関東軍着任④~ノモンハン事件~
相沢中尉は伊坂が率いることとなった臨時部隊の第1小隊長を勤めると共に部隊の先任士官でもあった。伊坂の不在間又は不測の事態が起こった際に、代わって部隊の指揮を執ることになる。
相沢は元々二等兵から軍に入ったが、下士官となり、選抜され将校となった。その能力だけでなく経験も豊富な、いわゆる叩き上げの将校だった。
今、隊長である伊坂は自ら陽動部隊に加わり敵を先導してくる。相沢は任された部隊を統率し伊坂を待つ。陸大を出てすぐの参謀がいきなり半個大隊のしかも急造部隊の指揮を執るだけでも驚いたが本人に会って更に驚いたのは何よりその頼り無さだった。大尉という階級を着けているとはいえ、覇気は無く、機敏さも見られない。隊に与えられた装備は迫撃砲が4門とあとは歩兵銃、手榴弾。通信機はない。更に相沢以外の小隊長達はついこの前見習い士官を終えたばかりのような連中を集められ正直、色々な意味でこの隊長は押し付けられたのだと相沢は思った。しかし、今回の作戦を聞いて考えは一変した。伊坂の作戦は実に合理的で無駄が無かった。これまで幾つかの戦場を経験した相沢にはそれが良く理解ができ、「この男は戦える」と思わせた。
静かな、真っ暗闇の平原に相沢は膝立ちで構え、伊坂達の向かった先を双眼鏡で凝視する。すると広い平原の向こうから小さな発光が見えた。敵の発砲だ。(始めたか)相沢は伊坂達が行動を開始したことを悟り、部下達へ静かに準備を促す。この後、伊坂は敵を引き連れ、申し合わせた場所まで下がり、相沢が部隊を指揮して迎撃する作戦だった。
しかし、夜間とはいえ敵の攻撃をかわしながら退いてくるのも容易ではない。不安の最中前方から照明弾が上がった。伊坂との事前の申し合わせにより上がった色が白なら計画続行、赤なら第2案を実行。白なので計画を続行「砲撃用意っ、目標、照明弾打ち上げ地点前方200っ!」相沢が明朗簡潔に指示を出し、迫撃砲が準備される。「撃てっ!」準備を確認の後、相沢の合図で2門の迫撃砲から空気の弾けた音と共に弾が発射され僅か数秒後に平原に落ちて炸裂する。
伊坂が照明弾を打ち上げて十数秒後に迫撃砲弾2発が落下してきた。しかもそれは追撃してきた敵のほぼ真ん中で炸裂したため、敵は混乱し、装甲車も軽く足を止めた。たった2発の迫撃砲弾でここまでの効果をだすとは名人技と言えるだろう。
その後すぐにもう2発が着弾したが敵の装甲車が意を決したのか低いエンジン音を轟かせ、機関銃を発砲する。しかし、機関銃は伊坂達の頭上を通過する。おそらく向こうの迫撃砲を狙っている。「まずいっ」伊坂が動きだそうとしたとき装甲車が爆発した。迫撃砲弾が着弾したのだ。「どこから・・・」引き連れた兵には指示を出して ひらら…いない。「さすが相沢隊長です」横から田悟伍長がつぶやく。「相沢隊長には次に敵がどこを攻撃してくるかわかるらしいんです。ベテランの感ってやつでしょうか。」田悟伍長が伊坂に説明する。(実は凄い人がいたんだなぁ)と伊坂は正直に思った。田悟伍長が言うところによると相沢中尉は迫撃砲を撃たせた後、すぐに陣地変換(砲兵隊などが今までいた場所から離れ、別の場所に陣地を張ること)をし、敵に元の陣地を攻撃させ、そこから敵の居場所を特定し逆に殲滅してしまった。装甲車を撃破され一段落着けるかと思いきや、伊坂はいきなり頭を押さえれた。その瞬間、敵陣から銃弾が飛んできた。伊坂の頭を押さえたのは田悟伍長だった。「隊長殿、どうやら敵はまだ戦意を失っていないようです。それから、」と田悟伍長は息を飲むと、「更に装甲車が来ます。」と前方を見ると複数台分のライトが光り、こちらに向かって来ているようだ。どうやら敵は物量にまかせてこちらの戦意も削ぐ気らしい。だがこれは伊坂の想定内だった。800名いたとはいえ山県支隊の装備は機関銃や歩兵銃がほとんどで壊滅まで追い込まれたのは敵との装備の差であったであろう。伊坂は照明弾を取り出すと赤い発光弾を打ち上げた。
赤い発光弾(作戦の変更)の合図だ。
1台目の装甲車を撃破した後、相沢中尉と部隊が静かに伊坂達の元へ前進してきた。敵は複数台の装甲車を基点に広い横一列の隊形で向かってくる。伊坂達は前進してくる装甲車と装甲車の間に入れるように複数人ずつで静かに陣形を取った。おそらく敵は気付いていない。敵が近づいて来たとき、所々でガラスの割れる音と共に装甲車が炎上しだした。それは手製の火炎瓶だった。加えてあちらこちらで叫び声が聞こえる。「これは…ロシア語?!」伊坂は驚いた。今回攻めてきたのはモンゴル軍とばかり思っていた。まさか、ソ連(ソビエト連合)兵まで入り込んでいたとはおそらく師団も気付いていない。それならば、敵のこの装備も納得がいく。そうこうしていると敵が後退を始めた。作戦前に伊坂の率いる兵達にまた一つ徹底していたことがあった。それは声を出さずに敵を攻撃することだった。こちらは事前の偵察で敵がこちらよりも兵力が上回っていることを知っているが、敵はおそらくこちらをほぼ把握していない。いつもの日本陸軍であれば威勢良く叫び声を上げ突撃するところを伊坂はあえて禁じることで極力敵にこちらの戦力把握をさせず、かつ混乱を誘発する。先任将校の相沢中尉もこの意見に同意してくれた。作戦が功を奏し、敵は暗闇の中、味方の悲鳴だけが聞こえる状況で更に混乱を始めたようだ。「隊長っ!」伊坂は後ろから静かに声をかけられた。相沢中尉だった。「まだこんな所にいたんですか。」声は小さいが相沢は伊坂を怒鳴る。「あんた、さっき信号弾を2発も撃ったんだ、ちょっと頭のいい敵ならとっくに砲弾ぶち込まれてますよっ!。」相沢の言うとおりだった。信号弾を撃ってからの相沢達味方の行動が良すぎて運のいいことに敵も早々に混乱してくれたのだと伊坂は反省も込めて思い返した。「お前もしっかりせんか!隊長を殺す気かっ。」と相沢中尉は隣にいた田悟伍長の頭をヘルメットの上から叩いた。田悟伍長も気付いたのか少し血の気の引いた表情で「申し訳ありません。」と謝罪した。敵の方を見ると炎上した装甲車に次々と迫撃砲弾が撃ち込まれていく。炎を目印に後方の兵達は照準を合わせやすいようだ。敵の後退速度が増してきた。「隊長、一応聞きますが、この後は?」相沢が伊坂に問う。半分伊坂を試すような聞き方だ。「もう少し敵を追い詰めたいのですが、深く追撃はしません、防御陣形を固めて、夜明け前に退きます。」暗闇の中だが、相沢中尉が笑ったのがわかる。「了解しました。各小隊へ伝達させます。」といって相沢はその場を離れた。伊坂は今更ながらその場を少し離れた所に移動し構えた。
敵がこの地から退き、伊坂達の隊はその場に隊形を整えた。暫くしても敵は戻って来ないようだ。「いいかな、全隊、撤退します。」伊坂の指示で臨時部隊は夜が開ける前に後退を開始した。先の戦闘の際、負傷した敵兵を10名近く捕獲し捕虜として連れ帰ることが出来た。殆どがロシア系だった。
「この隊の皆さんは凄いですね。」本体(辻少佐が指導している山県大佐の支隊)に戻る途中、相沢中尉に話をした。「夜襲で前に出してたのはベテランの下士官ばかりでしたから。」相沢は答えた「経験の浅い兵を前に出すと焦って動きが鈍ったり、抵抗を止めた敵を殺しちゃうなんてのもありますからね。その辺の加減ができるのがベテランの下士官連中なんですわ。」「やはり、日本の軍は強いんですね。」伊坂が感心して言った。「隊長殿、そのベテラン下士官一人育てるのに何年もかかるんですよ。それを無駄死になんて俺はさせたくないんで。」言って相沢は周りの兵達の様子を見ながら隊列の前の方へ出て行った。ただの説明だけでなく本質を学んでほしいという想いを告げられた気がした。
今回の件で山県支隊は壊滅的な打撃を受けた。この件は単に山県大佐の失態では済まされない。敵を過信して山県支隊を増強させ、出撃を命令した師団長である小松原の責任も大きい。この責任の取り方に悩んでいた小松原の元に主任参謀が来た。「師団長、作戦指導に向かった辻少佐達からの報告です。」主任参謀から報告書を渡され小松原は驚いた。(辻少佐指導の元山県支隊は138名の遺体を無事に回収。その間、伊坂大尉、臨時編成大隊を率いて敵を食い止め撃退、装甲車5両他、数名の敵兵を撃破し、12名の捕虜を連行こちらの新たな損害無し)「ようし、よくやった!」小松原は一転、大いに喜んだ。「これで全て帳消しだ、主任参謀っ」呼ばれて主任参謀は驚いた。「これを関東軍と参謀本部へ報告しろ、いいか、内容は[臨時遊撃隊の奮闘により敵は多大な損害を被り敗走、これにより辻少佐は味方の遺体を無事に回収]、いや遠慮がちな伊坂のことだ戦果を少なめに報告してるに違いない、きっと破壊した装甲車は8だっ、いいか伊坂の活躍をしっかり報告しろっ」小松原は部下の戦果を大々的に報告することで山県支隊の損害の印象を小さくするつもりだ。主任参謀は何も言えず言われるがままに報告するため部屋を出、関東軍、参謀本部へ電報を打った。
数週間後、突如伊坂に異動命令が出た。原因は小松原が指示したこの報告であった。




