第2話 美しき債務奴隷
千葉秀俊は、前任者である木崎が残した帳簿をめくり、そのあまりの杜撰さに薄い唇を歪めた。
「……信じがたい。幼稚園児の小遣い帳の方がまだマシだ」
経費の私的流用、不透明な仲介手数料、そして法定金利を完全に無視した借入の山。薄暗く、ヤニとカビの染み付いた社長室のデスクで、千葉は完璧にアイロンがけされたスリーピースの袖口をわずかに引き上げ、一枚の書類に視線を落とした。
『菅原留美子。S級ハンター。負債総額、3億5000万円』
添付された明細を、形の良い指先でなぞる。
『違法闇カジノ「レッド・オックス」へのツケ:1億2000万円』
『特注大剣「ニーズヘッグ」のローン残債:8000万円』
『悪徳ブローカーによる違約金と手数料:1億5000万円』
「……なるほど。稼ぐ能力は一級品だが、経済観念が致命的に欠如している。まさに『歩く不良債権』だな」
稼いだ端から法外な利息と手数料で搾取される、底の抜けたバケツのような財務状況。どれほどの力を誇ろうと、資本のルールを知らない者は容易く食い物にされる。
千葉が書類をファイルに綴じようとしたそのとき、社長室の建付けの悪いドアが、蝶番を引きちぎらんばかりの勢いで蹴り開けられた。
「おい! 木崎のオッサンはどこだ! 今月のポーション代が振り込まれてねぇぞ!」
バンッ、という破壊音とともに現れたのは、この空間にはひどくアンバランスな姿をした少女だった。
年齢は18か、そこらだろう。モンスターの返り血と泥で薄汚れた無骨な革製の防具を纏い、背中には彼女の背丈ほどもある黒鋼の巨大な大剣を背負っている。ドア枠をこすりながら強引に入室してきたせいで、木枠の一部が削れ落ちて床に散らばった。オゾンと鉄錆の混じった、ダンジョン特有の生臭い風が室内に吹き込む。
だが、その暴力的な出で立ちとは裏腹に、泥汚れの下から覗く顔立ちは、場末のブラックギルドには不釣り合いなほど整っていた。深いブラウンの瞳に、すっと通った鼻筋。黙って綺麗な服を着せれば、すれ違う者が思わず振り返るような容貌だ。
千葉は革張りの椅子から立ち上がることもなく、ゆっくりと視線を上げた。
「木崎は辞任した。現在、この株式会社アビス・マイニングの代表権は私が持っている。千葉秀俊だ」
「はぁ? 新しい社長? なんだアンタ、やけにデカいしスーツなんか着込んで……借金取りか?」
留美子は鋭い視線を千葉に向ける。本能的に相手の力量を測っているのだろう。しかし、千葉から魔力の波動は一切感じられない。ただの一般人だ。そう判断した留美子は、鼻で笑って床を強く踏み鳴らした。
「チッ、どいつもこいつもアタシから搾り取ろうとしやがって。いいか、オッサンがどこに逃げようが知らねえが、アタシの稼ぎの邪魔をするなら、このギルドごとぶっ壊すぞ」
空気が軋むような殺気が室内を満たす。S級ハンターが本能のままに放つプレッシャーは、常人であれば立っていることすら困難なほどの重圧だ。
だが、千葉は表情一つ変えなかった。威圧など風のそよぎほどにも感じていないかのように、手元の万年筆を静かにデスクに置き、両手の指を組んで彼女を見据えた。
「壊したければ好きにしたまえ。その場合、このビルの修繕費と営業停止による逸失利益が、君の負債総額に上乗せされるだけだが」
「なんだと?」
「君は今、『自分の稼ぎ』と言ったな。だが、数字は無慈悲な真実を語っている」
千葉は手元のファイルを留美子の方へ滑らせた。
「君が先月ダンジョンで稼いだ報酬額は、約4000万円。しかし、君の手元には1円も残っていない。なぜか、わかるか?」
留美子は眉間にシワを寄せ、ファイルに並んだ数字を睨みつける。文字を読むこと自体が苦痛であるかのように、彼女の視線は書類の上を滑るだけだった。
「んなもん、木崎がピンハネしてるからに決まってるだろ! あとは……武器のローンと、ちょっとカジノで負けた分だ」
「『ピンハネ』や『ちょっと』という曖昧な言葉は、ビジネスにおいて何の解決にもならない」
千葉は冷徹な声で事実を突きつける。
「木崎の不正な管理費天引きに加え、君が手を出した闇カジノの法外な利息に報酬の大半が吸われている。元本は1ミリも減っていない。君はダンジョンで命を削って、反社勢力の小遣いを稼いでいただけだ」
「……は? いや、でも、この剣のローンは払って……」
「払っていない。ブローカーに言葉巧みにリボ払いに設定され、毎月手数料だけをかすめ取られている状態だ」
留美子の顔から、徐々に血の気が引いていく。
自分がどれほど悪質な搾取構造の底にいるのか、彼女の思考力ではその全容を把握できていなかったのだ。
「ふざけんな……ッ! じゃあ、アタシが毎日モンスターの群れに突っ込んで泥水すすってんのは、全部タダ働きだってのか!?」
留美子は激昂し、背中の大剣の柄に手をかけた。室内の空気がビリッと震え、魔力の余波でデスクの上の紙束が舞い上がる。
「ああ、そうだ。そして、私をここで斬り捨てても、その事実は変わらない」
千葉は舞い散る書類を気にも留めず、冷ややかな視線で留美子を射抜いた。
「私が死ねば、君の債権は自動的に海外のシンジケートへ移譲される。彼らは君を捕獲し、法外な保険金を掛けた上で、違法な地下闘技場で死ぬまで戦わせるだろう。その無駄に整った顔も、すぐに原型をとどめなくなる」
剣の柄を握る留美子の手がピタリと止まる。
「選択肢を与えよう。一つ目、ここで暴れて犯罪者となり、一生裏社会のモルモットとして生きる道。二つ目、私と専属契約を結ぶ道だ」
「……専属契約?」
「君の抱える3億5000万円の借金は、私が全額立て替える。不当な利息は法的に無効化し、適正な元本のみを精算する。君は今後、私の指示通りに動き、私のためだけにその力を使え。報酬は適正な市場価格で支払い、そこから一定の割合で天引きして借金を相殺していく。私の計算通りに動けば、5年で完済できる」
「つまり……アタシをお前の奴隷にするってことか」
留美子はギリッと奥歯を鳴らした。
「実質的な債務奴隷、という表現が法的には近い。だが、前任者のような無意味な搾取はしない。私は君という『資産』の価値を最大化したいからだ」
そこで、社長室の固定電話が短い電子音を鳴らした。
千葉は受話器を取り、短く「入れろ」とだけ言って通話を切った。
「……なんだ?」
警戒する留美子をよそに、数秒後、社長室のドアが控えめにノックされた。ギルドの職員が恐る恐るカートを押して入ってくる。カートの上には、高級ホテルのロゴが入った重厚な保温ボックスが乗っていた。千葉が事前に手配させていたケータリングだ。
職員が逃げるように退室すると、千葉は立ち上がり、自らボックスの銀色のドーム型カバーを開けた。
瞬間、濃厚なガーリックの香りと、極上の脂が焼ける匂いが、カビ臭い社長室の空気を一変させた。
銀色のプレートの上に乗っていたのは、完璧なミディアムレアに焼き上げられた、分厚いA5ランクの特選和牛ステーキだった。付け合わせにはトリュフ塩が添えられたポテトと、彩り鮮やかな温野菜。肉の表面で弾ける脂が、微かな音を立てている。
「……ッ」
留美子の喉が、ゴクリと大きく鳴った。
彼女の目は、血走った獣のようにステーキに釘付けになっている。金がない彼女の普段の食事は、期限切れの安弁当か、味のしない携帯保存食ばかりだった。漂ってくる圧倒的なカロリーの匂いに、彼女の胃袋が悲鳴のような音を上げる。
「腹が減っていては、合理的な判断は下せない。食え。私からのささやかな前払いだ」
千葉はフォークとナイフをステーキの横に添えた。
「……罠じゃねえだろうな」
留美子は警戒を解かないものの、その視線はすでに大剣から肉の塊へと完全に移っていた。
「私は非効率な毒殺などしない」
留美子は数秒の葛藤の末、耐えきれずにフォークをひったくり、巨大な肉の塊を乱暴に切り出して口に放り込んだ。
その瞬間、彼女の瞳孔が限界まで開いた。
「う……うまっ! なにこれ、肉が溶けた! 脂が甘い……ッ!」
S級ハンターの恐るべき咀嚼力で、数万円のステーキがみるみると消え去っていく。頬を緩ませ、一心不乱に肉を貪るその姿は、先ほどの殺気立った様子が嘘のように無邪気だった。
千葉はそれを静かに観察しながら、再び椅子に腰を下ろし、次のカードを切った。
「君のその大剣、刃こぼれがひどいな。魔力伝導率も規定値の70%まで落ちているはずだ」
「むぐっ……なんでわかるんだよ。手入れする金なんかねえし」
「明日の朝までに、第一級の魔具研磨職人を手配しておく。それと、グリップには最新の衝撃吸収素材『ドラゴンスキン』を巻かせよう。特注品のローン残債も、私が一括で処理してやる」
「マジで!?」
留美子は肉を飲み込み、バンッと机に身を乗り出した。その顔は、新しいおもちゃを与えられる子供のように輝いている。
「あの『ドラゴンスキン』か!? 一本100万円はする最新装備だぞ!?」
「ああ。私が求めるのは完璧な成果だ。そのためには、道具の最適化は不可欠だからな。ただし――」
千葉は、引き出しから新しく作成した分厚い契約書を取り出し、万年筆とともに留美子の前に滑らせた。
「この書類にサインをした場合のみだ。さあ、どうする?」
留美子は一切の迷いを見せなかった。
油でギトギトになった手で万年筆を掴むと、契約書のサイン欄に「菅原留美子」と乱雑に書き殴った。借金の恐ろしさを真に理解していない、その場しのぎの即断即決。だが、千葉にとってはそれで十分だった。
「よし、契約成立だ」
千葉は契約書を鮮やかに回収し、ファイルに収めた。
「早速だが、明日の午後、最初の仕事がある。木崎が金を借りていた悪徳業者のフロント企業だ。法的な債権回収の手続きは済ませたが、彼らは立ち退きを拒否し、武装したチンピラをビルに配置している」
千葉は冷酷な光を宿した目で、満足げに腹をさする留美子を見据えた。
「私が『法的な退路』を完全に塞いだ後、君が突入しろ。反撃してくる者は、すべて物理的に粉砕して構わない。建物の原型を留める必要もない。私の指示通りに、完膚なきまでに蹂躙しろ」
「任せとけ、ボス!」
留美子は口の周りを肉の脂でテカらせたまま、満面の笑みで親指を立てた。
「アタシの剣で、あのビルごとミンチにしてやるよ! ……あ、この付け合わせのポテト、もう一つないか?」
「……追加を注文しておこう」
留美子が皿に残った肉汁をポテトに絡めて無邪気に口に運ぶ横で、千葉は次の標的となるフロント企業の資料に、ただ静かに視線を落とした。




