op.11 孤独の中の神の祝福(11)
いつ思い出せなくなったのか、それすらリチェルはもう覚えていない。
最初の冬は、覚えていただろうか。だけど二度目の冬は、きっともう思い出せなかった。
「引き取られてから、思い出したことなんてほとんどなかった。シスターの事も、私の前に奉公に出たエミリーのこともよ。風邪を引いてたパウロのことだって気にかかっていたはずなのに、自分のことに必死で──」
懺悔のように、リチェルは言葉を紡ぐ。
愛してくれた人の名前を、忘れていた。
心から大事にしてくれた人の事を、忘れてしまった。
絶対に忘れないと心に刻んだ言葉も、いつの間にか泥のように沈んだ。
「ずっと覚えてよう、ってそう思ってたのに。少しも、覚えていられなかった──」
ただ生きるのに必死だった。
一番辛いのは飢えと寒さで、その次が暴力。
イルザが家にいる時は一緒にご飯をもらえたけれど、公演で留守にした時は当然のように忘れられた。初めの一年はまだ前当主が連れてきた音楽家たちが残っていて時たまご飯をくれたけれど、二年目には誰もいなくなってしまった。
寒くても、熱が出ても、怪我をしても。誰も助けてはくれなくて。それでも仕事をこなさないと、捨てられるから。
「全部忘れて、無かった事にして生きてた。ヴィオに助けられてからも、全然、思い出せなくて──」
「助け、られた……?」
マルタの声が、途切れる。
「あなた、あの人たちに引き取られたんじゃ……」
「違うわ。最初に引き取られた場所はクライネルトという貴族のお屋敷よ。歌が歌えなくなって、ずっと、下働きをしていたの」
どうして言ってしまうのだろう。こんな事言ったら、きっとマルタは何も言えなくなるのに。
それが狡い事だとわかっていても、止まらなかった。
「寒いから眠っちゃダメかなとか、明日はご飯もらえるかな、とか。どうか見つかりませんように、とか。毎日、そんなことばっかり……」
言わなくていいことを言っている自覚があった。
自分が傷ついたからと言って、それは他人の心を損なって良い理由になんてならない。パウロの時はそう思えたことが、マルタの前では守れない。傷つけるだけだと知ってるのに。
だって、本当は聞いて欲しかった。
一度で良いから、ずっと吐き出したかった。
辛かったのだと。苦しかったのだと。
そうやって他人に傷を残す自分が、どうして綺麗だなんて言えるのだろうか。
「何年、いたの……」
「え?」
「クライネルト。何年いたの、そこに」
「……三年ともう少し」
正直に答えると、マルタはいつの間にか黙り込んでいた。当然だ。こんな話を聞かされては、黙るしかないだろう。
ただマルタは慰めの言葉をかけなかった。黙ったままやがて『そう』とぽつりとこぼして、それだけだった。
その事に、どうしてか少し、救われた気持ちがした。
◇
寒い。お腹が空いた。痛いのは嫌だ。
マルタの幼い頃の記憶は、この三つでできてる。
『ねぇマルタ。お父さんのこと嫌い? お母さんが好きよね?』
『……うん、おかあさんがすき』
母が機嫌のいい時繰り出されるその質問が嫌いだった。だけどそう答えるのは、答えなければ殴られるからだ。機嫌が良ければ、ご飯がもらえるからだ。
マルタの両親は基本的にマルタの存在を無いものとして見ていた。時たま思い出したようにご機嫌取りに使う程度。
だから母親が死んで、父が失踪して、孤児院に預けられた時はホッとした。
現実は遠いものだった。
言葉は時たま尋ねられた言葉に同調するだけ。
大人しく頷いていれば痛みは来ない。それは孤児院にいても同じだった。
だけどある日、きれいな歌声を、聞いた。
『ねむれ ねむれ 母のむねに』
それが子守唄であることを、マルタは知らなかった。歌っているのが同い年の女の子であることも、興味がなかったから。
『ねむれ ねむれ 母の手に』
だけどその歌に惹かれて、そっとそばに寄ったのだ。
『もう一回、歌って?』
『うん、いいよ』
そう笑って、その子はもう一度歌ってくれた。それが、マルタがリチェルという少女を認識した最初。
リチェルは心の優しい子だった。
見てて愚かだと思ってしまうくらいに。損ばっかりしてる、そう思ってシスター・ロザリアに言ったことがあるけど、あの子はそれで良いのよと言われた。
『もしそれが気になるのなら、マルタが気にしてあげて』
そう言われたから、シスター・ロザリアがそう言ったから、少しだけ気にする事にした。同い年の子はリチェルしかいなくて、一緒にいる機会は決して少なくはない。
雑用を押し付けられてご飯の時間になっても来ないリチェルのパンを、そっと隠しておいた。夜お腹が空いて眠れないのはちょっと可哀想だから。シスターに言われたから。言い訳をして、リチェルに渡す。
『ありがとう、マルタ!』
リチェルから向けられる透明で真っ直ぐな感謝は、嫌いじゃ無かった。
だから──。
◇
コツコツと月明かりだけが照らす廊下を進む。
寝静まった子ども達の見回りだ。これが終わったら、マルタも自室へ帰る。
あの後リチェルとは語る言葉もなくて、黙って別れた。残っていた雑務を片付ける気力も残ってなくて、今日は見回りだけして寝るつもりだった。どこにも異常がないことを確認して帰ろうとして、ふと踊り場に人影を見つけた。
「──ロゼ?」
真っ暗な中、踊り場に立っていたのはロゼだった。
「何をしているの。もう寝る時間でしょう」
厳しい声を出したマルタに、ロゼはムスッとすると『待ってたの』とぶっきらぼうに答えた。
「誰を?」
「マルタをよ」
「私?」
首を傾げる。ロゼはマルタが嫌いだ。シスターになってからこんな風に話しかけてくるなんて、今まで無かったことだ。
「ごめんなさい、って言おうと思って」
今度こそ訳がわからずに、マルタは眉をひそめる。
「何が?」
「以前、院長に反抗した時引っ叩かれたでしょ。その後反省室に閉じ込められて、正直地獄に堕ちろ! って思ったんだけど……」
「ロゼ、口が悪いわ」
「あぁ、もうそういうとこ。本当そういうとこわかんにくい」
「何言ってるの?」
決まりが悪そうにロゼが頭をかく。
「今のはさー、シスターに向かってそんな口を聞くなんて! って怒るとこ。でもマルタは、口が悪いしか言わないんだもんね。別に、地獄に堕ちろなんて思ってないよ。ごめん」
守ってくれたんだよね、とポツリとロゼが呟いた。
「院長が怒るから。キレたらあの人何するか分からないから。その前に怒って、院長から庇ってくれたんだよね」
「……何で?」
思わず聞き返した。
確かに間違ってはいない。シスター・テレーザは部屋に鞭を隠し持っている。本当に怒ると、躊躇なくそれを持ち出すことをマルタは知っている。だから先手を打ったのだ。『マルタにぶたれて可哀想』とか思ってくれれば御の字だった。
だけどそんなの、誰も──。
「リチェルちゃんがね、教えてくれたの」
「……え」
「庇おうとしてくれたんだって。だから嫌わないで、って」
あんまりリチェルちゃんに意地悪しちゃダメだよ? と言って、ロゼは言いたいことは言ったのかくるりと踵を返した。眠いからもう寝るね! と言って、ガラガラと寝室の扉が閉まった。
『転ばせようと思った訳じゃないでしょう?』
古い記憶が持ち上がる。
マルタは言葉がうまくなくて、先に手が出るタイプだった。マルタがこかした! と大声で泣く年下の子を睨みつけて、だけど何も言えない。
だってあのままじゃ溝に落ちた。だから服を引っ張っただけなのに。
『マルタは助けようとしてくれたのよね』
落ち着いた声で、シスター・ロザリアがそう言った。
分かってくれた。
あの時、それがとても嬉しかった。シスター・ロザリアが分かってくれるなら、別にもう誰が分からなくてもいい。そう思った。
『リチェルちゃんがね、教えてくれたの』
(……本当、嫌になる)
視界がブレた。
誰も分かってくれなくていいと思っていた。だってシスター・ロザリアが分かってくれたから。きっとそんな奇跡みたいな出会いは何度も起こらない。
(どうして、あなたなの……)
どうして分かってくれるのが、他の誰でもない、貴女なのだろう。
「…………っ」
リチェルの事は嫌いだ。
幸せになっている姿なんてやっぱり見たくは無かった。だけど──。
「……酷い目にあって欲しいとも、思ってなかったわ」
泣きそうな声で、呟いた。
報われてほしくないと、傷ついて欲しいは全然違う。
あんなに周りの人達を大事にしていた子が、擦り切れて全部忘れてしまうくらい、ボロボロになってほしいと願ったわけじゃなかった。
嗚咽を漏らして、その場に座り込んだ。
そう思える自分にまだ、救いはあるのだろうか。
全部が間違いではなかったと思っても、許されるのだろうか。





