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神愛 ─ 永遠の刹那 ─  作者: 神愛
第3章 中学生編 ― その瞬間を抱きしめて ―
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【閑話】第26.5話 父の祈り、崩るる夜

宿の近くにある居酒屋の引き戸を開けると、外気より少し暖かい灯りが二人を迎えた。

冬の夜気をまとった俊明と修一が、ゆっくりと店内へ足を踏み入れる。


「いらっしゃいませ。お二人ですか?」


店員の声に、俊明が軽く肩を回しながら応える。


「うん。できれば落ち着いた席がいいんだが」


案内された奥まったテーブルには、外のざわめきがほとんど届かない。

二人は向かい合って腰を下ろし、ようやくひと息つく。


「……ふぅ。やっと座れたな」


修一が背もたれに軽く体を預けた。


「あぁ。四十九日も終わって、やっと一段落だ」


俊明はわずかな疲労を隠さずにうなずく。


「そうだな……。お前も、よく動いてくれた」


「お互い様だろ。……で、注文は?」


俊明はメニューを見ずに言った。

法要の後の、こういう場に慣れている男の動きに見える。


「まず生を二つ。

 あと刺身と焼き鳥で」


「かしこまりました」


店員が下がり、テーブルに静けさが戻る。

壁にかかった古い短冊メニューが、小さく揺れた。


「……しかし、なんだな。

 こうして向かい合って座るの、久しぶりだ」


修一も同じ思いでいた。

法事では視線を合わせる余裕すらなかった。


「法事の席は“話す場”じゃないしな。

 こっちは……落ち着く」


俊明は短くうなずいた。

言葉が続かないまま、二人の距離が確かになっていく。


修一はメニューの端を指でなぞり、視線を上げてから口を開く。


「で、“話したいことがある”ってやつだが……

 どうせ軽くないんだろ?」


俊明は目線を落とし、喉をひとつ鳴らした。

表情より、言葉が出ない長さが内容の重さを示していた。


「……まぁな。

 飲まなきゃ話せん内容だ」


「はいはい。覚悟しとくよ」


そこへ、生ビールが運ばれてくる。

泡が盛り上がったジョッキが二つ、テーブルに置かれた。


「生ビール二つ、お待たせしました」


「ありがとう」


俊明はグラスを取る手に、ほんのわずかな震えを抱えていた。

修一はそれに気づいたが、何も言わずに自分のグラスを掲げる。


「……じゃあ、修一。今日も色々助かった」


「お疲れ。……飲めよ」


グラスが小さく触れ合い、落ち着いた店内に澄んだ音が響く。

俊明はそのまま半分ほどビールを流し込むと、長く重い息を吐いた。


もう引き返せない、と胸が決めた息になっていた。


「で……話ってなんだ?」


修一の声は、逃げずに受け止める男の声だった。


俊明は視線を揺らし、胸奥の“何年分もの重石”をようやく持ち上げる。


「……雪杜の母さんのことだ」


修一のまぶたがわずかに動く。

驚きではない。覚悟だ。


「……そうか。

 ついに話す気になったんだな」


俊明は目を伏せ、苦い真実を押し出すように続けた。


「“今どこにいるか知らない”なんて、雪杜には言ったが……

 それは嘘だ」


隣の席の笑い声がふいに途切れ、ジョッキの底を置く音が耳に残った。

修一は呼吸を整え、正面から続きを促す。


冬佳とうかが今どこにいるか。

 俺は……最初から知ってるんだ」


その言葉には、逃げ場も言い訳もなかった。


修一はしっかりと正面から受け止める。

動揺を押し殺し、覚悟を声に乗せた。


「……全部、聞くよ」


―――


店員がそっと刺身の皿を置いた瞬間、卓上の静けさがわずかに揺れた。

湯気の立たない冷たい一皿が、この席の冷えをそのまま映していた。


「……ありがとう」


俊明が小さく礼を言い、店員が下がる。

言葉の少ない時間が二人のあいだに戻り、修一は腹の底で息を整えた。


「……で。

 冬佳さんは、どこにいるんだ?」


向かいの俊明は、逃げずに正面からその問いを受け止める。

腹を括った者の目をしていた。


「……冬佳は……実家にいる。

 いまは福島に住んでいてな、会おうと思えば……会える」


修一の眉がわずかに動く。

その一言は、想像よりも近い距離を示していた。


「……雪杜には“分からない”って言ったんだよな」


俊明は苦く笑うでもなく、事実を置くように続けた。


「言えなかったんだよ。

 あいつ……会いたいって泣いてたんだ。

 でも……会わせたら、冬佳も雪杜も……

 壊れるだけだ」


言葉の端に、何度も自分を責めた跡が滲む。


「冬佳の……あの状態を、雪杜に見せるなんて……

 俺にはできなかった」


修一は静かに息を吸い、低く問いを重ねた。


「“あの状態”ってのは……」


俊明は視線を落とし、喉の奥から言葉を絞り出した。


「……精神的にボロボロだった。

 自分を“母親失格”だと決めつけて……

 あの日のことを、一生消えない罪だと思い込んでた」


聞く側の胸にまで痛みが移る内容だった。

修一はそれを押しとどめるように、ゆっくり息を吐く。


「……俊明。

 そろそろ、はっきり教えてくれないか。

 冬佳さんに……何があった?」


俊明は一度口を閉じ、言葉が床に落ちた。

その重さに、四年分の罪悪と葛藤が詰まっている。


修一は逃げずに待つ。

監護人として、そして家族として。


「雪杜の監護人は俺だ。

 俺には……聞く権利がある」


その言葉に、俊明はようやく腹を決めて息を吐いた。


「……分かった。

 言うよ。

 全部……言う」


修一は微動だにしない。

受け止める覚悟が、そこにあった。


俊明の声が小さく震え、やがて真実が姿を現す。


「冬佳は……

 雪杜を襲おうとしたんだ」


修一の目が大きく揺れた。

息を呑む音すら、ためらわれるほどの衝撃だった。


俊明は逃げない。

このことは、曖昧にしてはならない。


「……性的に、だ」


修一は言葉を失う。

酒の匂いすら遠のき、耳に残ったのは自分の呼吸だけだった。


「……俊明……そんな……」


「信じられないだろ。

 俺だって……信じたくなかった。

 でも……事実だ」


俊明の声は、痛みをごまかしていない。

だからこそ、余計に胸を抉った。


修一は視線を伏せ、苦しみを押し殺しながら問う。


「……冬佳さんが……そんなことを……

 どうして……」


俊明は言い訳を拒むように、淡々と事実を並べる。


「……あいつは、昔から……頭がおかしいくらいモテたんだ。

 保育園の時からだよ。

 小学校にあがっても、女の子が放っておかなかった」


修一は静かに相づちを打つ。


「……まぁ、なんとなく分かるよ。

 いまの雪杜くんを見てると」


俊明は目を伏せ、別の影を見るように声を落とした。


「いまはだいぶ落ち着いたようだ。

 久しぶりに会って驚いたよ」


「……あれで!?」


修一の脳裏に、最近見た彼女の姿がよぎる。

その表情を読んだのか、俊明が軽く眉を動かした。


「ん?」


「いや、なんでもない。

 ……それより続けろ。冬佳さんの話だろ」


話は核心へ戻る。


「ああ……最初は、ただの親バカで済むと思ってた。

 でも……冬佳の雪杜を見る目が……変わっていった。

 “息子”じゃない誰かを見るような……そんな目に」


修一は喉を鳴らす。

信じたくないのに、言葉が嘘ではないと分かってしまう。


「気づいてた。

 分かってたのに……何もできなかった。

 “そんなはずはない”って……見ないふりをした」


俊明が苦笑する。

痛みが滲んだ笑いだった。


「そんな矢先に……事件が起きた」


修一の眉が深く寄る。


「あいつは……寸前で踏みとどまったみたいだが、泣きながら俺に告白してきたんだ」


俊明は胸の奥にこびりついた言葉を、そのまま吐き出す。


「“自分が母親でなくなってしまいそうだった”ってな……」


「そして家を出ていった」


修一は胸がざらつくような痛みに包まれ、息を吐くしかない。

怒りでも憎しみでもない、ただ悲しさが残る痛みだった。


「……俊明……」


俊明は自嘲するように唇を歪めた。


「……俺は雪杜に負けたと思ったんだ。

 男としても、夫としても。

 “息子に妻を取られた”なんて……

 笑えもしないだろ」


修一は反論しようとしたが、言葉が見つからない。

静かに口を閉じた。


「そう思わなきゃ……耐えられなかったんだよ。

 “自分が選ばれなかった”って思えば……

 冬佳を責めずに済むからな」


修一は、その苦さを受け止める。


「……それで晴臣さんに?」


「ああ。

 もう一緒に暮らすのは無理だった。

 雪杜の顔を見る度に……俺のちっぽけなプライドが軋んで泣き叫んで……

 “このままだと俺が壊れる”って思った」


俊明は、崩れそうな声を押し戻すように続けた。


「だから……親父に預けた。

 雪杜を守るためでもあったし……

 俺自身を守るためでもあった」


テーブルの木目を見つめたまま、俊明が弱く笑う。


「滑稽だよな。

 息子に負けた父親なんて。

 ほんと……情けない話だ」


修一は遮らない。

今この時間は、黙って聞くことが正しいと分かっていた。


「……それからだ。

 冬佳の実家に行ったのは」


俊明の声が震える。


「冬佳は……俺の顔を見るなり言ったよ。

 “あなたまで不幸にしたくない”

 “もう元には戻れない”

 “別の人生を歩んで幸せになって欲しい”……って」


修一は静かに目を伏せる。


俊明の顔には、四年間閉じ込めてきた痛みがそのまま浮かんでいた。


「俺は……あいつを憎めなかった。

 むしろ、あれほど壊れた女に……そんな言葉を言わせた自分が怖かった」


言葉が尽きると、重さが二人を包む。


「……離婚を、選んだんだな」


「……ああ」


その一言の背後に、どれほどの年月が沈んでいるのか。

修一には痛いほど分かった。


「冬佳は……俺に“幸せになれ”と言った。

 あの状態のあいつに言われたら……否定なんてできない。

 ……幸せにしてやれなかった俺が悪いんだから」


修一は最後まで責めない。

責められる男じゃないことを知っている。


俊明は、まるで締めくくるように息を吐いた。


「……俺はあの日、夫としても……

 父としても終わったんだよ」


その言葉の後、修一はすぐに返せなかった。

責めではなく――受け止めた、という形だけが残った。


―――


俊明の言葉が途切れたあと、店内は深海の底のように静まり返った。

冷めきった焼き鳥の脂が白く固まり、時間の長さを皿の上で示している。


やがて、修一がゆっくり息を吐いた。


「そうか。それで雪杜くんはあんな……

 そこで御珠ちゃんと出会ったわけだな」


俊明は遠い過去をたぐり寄せるように、静かにうなずく。


「ああ。そういうことだと思う。

 きっとお互いの傷を舐め合ううちに、深い仲になっていったんだろうな」


その言葉には、責めも言い訳もなかった。

ただ事実を受け止めた男の乾いた響きだけが残る。


「……それと、お前には本当に感謝してる。

 いくら親戚とはいえ、雪杜とは他人だ。

 親父が亡くなった時、どうしたらいいか分からなかった。

 監護人を引き受けると言ってくれた時は……救われたよ」


修一はグラスを少し傾け、喉を潤す程度に口をつけた。

そのあと、懐かしさの混じった苦笑を落とす。


「あー……それについてはな」


俊明が目を向けると、修一はどこか誇らしい笑みすら浮かべている。


「晴臣さんに、返しきれない恩があるんだよ」


「……恩?」


「浜の家、覚えてるだろ。

 あれ……十年くらい前、本気で潰れかけたんだ」


俊明の眉がわずかに動く。

知られざる過去が、今さらっと開かれた。


「時代の波に乗れなかったんだよ。

 予約台帳も会計も紙のまま。

 周りの宿はどんどんシステム化して……うちは取り残された。

 “もう無理かもしれん”って……本気で思った」


「……そんな時期があったのか」


「ああ。

 システム導入って簡単じゃないんだよ。

 金はかかるし、人が慣れるまで現場が回らなくなる。

 それで俺……半分諦めかけてたんだ」


修一の声は、当時の手触りをそのまま連れてくる。

薄暗い事務所と、電卓を叩く乾いた音が思い浮かぶ。


「そんな時だよ。

 晴臣さんが『困ってるなら言え』ってな。

 設備投資の半分を、黙って工面してくれた」


俊明の目が見開かれる。


「……半分も?」


「ああ。

 それだけじゃない。

 古い宿に合う“最小限のシステム”を一緒に探してくれた。

 あの人……本当に勘が良かったんだよ」


懐かしさと敬意が、修一の声をやわらかくする。


「結果、浜の家は立ち直った。

 予約も戻って、今じゃ黒字続きだ。

 俺の家族ごと、救ってもらったんだよ」


俊明は熱い息を吐き、天井へ視線を逃がす。


「親父らしいな……」


修一は正面から俊明を見る。

思い出を語る目じゃない。今を語る目をしていた。


「だからな……

 雪杜くんが行き場を失った時、“俺が引き取らない”なんて選択肢は最初からなかったんだよ」


その声に、迷いは一つもなかった。


「晴臣さんが救ってくれた家だ。

 その家の子が困ってるなら……助ける。

 これは恩返しでも情けでもない。

 “筋”ってもんだ」


俊明は喉の奥で息を呑み、肩をこらえた。

それでも崩れないように、背筋だけは保っている。


「……俺は親父に助けられてばっかりだな……

 ろくな孝行もできず……」


「何を言ってるんだ」


修一は静かに切り返す。


「雪杜くんがいるだろ」


俊明が顔を上げる。

修一は続けた。


「晴臣さんは雪杜くんと御珠ちゃんに囲まれて、ほんとに楽しそうだったぞ。

 最高の孝行じゃないか」


その一言が、俊明の胸の奥に溜まっていたものを決壊させた。

彼は俯き、静かに涙を落とす。


「……修一……」


「ん」


涙を拭わずに、俊明は真正面から告げた。


「これからも……雪杜を頼む」


後悔も、罪も、願いも、祈りも全部詰め込まれた父親の声だった。


修一は迷わない。


「……ああ。任せろ」


その言葉が落ちた瞬間、二人のあいだに溜まっていた重さが、すっとほどけた。

代わりに、晴臣の残した温もりが静かに満ちていく。


店の奥で、氷が砕ける乾いた音が響く。

その音が、二人の新しい約束をそっと刻んでいた。

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