op.11 孤独の中の神の祝福(10)
『 11月16日
段々と手を落ち上げるのが億劫になっていく。食欲はなく、昨日もあの子が持ってきた食事をほとんど食べられなかった。
夕方、あの子が泣きながら部屋に入ってきた。
とても珍しいことに怒っていて、訳を尋ねると私と子供達との面会が認められなかったらしい。
当然だろう。誰だってもうすぐ死ぬ人間に労力は割きたく無いものだ。
怒りの感情さえ透明で、あの子の泣き顔はとても美しかった。
この心の美しさを、ほんの少しも損ないたくない。
この子が汚れてしまえば、本当に美しいものなど存在しないのではないかと思ってしまう。
これは私の懺悔だ。
自身のエゴで赦されないことをした。
その事を、腕が動く内に記しておかなければ。
本当は、もっと前からこの世界の残酷さを教えてあげなければならなかった。
テレーザの機嫌を取りなさい、と。
私の食事を運ぶのをやめなさい、と。
そうあの子に教えなければならなかった。
だけど出来なかった。
あの子の無垢は、私にとって最後の救いだったから。
それを損なうことが恐ろしかった。
だから代わりに、私は呪いを口にした。
いつかあの子が千々に傷つくことがわかって、あの子に呪いをかけたのだ。 』
◇
ろうそくに火を灯して書き物をしていると、事務室のドアがノックされた。シスター・テレーザは私室に戻ってしまってもういない。
この一人きりの時間が、唯一マルタが落ち着ける時間だった。ため息をついて『どうぞ』と促すと、一番会いたくなかった人物が立っていた。
リチェル。
何年も一緒に育ち、十二歳で孤児院から出ていった同い年の少女。
昼過ぎにリチェルが大量の文房具を持って帰ってきたのだと聞いた。会えば礼をしなければいけないのが嫌で、マルタはずっとリチェルを無視していたのだ。
だけど流石に訪ねられてはそうもいかない。一瞥して、『何』と短く尋ねる。
「マルタ、少し話がしたいの」
「何も話すことなんてないわ」
「わたしはあるわ」
リチェルにしては頑なな口調だった。私はないの、と答えて無視することに決めると、ポツリとリチェルがこぼした。
「さっき、ラヴェンナが泣いていたわ」
出てきた幼い孤児の名前は、一ヶ月前に引き取ったばかりの三歳の子だった。人懐こい子で馴染むのも早く、パウロやロゼに始終くっついている。そのラヴェンナが泣いていた?
「どうして?」
思わず尋ねてしまう。
「最近毎晩夜に泣いて起きてしまうみたい。大きな声じゃなくて、ぐずる感じだから、ここまで声が聞こえないんだと思う。ロゼがいつもあやしてもう一度寝かしつけてるみたいだったわ」
「……何それ」
そんな事聞いていない。
知っていたら、毎日ちゃんと気をつけて見に行ったのに。
「ロゼったら……。ありがとう。教えてくれて」
そう答えると、リチェルの頬がかすかに緩んだ。その事に心がざらつくような心地がする。
「用が済んだなら出ていって」
「済んでないから、もう少しだけ……」
ぶっきらぼうに言ったのに、リチェルは引かなかった。意外だった。リチェルは良くも悪くも、他人に強く出られるタイプではない。相手の言葉を無視して自身の意志を通すことなんてほとんどなかった。
だからリチェルが何か心に決めてマルタの所に来たのだろうと言うことは明白で、どうやったら諦めてくれるかが思いつかなくて、結局マルタが諦めた。
座れば、と近くの椅子を指差す。リチェルは安堵したように息をついて、指された椅子に腰を下ろす。
「……昼間の言葉の意味が、知りたいの」
「え?」
「シスター・ロザリアがわたしのせいで悪く言われてたっていう、その言葉の意味を、教えてほしいの」
思わず舌打ちしそうになった。
言うつもりなんてなかったのだ。なのにパウロに語りかけるリチェルの綺麗事を偶然聞いてしまったから、溢れて止まらなくなった。
「分からないの?」
だから馬鹿にするようにそう返した。どこかで引き返してほしいと願いながら。だけどリチェルは素直に頷く。ごめんなさい、と小さくその声が呟いた。
「本当、あなたって反吐が出るくらいお利口さんね」
強がって吐き捨てる。違う。リチェルに分かるわけなんてないのだ。この子はマルタのように汚れていないから。きっとシスター・ロザリアがいたら、優しく耳を塞ぐだろうと思いながら。
(そう、だから──)
だからこそ踏み荒らしてやりたくなる黒い気持ちが、マルタにはあった。
「じゃあ、教えてあげるわ」
仄暗い気持ちを抱えながら、マルタは嘲笑う。
「シスター・テレーザはシスター・ロザリアを隔離したのを正しい行いだと思っているの。その発端が自分の醜い嫉妬から出たものであってもね。理由はあるもの。子どもたちに病をうつさないためだとか、シスター・ロザリアの元々の居室は院長のものだから退任した人間がいてはならないとか」
言い訳なんていくらでもできる。
そしてその言い訳を正しいと思い込めるのが、シスター・テレーザの人間性だ。
「これで誰もシスター・ロザリアに見向きもしなくなれば、院長だって慈悲の心をお出ししたかもしれないわ。でもシスター・ロザリアには心から彼女を慕う子どもがいた。昼夜問わず身を粉にして働くその子は、孤児院の子どもたち皆から好かれていて、その子に好かれているシスター・ロザリアはまるで正しくて可哀想な人みたいでしょう?」
「そんな……」
リチェルの声が震える。きっと理解できないのだろう。実際シスター・ロザリアは被害者だ。正直、医者を呼んでいたなら助かったのではないかとさえマルタは思っている。
「そう、事実よ。でもその事実が我慢ならない人間もいるわ」
それがシスター・テレーザだ。
「そんな事されたら、自分がちっぽけで、醜いものだと思っちゃうでしょう。その不安はどうやって取り除いたらいい? 貴女とシスター・ロザリアを貶めるのが一番楽な方法よ」
知っている。こんなのは許されない正当化だ。
だけど権力のある人間が正当化すればそれはまかり通る。どんなに正しくなくても、強い人間の言うことは大抵正しくなる。
「……だから、シスターにあんな、酷い仕打ちを……?」
「そう。お綺麗な貴女には分からないでしょうけど、そうしないと自分を保てない可哀想な人間はたくさんいるのよ。……貴女が嫌がればよかったのよ。シスター・ロザリアにご飯を持って行かなければよかったの。シスター・テレーザに、可哀想ね、って思わせてあげればよかったのよ」
「そんな、こと……っ」
きっと貴女は許せないでしょう。
だけど綺麗なばかりじゃ何も救われない。
自嘲する。
あぁ。きっと私は、この子の綺麗なところに泥を塗ってやりたかったのだ。ずっと。
『もう一回、歌って?』
『うん、いいよ』
幼い声が、聞こえた気がした。
「貴女が、悪者になればよかったのに」
どうしてだろう。声が震えた。
「そうやって綺麗なままだから、辛い目に遭うのよ。貴女みたいに生きてたって、何も良いことなんてないわ」
やりたかった事をしているのに、どうしてこんなに泣きたくなるのだろう。
「いいえ」
ふいに、鈴の音のような声が割り込んだ。らしくない、震えた声でマルタを否定したのは、目の前にいたリチェルだ。
「え?」
「違うわ、マルタ。だってシスターは『人に優しくしなさい』ってわたしに言ったもの」
人に抗議することなんて全く慣れていないくせに、リチェルの瞳は真摯だった。リチェルにそれが正しいと教えてくれた人の言葉を、守るようだった。
「例えマルタの言っていることが事実だとしても、間違ったことをしたとは思っていないわ」
何度同じ時に返っても、きっと同じことをする。とリチェルは答える。
(どうして──)
唇を噛む。
目の前にいる少女は、マルタにとって悪夢だった。
打ちのめされれば良いのに、と思った。傷ついて、後悔して、泣いてくれれば良いのに、とそう思った。
それなのに。
貴女はどうして、いつだってそうやって正しい方を選ぶのだろう。
「……どうして」
気付けば声が漏れていた。
シスター・ロザリアが病気になった時、きっとシスター・テレーザが次は院長になるのだろうと思った。シスター・テレーザがシスター・ロザリアを嫌っていたのは知っていた。自分より他人が慕われる光景を、許せない人間だと知っていた。
だから──。
『お世話をする人間が必要です。誰か子どもたちからシスター・ロザリアの世話役をつけましょう』
シスター・テレーザがそう言った時、マルタは手を上げることが出来なかった。だってここで手を上げたら、きっとシスター・テレーザに標的にされる。
だから迷いなく『わたしがやります』と言ったリチェルは、愚かで、無知で、妬ましくて、羨ましくて──。
「お綺麗に生きてたって何にも良いことなんてないわ……っ。シスター・ロザリアが死んでからの一年間、自分がどんな扱いを受けていたか忘れたの⁉︎ 院長がキツイ仕事ばっかりアンタに押し付けてたの、気付いてなかったわけじゃないでしょう⁉︎」
当然だった。シスター・テレーザの自尊心に傷をつけたのだから。寒い日は冷たい水を触る仕事を、熱い日は重い荷を運ぶ仕事を。当然のようにテレーザはリチェルに命じた。時にご飯を抜かれ、夜遅くまで雑用を命じられ、擦り切れそうになりながら過ごすリチェルを、マルタは横目で見ていた。
「本当はシスター・ロザリアが孤児院に残したかったのは私じゃなくて貴女だったわ。だけどあんな風に馬鹿なことをしたから、残してもらえなかったのよ!」
「だけど、わたしは少しも後悔してない……!」
「そりゃ、そんな立派な格好して帰ってきたら、綺麗事だって言えるでしょうねっ‼︎」
気付けば声を荒げていた。
「パウロに対してだってそうよ! 自分が大事にされているから、あんな無責任な事が言えるんだわ! 自分が幸せに暮らしているから、夢みたいな事ばかり口にできるのよ!」
綺麗に生きない自分が正しいのだと思っていた。
信じる者は救われるだなんて大嘘だ。だってそれなら、どうしてシスター・ロザリアが死ななければいけなかったのだろう。あの人だけは認めてくれたのに。
『そうね。世界は理不尽で、残酷ね』
大人が誤魔化す本当のことを、真っ直ぐ受け止めてくれたのに。
どうして帰ってきたの、と責める声は千切れそうだった。
「見せびらかしたかったとしか思えないじゃない……! 結局自分が正しかったんだ、って押し付けに来たみたいじゃない! 私が……っ」
血を吐くように、自身の罪を告白するように、マルタの唇から嗚咽がこぼれる。
「リチェルが報われたら、やっぱり貴女みたいな綺麗な人間しか幸せになれないんだ、ってそう言われてるみたいじゃない……!」
だとしたらもう自分は幸せになんてなれない。
たくさん嘘をついた。たくさん正しくないことをした。
本当はシスター・ロザリアに会いたかった。死んだ時は一緒に泣きたかった。だけど夜泣いているリチェルのそばで泣く資格を、マルタは当に失っていた。その代わりに、今の場所を手に入れた。
「どうしてそんな綺麗な格好して帰ってくるの! どうして私の目の前に現れたの! そんなの見せられたら、惨めになるじゃない……!」
正しく生きた貴女が正しかったのだと。信じれば救われるのだと、そう言われているようだ。
「……そんなこと、ない」
ポツリと、リチェルがこぼした。
「綺麗なんかじゃ、ないよ……」
「そんな言葉……っ」
「だって、わたしはシスターのこと忘れてたもの……っ!」
泣き出しそうな声だった。
「え──?」
そしてマルタにとっては、信じられない言葉だった。
忘れてた?
目の前に座るリチェルは、他人を大切にする子だった。例えるなら、博愛、と言う言葉が人の形を取ったらこんなふうになるのかもしれないと。マルタにそう思わせるくらいに。
そのリチェルが、今、ポトポトと涙を流しながら『忘れてた』と、そうこぼしたのだ。




