op.12 月に寄せる歌(3)
カステルシルヴァにあるヴァイオリンの工房は、リチェルが思っていたよりずっと数が多かった。それでもヴィオに聞くと、クレモナの最盛期は今から百年以上前らしい。
今はオールドヴァイオリンの修復をメインにしている所が多く、一から作成している工房は随分と少なくなったという。
工房同士の横のつながりはあるから、もしリチェルの父親がソルヴェーグの想像通りヴァイオリンの工房の職人だったとしたら、どこかで話が聞けるだろうとの事だった。勿論違う場合は、また一からになってしまうのだが今は頼りになる情報もないから、二人で工房を回ることになった。
二人で歩いていると、どうしてもカスタニェーレでの初雪の日を思い出した。隣を歩きながら、ふいに触れそうになる自分よりも大きな手の存在を意識する。手を伸ばせば触れ合う距離にヴィオがいるのも、きっとあと少しのことなのだろう。
(……ちゃんと、笑顔で別れるって決めたもの)
抱いた恋心が消えるわけじゃない。
今でも本当はずっと、胸の奥をしめつけている。だけどそれをもう受け入れると決めたから、リチェルの心は穏やかだった。
あの手の温もりを、あの時の幸せを、リチェルが忘れなければ良いだけだ。
「リチェル? どうかしたか?」
ぼうっとしていたからだろう。ヴィオに問いかけられて、いけないとリチェルは笑顔を浮かべる。
「何でもないわ」
「それなら良いんだが……」
初めの二軒は空振りで終わった。
そもそも話をしてくれた年数の浅い見習い達は昔の話を知らなかったのだ。工房はあちこちに点在しており、移動時間もかかった。その為歩いて移動していると、三軒目に着く頃にはもう随分と日は高くなっていた。
リチェルの父親の手がかりが掴めたのは、今日一日だけでは流石に難しいだろうか、とリチェルが思い始めた矢先のことだった。
「あぁー、そりゃドナートの工房じゃないか」
そうこぼしたのは、三軒目で話を聞いた見習い職人だった。
歳はヴィオ達より幾分か年上に見えるから、それなりの期間修行しているのだろう。そういう話を聞いた事がある、と頷く。
(ドナート?)
同時にその工房の名前を何だか聞いたことがある気がして、リチェルは首を傾げた。気のせいだろうか。
「八年ほど前に病気で亡くなった職人さんだろ? 一人知ってるよ」
病気とは言っていないが、その方は病気で亡くなったのだろう。リチェルが頷くと、青年は知っていることを話してくれる。
「本当なら俺たちは一度弟子入りすると、一人前になるまでずっと親方の所で修行を積むんだけどさ。金が要り用だってんで掛け持ちで働いてた奴がいたって親方に聞いたことがあるよ。でも結局身体壊して亡くなっちまって、そんな事するもんじゃない、って言われたんだ。身体壊してたのをドナートの親方が可哀想だから、ってんでずっと面倒みてたんだと」
「何の話だ?」
声が聞こえたのだろう。奥から年配の職人が顔を出した。『ニコさん、休憩ですか?』と朗らかに青年が問うと、職人が頷く。
「この二人が八年前に亡くなった職人さんを探してるらしくて。ドナートの工房にいたじゃないですか、病気で亡くなった。ほら、よく親方が口にする奴ですよ。ヴァイオリンをやるって決めたなら一本で来い、ってやつ」
「あぁ……」
ニコと呼ばれた職人がどこか懐かしそうに目を細めた。
「あれって中途半端はいけないってことで……」
「おい」
不機嫌な声で遮られて、青年が口をつぐむ。ニコが目を細めて、低い声で続ける。
「さかしらによく知りもしねぇ事を口にするな。無駄口叩く暇あったらパーツの一個でも削っとけ」
「あ、はい! すみません!」
青年が姿勢を正してすぐに謝る。
これで俺の昼飯買ってこい、とニコが金を青年に放る。それを受け取ると『はい!』と返事をして、青年はヴィオとリチェルに軽く会釈して町の方へ走っていく。
その後ろ姿がすぐに小さくなるのを見送って、ニコはヴィオとリチェルに向き直った。
「──それで、アンタらはどうしてそんな当に死んだ人間を探してるんだ?」
どこか冷たい視線を向けられて、リチェルは少し萎縮する。
でもそう聞かれるのも仕方がないことだ。リチェルが事情を話そうすると、その前にリチェルの様子に気付いたのかヴィオが口を開いた。
「その亡くなった方がこの子の父親かもしれず、探しているんです。不作法に映ったのなら申し訳ありません。もし何か知っているのであれば、教えていただけませんか?」
「父親?」
ニコが目を丸くする。そしてつっとリチェルに目を向けた。
「……確か子供は孤児院にいたと聞いたが」
「色々あって、今は親切な方の所に置いていただいています」
そう返事をして、この人は父のことを知っているのかもしれないとリチェルは少し嬉しくなる。
そうでなければリチェルが孤児院にいた事など知りようもない。
「……そうか。そりゃあ良かったな。俺も詳しい訳じゃないが、孤児院に娘さんがいて八年前に亡くなったと言えば、ドナートの工房にいた職人の事で間違いない。腕が良くてドナートの親方も期待してたんだ。別にフラフラしてた訳じゃないから、さっきの馬鹿の軽口は気にしないでくれ。確か名前はミケだったか」
ニコが可哀想にな、と小さく呟く。
「不幸な事故に巻き込まれてよ。貴族の道楽に付き合わされて身を滅ぼしちまったんだよ」
予想外の言葉に、リチェルは目を瞬かせる。同時にヴィオの事が気にかかって隣を盗み見る。
貴族の道楽。
ヴィオも貴族だから、そんな言葉を聞くのはきっと良い気分はしないだろう。だけどヴィオは特に気にした風でもなく、そうですか、と頷く。
「ありがとうございます、助かりました。ところで、ドナートの工房というのはこの町のどちらにありますか」
「あぁ、ここからなら歩いて三十分くらいじゃないか。ただあそこの親方は気難しいぞ。初対面の人間とは話をしたがらんからな」
「おや」
その時、後ろからどこか聞き覚えのある声が響いて、リチェルとヴィオは振り返った。
声を発したのは見覚えのある壮年の紳士だった。
グレーのシルクハットにブラウンの髪。仕立てのいいスーツを身にまとった紳士は、驚いた顔でリチェルとヴィオを見ている。
「カリーニさん!」
リチェルが思い出した名前を呼ぶと、以前ベルシュタットで出会った楽器商の紳士は嬉しそうに笑った。
「やっぱり! ヴィオ君とリチェルさんでしたか! こんな所でお会いするとは!」
そう言いながら、カリーニは『こんにちは、ニコさん』と帽子をとってニコにも挨拶をする。そこでようやくリチェルは思い出した。
(ドナートの工房!)
聞き覚えがあると思ったら、知っていて当然だ。
だって確かその名前は、マルコが見習いとして置いてもらっていると言っていた工房の名前だ。
◇
「いや、驚きました。まさかこんなところでお会い出来るとは。お二人ともお元気でしたか?」
あの後事情を聞いたカリーニは、それなら自分がドナートさんに繋ぎましょう、と請け合ってくれた。
ニコへのお礼もそこそこに、今ヴィオとリチェルの二人はカリーニについてドナートの工房へ向かっている。
「はい、カリーニさんもお元気そうで何よりです」
そう返事をすると、カリーニは目を細めて笑う。
「ヴィオ君はすぐに分かったのですが、よもや隣のお嬢さんがリチェルさんとは。見違えましたね。いえ。以前も勿論愛らしいお顔をしておりましたが、装いが変わるとまるで様変わりしますね。どこかの良家のご令嬢のようです」
「あ、ありがとうございます……」
カリーニの褒め言葉に目に見えてリチェルが恐縮した。
確かにベルシュタットではリチェルはまだヴィオの服を借りて着ていたから、カリーニが変化に驚くのは無理もない。装いに合わせて少しずつ変わっていくリチェルの様子は、確かにヴィオから見てもずっと閉じていた蕾が鮮やかな花を咲かせるようだった。
(まだ二ヶ月も経っていないのか……)
そう思うと不思議な心地だった。もう随分前から一緒にいる気がする。リチェルが隣を歩いていることが、今では当たり前に感じるのだ。
「またお会いできるのを楽しみにとは言いましたが、こんなに早くお会いできると思っていませんでした」
ニコニコと笑いながらカリーニがそう口にした。確かにクレモナと一口に行ってもその面積は広く、カリーニとこうして同じ町で行きあったことはヴィオにとっても驚きだった。
「ドナートの工房はもう少しですよ。マルコ君にもまた会えますね」
「マルコさんに」
名前を聞いてリチェルが嬉しそうに笑う。
「そういえばカリーニさんもリチェルの父親のことを知っているのですか?」
ヴィオがそう聞くと、カリーニは『あぁ』と曖昧にうなずく。
「そうですね。少しは。でも私は直接話をした事がないものですから、詳しいことはドナートさんに聞いて頂いた方が良いかと。にしても、世間は狭いですね。このように人と人が繋がっているわけですから」
自然となのか、敢えてなのかカリーニはそれ以上リチェルの父について触れようとはしなかった。
だから代わりに、ヴィオの方から気になっていたことを一つ問いかけることにした。
「リチェル。すまないが、少しだけ下がってもらって構わないだろうか?」
ヴィオがそう言うと、リチェルは何らか察したらしい。うん、と笑って頷くと二人と距離を置く。
「どうかしましたか?」
不思議そうにカリーニが尋ねてくる。それに少し聞きたいことが、と前置きをしてヴィオは先を続けた。
「大変失礼な質問なのですが、カリーニさんはどこかで俺と会った事があるのでしょうか?」
ヴィオの言葉に、カリーニが目を丸くする。
『またお会いできるのを楽しみにしていますよ。ヴィクトル君』
ベルシュタットで最後に別れる時、この人はどうしてかヴィオの本名を知っていたのだ。あれから記憶を手繰って見たのだが、ヴィオにはカリーニとどこかで会っていた記憶がない。
だとしたら自分の預かり知らぬ所で、つまり本家の方で繋がりがあったのだろう。カリーニの職を考えると、間違いなくヴァイオリン繋がりだ。
流石に本邸に出入りする商人の顔までヴィオは把握していないから、それなら覚えていなくても仕方がない。
ちらりと後ろに下がったリチェルを見て、カリーニは口を開く。
「……すみません、一方的にご挨拶をしてしまって。偽名で旅をしていらっしゃったので、名前を呼ぶのは無粋かと」
カリーニは声をひそめて申し訳なさそうに告げた。
「実はヴィオ君の今持っているヴァイオリンを本家に卸したのは私なんですよ」
やはりそうだったのか、と思う。それならヴィオが知らないのも無理はない。ヴィオの今持っているヴァイオリンは父から渡されたもので、受け渡しの場に同席はしていなかった。
「カフェでヴァイオリンを見せてもらった時に気付いたのですが、リチェルさんが呼んでいるお名前が違ったものでしたので、お伝えしない方がいいかと思いまして」
「そうだったんですね」
「それに貴方はお父様と良く似ていらっしゃいますからね。ちょうど夏頃にここでお父様とお会いしたばかりだったので、顔が似ているのもすぐ分かりまして」
「父上に?」
めまいがした。
と言うことはあの時カリーニを引き留めて聞いていれば、もっと早くここまでの道のりを把握することが出来たのだ。
「父と会ったのはその時一度きりですか?」
「えぇ。リコルドの方に向かうとおっしゃっていて。その後すぐに私もこの町を出たのでそれ以降は」
「……そうですか」
一瞬でどっと疲れた気がした。
何か問題がありましたか? と聞かれてヴィオは『何でもありません』と首を振る。
自分のミスに頭痛がするだけだ。当時の状況を思い返せば、頭が回らなかった理由は幾らでも思い当たるが、それは言い訳にはならない。
深く息をついて、気を取り直すと下がってくれていたリチェルを呼ぶ。
小走りでヴィオの所へ戻ってきたリチェルに、すまないな、と口にすると『全然かまわないわ』とリチェルは笑ってくれた。
その後はベルシュタット以降の出来事を、お互い簡単に話した。
主に話してくれたのはリチェルだったが、そう言えば以前カリーニと会った時はリチェルはこんなに物怖じせず人と話せなかったな、と思うと自然と笑みがこぼれた。話をするリチェルは楽しそうで、カリーニもどこか温かい目をしてリチェルの話に相槌を打っていた。
だから道のりはあっという間で、あまり歩いたと感じる事もなくまもなく工房にたどり着いた。





