第23話 タウロスとアタランタ
翌日――
満月がのぼる晩まで、あと四度の日暮れを迎えるのみに迫った朝に、若者たちは、いつものように格技訓練場で汗を流していた。
「なあ、タウロス……」
「ところで、カリアンドロス」
激しい鍛錬が一段落し、いつもの水がめのそばに陣取ったところで、カリアンドロスとタウロスが、まったく同時に口を開く。
カリアンドロスは軽く目を見開き、身振りで相手に先をゆずった。
カリアンドロス自身は、ボイスカと共に立てた作戦にしたがって、タウロスがいきなりアタランタに触れようとすることがないよう、どうにか説得を試みようと思って口を開いたのだ。
だが、いったいどう話を切り出せばいいのかについては、彼自身でも、いまいち判断がついていなかった。
ここは、いきなりその話題に入るよりも、先にタウロスの話を聞いて、会話で場が和んだところで、さりげなく話を切り出すほうがいいだろう――
「どうした、タウロス? おまえから先に話せよ」
「ああ……」
中身を飲み干した器をかたわらに置き、タウロスは、まっすぐにカリアンドロスを見た。
「ある女性と、初めてΤΑΑΦΡΟΔΙΣΙΑをするときの心得はあるか?」
「ヌグッホッ、グゴホッ!?」
いきなりの質問に、むせ返って悶絶するカリアンドロス。
「大丈夫か……?」
「だッ……いや、大丈夫じゃ、ねえッ……」
自分の胸のあたりをどんどんと叩きながら、辛うじて言う。
「ある女性っていうか……もう、それ、アタランタちゃんのことだよな!?」
「もちろんだ。他に誰がいる?」
「ウッ。いや、いないけど……その……なぁ?」
ごにょごにょ言いつつ、いったいここからどうやって話を運べばいいものか、カリアンドロスが決断できずにいるうちに、タウロスは大きくため息をつく。
「昨日から、色々な方々にたずねて回っているのだが、皆、言っていることがばらばらで、いっこうに要領を得んのだ……貴様の意見も聞かせてくれ」
「色々な方々ッ!? おい……ちょっと、待てよ。おまえ、いったい、誰に質問して回ったんだ!?」
「まずは隊長だな」
「隊長……」
タウロスとカリアンドロスが所属する部隊の隊長は、野生のイノシシを素手で殴り倒したという武勇伝の持ち主で、そんな相手に色恋の手管を伝授してもらおうというタウロスの度胸、というか、人選の基準が計り知れない。
「で……隊長殿のご意見は、どうだったんだ……!?」
「色々と熱く語っておられたが、要約すると『勢いが大切』ということだったな」
「勢い……」
「ファランクスで敵に突撃するときと同じだと仰っていた」
「同じかッ!?」
思わず全力でつっこみを入れてから、はっとして左右を見回し、隊長がいないことを確かめるカリアンドロスである。
「ほ、他には、誰にきいたんだ?」
「次は、たまたま通りかかった監督官殿にたずねてみた」
「勇気あるな、おまえッ!? ふつう監督官殿には話しかけない、ていうか近づかない――ていうか、答えてくださったのかよ、その質問にッ!?」
監督官たちとは、スパルタの民会において選出される五人の男たちのことであり、王さえも掣肘する権限を持っている。
スパルタ市民の生活を厳しく監視し、掟に背く者があれば容赦なく処罰する、厳格にして恐れられる存在なのだが――
「で、その監督官殿は、何て……?」
「『戦と同じで、駆け引きが肝要。相手の出方を子細に見て、その動きに応じよ』と」
「達人か!?」
さすがは監督官殿だッ、と恐れおののくカリアンドロス。
「それから、ちょうど昨年結婚なさった、アガトス先輩にもきいてみた」
「おお……いや、監督官殿に聞く前に、そっちに聞けよなッ!?」
「先輩いわく『女が言葉だけで嫌だというときは、してほしいということだから、逆らわれてもくじけず、強引に行け』と」
「おお……!?」
「だが、同じく昨年結婚なさったフィロマコス先輩は『相手が嫌がることは、決してしてはいけない。どうしてほしいかを相手に尋ね、望む通りにしてやるのがよい』と」
「おお……!」
「そこへマカオン先輩がやってきて、『こちらから尋ねるなど邪道。むしろ相手のほうからすすんで望みを口にさせ、求めさせなくてはならない』と……」
「おお……ッ!?」
「全員、言っていることがばらばらで、どうしていいのか分からん……」
「本当だな」
普段は無口な先輩たちが、色恋について熱心に議論をたたかわせる姿を想像し、カリアンドロスは複雑な表情を浮かべた。
「貴様の意見はどうだ? ぜひ聞かせてくれ」
「え!? えーと……いや、その、なんだ」
再び自分のところに質問が回ってきて、カリアンドロスは慌てた。
ここで妙な答え方をして、タウロスを焚きつけてしまっては、ボイスカと共に立てた作戦が台無しになってしまう。
(タウロスが行動に出ることだけは、何としてでも食い止めるんだ……! それも、タウロスを怒らせないように、うまく話を運んで……ッ!)
耳から煙が出るのではないかというくらい考えを巡らせながら、
「そこは、やっぱり、あれだ」
カリアンドロスは、渾身の笑顔を見せて言った。
「フィロマコス先輩の仰るとおり、まずは、相手の望むようにするってのが、一番いいんじゃないか!?
ほら、男にもいろんな奴がいるように、女だって、いろんな娘がいるわけで……相手が、どういうのが好きなのか探って、それに合わせるのがいいぜ! 強引なのが好きな娘もいれば、優しくされるのが好きな娘もいるだろうし……」
「なるほど……!」
ようやく得心がいった、とばかりに、うなるタウロス。
「あと、ほら……なんだ、その……それよりも、走るほうが、好きな娘とか……」
「分かった」
カリアンドロスがごにゃごにゃと小声で付け足した部分は、まったく耳に入らなかったようで、タウロスは、清々しい笑みを見せてうなずいた。
「突撃式がいいか、希望制がいいか、彼女に尋ねてみよう」
「何だその二択ッ!? ――ちょっと待て! いきなり本人に直接きくのは、どうかと思うぞ!? あまりにも野暮だ。そこは、言葉に頼らず、相手の様子を見て判断するんだよ……!」
「なんと……」
目を見開き、タウロスはうめいた。
「言葉によらず、か……スパルタの古き掟が、ΤΑΑΦΡΟΔΙΣΙΑにおいても大切なのだな……」
「う、うーん!? まあ、そういう感じ……と、言えないこともない……かな……」
「だが、まずはやはり、俺のほうから誘うのが礼節というものだろう?」
「礼節……うん、まあ、それはそう、かな……? いや、その」
「だが、具体的には何と言って彼女を誘うべきか……ううむ……まずは……双方にとって都合のよい日取りを」
「宣戦布告の使者かよッ!?」
思わず、タウロスの胸板を裏手でベシンと叩いて、カリアンドロス。
「そんなもんはなあ、顔を合わせたら、手を取って、君に会いたかったと伝える! そして相手が嬉しそうな顔をしたら、さりげなく物陰へ誘う! そして、相手が嫌がらなければ、そのまま――」
勢いよくそこまで言ったところで、カリアンドロスは、びしりと固まった。
(し……しまったァァァッ!)
見れば、タウロスは師匠の教えを受ける弟子のような目でふむふむとうなずき、こちらの一言一句を頭に叩き込もうとしている様子だ。
このままでは、彼はすぐにでもアタランタのもとへ赴き、学んだことを実践しかねない――
「そのまま……えー……あぁー……きょ……『今日は、とてもいい天気ですね』と……」
「……………天気?」
「う、うん。それから『最近、エウロタス川の水量が減ってきましたね』とか……」
「彼女と……川の水量の話を……!?」
「そうだ、川の水量の話だ……あー……それから……」
苦しい表情で、それでも何とか先を続けようとした矢先、
「タウロスさんッ!」
「ウゴホゥッ! グガッ、ゴホゥッ」
聞き間違えようもない、凛として張りのある乙女の声が響いて、カリアンドロスは再び激しくむせ返った。
周囲で鍛錬に励んでいた若者たちが、いっせいに動きを止めてどよめく。
あらわれたのは、もちろん、アタランタだ。
「アタランタ……」
大きな傷跡の残るタウロスのいかつい顔に、おどろくほどやわらかな笑みが広がった。
彼は立ち上がり――かたわらに置いていた布を、すばやく腰に巻きつけて――アタランタのすぐそばへ行き、彼女を見下ろす。
「あれから、ずっと、あなたに、会いたいと思っていた」
「あ、そうですか……!? 奇遇ですね。私もです!」
「ウオオオオオオォ~ッ!」
水がめのかたわらに呆然と取り残されていたカリアンドロスは思わず叫び、あわてて二人のあいだに割って入ろうとしたが、
「おい、静かに」
「タウロスの邪魔をするな」
「座っていろ」
暗殺部隊のごとくどこからともなく姿をあらわした男たち――見れば、タウロスが話を聞いたというアガトス、フィロマコス、マカオンの三人の先輩たちだ――に、背後から口をふさがれ、はがいじめで動きを封じられてしまった。
そんな騒ぎも目にすら入らないようすで、アタランタを見つめながら、タウロスはささやく。
「もしも、あなたさえ良ければ……あちらの、外の木陰で……二人で、話さないか……?」
「あ、そうですね。行きましょう!」
「グワアアアアアァ~!! タウロス、やめンググググ!?」
「黙れ」
「絞め落とすぞ」
カリアンドロスが先輩たちに取り押さえられているあいだに、タウロスとアタランタはゆっくりと歩き、格技訓練場から出て、涼しい影を落とす木の下に入った。
そばの日向には、青々としたギンバイカがいくつも生い茂り、ちょうど周囲からの人目をさえぎるようになっている。
タウロスとアタランタは、心地よいそよ風の吹く日陰に並んで腰をおろし、しばらくは互いに黙ったまま、地面の草を見たり、晴れた空を見たりしていた。
「……ところで」
やがて、意を決したように、タウロスが口を開く。
「今日は……とても、いい天気だな……」
「えっ? ……ああ! たしかに、鍛錬日和ですね。ちょっと暑いけど」
「エウロタス川の水量は、少し減っているらしい……」
「え!? そうですか?」
あんまり変わりがあるようには見えなかったけど、と首をひねるアタランタの顔を、タウロスは、この上もなくいとおしいものを見るように見つめていたが、
「その、話し方は」
「え?」
「そんな、改まった話し方は、もう必要ない……」
低く、ささやくように、そう言った。
「あっ、そうで――えっ。……そう? ……ほんとに?」
「ああ」
タウロスはうなずいて、ほんのわずかに、アタランタのそばへ寄った。
「俺のことは……タウロスと、呼んでくれないか」
「わかりま――いや、わかった! これから、そう呼ぶようにするよ」
「……ウグググググゥ~」
「シィッ」
「声を立てるな」
少し離れた茂みの中からは、そんな唸り声やひそひそ声が漏れていたが、タウロスとアタランタの耳には届かない。
「ところで、タウロス」
不意に、ぱっと顔を上げて、アタランタはまっすぐに若者を見上げた。
「いつ……する?」
「え」
タウロスは一瞬、言葉を失い、乙女の顔を見返した。
その頬は、みるみるうちに紅潮していった。
「いつ、する? その……私たちの……」
「ああ……」
愛の女神の織りなす黄金色の夢を見ているような面持ちで、タウロスは呟いた。
「君は……どう思っている……?」
「私は、タウロスさえよければ、いつでもッ! なんなら、今、この場でだって、かまわない!」
「アイアイエエェェ~……!!」
「フフフ」
「クククク……」
少し離れた茂みの中からは、悲痛な呻き声と、怪しい含み笑いが漏れていたが、互いを見つめ合う二人の耳には、やはり届いていなかった。
「アタランタ……」
タウロスは、ひとりの男の一生に許されたかぎりの幸福のすべてを今、受け取ったというような表情で、乙女を見つめた。
「俺もだ。できることならば、今、あなたと、そうしたい。本当に、どれほど、俺がその時を待ち望んでいることか……!」
タウロスの片手があがり、アタランタの肩に今にも触れそうになって、止まった。
彼は、その手をぐっと握り、かすかに震える拳を、自分の腿に置いた。
「だが……どうか、あと少しのあいだだけ、待っていてくれ。
満月の夜に、俺は、あなたを迎えに行く」
アタランタは、目を見開いた。
「満月の、夜に?」
「ああ……必ず」
「……ウオオオオオオォーッ!!」
強弓の弦がはじけるように、アタランタは立ち上がり、両方の拳を握って咆哮した。
「そのときが待ち切れない……! すごく楽しみだ! 月が、はやく満ちればいいのに!」
「俺もだ……今だって、もう、堪えきれないほどに……」
「私もッ!」
力強く叫び、アタランタは満面の笑みでタウロスを見下ろした。
「私、待ってるから! 今の約束、絶対に忘れないで! それじゃ……おわァァァッ!?」
軽やかに走って帰ろうとしたところで、そこらじゅうの木の幹や茂みの後ろに筋肉隆々の男たちがぎっしりと隠れていたことに気づき、アタランタは思わず叫んだ。
年長の者たちから年若い者たちまで、さきほど格技訓練場にいた者たちが、ほぼ全員集合している。
さすがは幼い頃から隠密行動を叩き込まれるスパルタの戦士たち、実際に目で見て確かめなければ、これほど集まっているとは想像もつかぬ人数だ。
「なななな、何ですか、あなたたちはッ!?」
「なッ……」
二人がいた木陰を包囲し、聞き耳を立てていた仲間たちの存在に気付いて、タウロスはたちまち凄まじい怒気を発した。
「何の用だッ……!? 散れ!!」
「ヌフフフ」
「クフフ……」
怪しげな含み笑いを漏らしながら、三々五々、散っていく男たち。
そのあとに、
「うわあ!? この人は、大丈夫ッ!?」
うっかり干上がってしまった蛙のような姿で地面にのびている、金髪の若者の姿があった。
「どうした、カリアンドロス!? まさか、今の連中にやられたのかッ!?」
「……ウウウウウウゥ~……」




