op.11 孤独の中の神の祝福(9)
窓の外の月を見上げながら、ヴィオは小さく息をつく。
今頃リチェルは何をしているだろうか、と考える。
(何も悪いことに巻き込まれてないといいんだが──)
話には聞いていたが孤児院に実際に足を踏み入れたのは初めてだった。その環境も聞き知っていたのに、直接目で見て感じるのは全然違った。
あの場にいた子供達やリチェルは、自分達が商品のように扱われることについて動揺を見せなかった。諦観と言ってもいい。どうしようもない、と分かって当然のように受け入れていた。
その事に、正直少し動揺した。
「まだお休みにはなられませんか?」
後ろから声をかけられて振り返る。そう聞いておきながら答えは分かっていたのだろう。ソルヴェーグはヴィオの前にあるテーブルに湯気のたったカップを置くと、自身も礼をして近くの椅子に腰をかけた。
「……俺の世界はまだまだ狭いな」
ポツリと呟くと、ソルヴェーグは目を伏せて微笑む。
「御身はまだお若い。これから学んでいけばいいのです」
「……どれだけ恵まれた環境にいるのかが身に染みるよ」
だからこそ責任は果たさないといけない。そう心の中で自分を戒める。それなのに今もわがままを通しているのだ。考え始めるとキリがない。どこからどこまでを、己に許してもいいのだろうか?
それにしても、とヴィオはソルヴェーグに視線をやる。
「意外だった。お前がリチェルにああ言う提案をするとは思わなかったから」
「そうでしょうか?」
「思いついても口にはしないだろうと」
そう言うと、ソルヴェーグは微かに笑う。
「そうですな。私も少しばかり気に入らなかったのやもしれません」
それこそ意外な言葉だった。
ソルヴェーグは冷静な人間だ。感情を荒げるところなど見た事がないし、私情を口にすることもほとんどない。だからこの執事からそんな類の台詞を聞くのは初めてかもしれない。
驚いていると、場を和ませるようにソルヴェーグは和やかに笑う。
「それに今回のことはヴィオ様にとっても良き経験になったと思いますし、少しばかりお礼の気持ちもあるでしょうか」
「……お前は俺の親のような口をきくな」
「とんでもございません。この老いぼれには勿体無いお言葉です。ただ、ヴィオ様が立派な当主に成長される助力が出来るなら、如何様にでも」
冗談のように言っているが本音だろう。
はぁ、とため息をついてコーヒーを一口含む。窓を閉めていても部屋は冷えた。きっと丘の上はもっと冷えるだろう。
黙って外を見ていると、ソルヴェーグが吐息のように呟いた。
「……ヴィオ様は、以前より穏やかになられましたな」
「そうか?」
自分では自覚がない。
確かに、色んな事があって、自分でも考え方は少し変わった気がする。ただ穏やかに、と言われるとどうなのだろうか。
「えぇ、まとう空気が変わられました。だからきっとリートやリリコもヴィオ様に話しかけるのを躊躇わなかったのでしょうな」
「それは、アイツらの気質もあると思うんだが……」
ルフテンフェルトでリートやリリコがまとわりついてくるのは、正直最初困惑した。だがソルヴェーグはそれには答えず笑うだけだ。
空気というなら、リチェルのまとう空気の方がずっと穏やかだ。柔らかい春の陽だまりのような。そばにいると心が安らぐ。
それを思い出して、小さくかぶりを振った。
「まぁ、悪い変化でないなら良いんだが……。足りないことが多いからな」
リチェルを思い出したことを誤魔化すように、ヴィオは苦笑をこぼす。
「今日も知らないことが多いと思ったばかりだ」
「知っていることが増えた、と言う事ですよ」
「ものはいいようだな」
「ですが事実でございます」
澄ましてそう言うと、ソルヴェーグは少し黙った。それから、本当に珍しいことだが少し躊躇して、口を開いた。
「──リチェル殿の、お陰も大きいのでしょうな」
「……っ」
思わずソルヴェーグの方を振り返る。考えていたことが漏れたのではないかというタイミング。瞳を伏せたまま、ソルヴェーグは続ける。
「リチェル殿の境遇を知れば知るほど驚かされます。あの心のまま、ここまでこれたのは非常に稀有なことでしょう。リチェル殿はきっと私たちが思うよりもずっと強い方なのでしょうね。そうでなければあの心は保てはしませんから」
「…………」
同意していいのか分からなかった。
代わりに、何か失敗しただろうかと、そう思った。
ずっと、ソルヴェーグが離れろと言えば従うつもりだった。そのつもりでリチェルと一緒にいた。この老齢の従者はとても優秀で、ヴィオ以上にヴィオのことを分かっている人間だから。ヴィッテルスブルク侯爵家に忠実な家臣だから。
裏切ってはいけないものも、自身にとっての優先順位も、ヴィオは分かっているつもりだ。
だがソルヴェーグは、何も言わなかった。ただ目を細めて、まるで独り言のように呟いた。
「あのような方は、得難いですな」
「そう、だな……」
かろうじて、そう返事をした。
そうして、ひどく安堵していることに気付く。気付いてしまう。
「幸せになってほしいと、そう思うよ」
静かに、そう吐き出した。
「えぇ、そうですね」
答えるソルヴェーグの声も静かだった。
この家臣が何を考えているのか、今まで意識したことはなかったけれど、今日だけはその本心が知りたいと思った。




