約書面です」
千葉は淡々と事実を述べる。
「メインバンクからの長期借入金、系列リース会社への未払い金。そして、あなたが個人的に手を出している街金からの高金利の借入金。これらすべての債権を、本日付で私が買い取りました」
「な、なにを言ってる……。総額3億1200万だぞ……!? 大黒の金だって、まだ返済期日じゃ……」
「現在、株式会社アビス・マイニングの唯一の債権者は私です。そして、御社の資産状況と直近のキャッシュフローを見る限り、利息はおろか、元本の1パーセントすら返済不可能な状態に陥っているのは明白ですね」
「待て、待ってくれ! 次の探索で、B級ダンジョンの深層に行けば、一発逆転のレア素材が手に入るんだ! そうすれば全部――」
「確率の低いギャンブルを事業計画と呼ぶのは、三流の証です」
千葉は冷たく切り捨てた。
「いいですか、木崎社長。数字は嘘をつきません。あなたのギルドはすでに経済的に死んでいます。個人的な借金をギルドの資金で穴埋めしようとした背任行為も、法的に見れば実刑は免れません」
木崎の顔は土気色になり、額から脂汗が滝のように流れ落ちていた。
だが、彼は覚醒者だ。追い詰められた獣のような目になり、ギリッと奥歯を鳴らす。
「……ただの一般人が、調子に乗るなよ」
木崎の右手に魔力が集中し、室内の空気がビリッと震えた。C級とはいえ、身体強化を施した一撃は、常人の骨を容易く粉砕する。
「書類なんて、燃やしてしまえば証拠は残らねえ……ここで俺がお前を殺せば、ダンジョン内の事故ってことで処理できるんだぞ!」
威嚇。暴力による状況の打開。
千葉は微動だにしなかった。瞬き一つせず、ただ冷酷な観察者の目として、魔力を練る木崎を見下ろしている。
「殴りたければ、どうぞ」
氷のように平坦な声が、木崎の拳を止めた。
「ただし、あなたが私に指一本でも触れた瞬間、私の弁護士が動きます。この債権はすべて、より悪質な反社会的勢力のダミー会社へ転売される手はずになっています。彼らは私のようにスマートな交渉はしません。あなたの家族、親戚、すべてを物理的に追い込み、内臓の重さで借金を清算させるでしょう。……さあ、殴れ」
千葉は懐から銀色のシガーケースを取り出し、太い葉巻を一本引き抜いた。
「その拳の代償として、あなたと家族の人生を差し出す覚悟があるのなら、ですが」
静寂。
木崎の右手に宿っていた魔力が、みるみると霧散していく。
彼には、目の前に立つ非覚醒者の男が、どんなS級モンスターよりも恐ろしい怪物に見えた。暴力という単純な力では決して届かない、絶対的なシステムそのものを支配する存在。
膝から崩れ落ちた木崎は、震える手で頭を抱えた。
「……どうすれば、いい……」
「選択肢は一つだけ用意してあります」
千葉は一枚の書類と万年筆を、木崎の目の前に滑らせた。
「アビス・マイニングの全株式を、1円で私に譲渡すること。同時に、代表取締役の辞任届にサインを」
「1円……俺の、俺のギルドが……」
「サインすれば、あなた個人の負債は私がギルドごと引き受けます。背任行為も不問にしましょう。自己破産せずに、五体満足でこのビルを出ていける。……30秒待ちます」
時計を見るまでもない。20秒後、木崎は泣きながらペンを握り、書類に乱雑なサインを書き殴った。
木崎が逃げるようにオフィスから去った後、千葉は静かに社長室の革張りの椅子に腰を下ろした。
スプリングが不快な音を立てたが、彼は気にする素振りも見せず、先ほどの葉巻を口に咥え、銀色のライターで火をつけた。紫煙を深く吸い込み、ゆっくりと天井へ吐き出す。
「非効率な搾取は、組織を腐らせる」
千葉は、デスクの上に散乱するずさんなシフト表と、ギルド所属ハンターたちのリストを見下ろした。
木崎のやり方は、弱者から不当に搾取し、目先の小銭をかすめ取るだけの持続性のないビジネスだった。そんなものは経営ではない。ただの寄生だ。
ドアが控えめにノックされ、先ほど木崎に怒鳴られていた若いハンターが、恐る恐る顔を覗かせた。
「あ、あの……俺たち、どうなるんでしょうか……」
「安心しろ。理不尽な天引きは廃止する。必要な機材には投資し、最適化されたシフトと適正な報酬を約束しよう」
千葉は立ち上がり、ガラス越しに、まだ不安げにこちらを見ている底辺ハンターたちを見渡した。
「ただし、私の指示には絶対に従ってもらう。1秒の無駄も、1円の損失も許さない。生き残りたければ、私の指示通りに完璧に機能しろ」
冷たく言い放つと、千葉は再びデスクに目を落とした。
ハンターのリストの中に、一つだけ異質なデータが紛れ込んでいる。
『菅原 留美子 / S級 / 負債総額:3億5000万円』
稼ぎの桁が違うはずのS級ハンターが、なぜか天文学的な借金を抱えてこんなブラックギルドに籍を置いている。このアンバランスな数字の背景には、必ず強烈な力と致命的な欠陥が隠されている。
異常な数字の羅列を前に、千葉の口角がほんのわずかに吊り上がった。




