第22話 ボイスカとカリアンドロス
その日の、黄昏時。
アミュクライ村のほうへと急ぎ足で向かう、ひとりの乙女の姿があった。
ボイスカだ。
タユゲトス山から長くのびる影のなかで、ボイスカは、境界石のところにたどり着いた。
彼女は用心深くあたりを見回し、様子をうかがう。
その頭に、不意に、こつん、とぶつかったものがあった。
見れば、小枝だ。
「おいッ……こっちだッ」
茂みのなかから頭を半分だけ出し、しきりに手招きをしているのは、カリアンドロスだった。
ボイスカは、ふたたび用心深くあたりを見回してから、さっと茂みに飛び込む。
二人は、今日、日が落ちたらここで落ち合うことを、昨日のうちから取り決めていたのだった。
「もう暗いのに、君みたいなお嬢さんが、よく家を出てこられたね。正直に言えば、半分、無理かもしれないと思っていたんだ……」
「ええ……母はミノア式投げ縄技で止めようとしたけれど、あたくし、松葉固めで応戦して、ようやく出てきたの……」
「うーん……どんな技なのか、聞きたいような、聞きたくないような」
一瞬すごく複雑な顔をしたカリアンドロスだったが、今は、ゆっくり会話を楽しんでいるような暇はない。
「ところで、どうだった、そっちの首尾は!?」
「ええ、アタランタから、話を聞いてきたわ。そっちこそ、どうなの!?」
「おう、俺も、タウロスから話を聞いてきたぜ!」
秘密の会合の目的は、互いの親友、アタランタとタウロスについての情報を交換することだ。
カリアンドロスはタウロスから、ボイスカはアタランタから聞いたことがらを、『ここだけの話』という固い約定のもと、交互に話し合って――
「う……うーん……!?」
予想の斜め上二回転半ひねりなアタランタの発言を聞くに及んで、カリアンドロスは腕を組み、盛大にうなった。
「これは……えっ? これは……俺たちとしては……えっ!? これはつまり、いったい、どうなんだ!?」
「あたくしにも分からないわ……」
カリアンドロスとまったく同じ姿勢で腕を組み、眉をぎゅうっと寄せて考えこみながら、ボイスカ。
「とにかく、アタランタは、何が何でも、スタディオン走でタウロスさんと決着をつけるつもりなのよ!」
「うん、いや、まあ……でも、別にいいよな? 別に、両想いの二人で勝負をしちゃいけない、なんてことは、ないんだし……」
そこまでぶつぶつ言っておいて、カリアンドロスは、ハッ!? と目を見開いた。
「いや、待てよ!? ……そうだ、両想いなんだ!
タウロスは、アタランタちゃんに心底惚れてる。そして、そのアタランタちゃんも、タウロスのことが好きッ……! おいおい、完璧だろ、これ!? 何の問題もないじゃないか!」
「まあ、そうなんだけれど」
手を叩いて盛り上がるカリアンドロスとは対照的に、ボイスカの表情は、いまだ晴れない。
「あたくし、話していて、ひとつ、とても気になったことがあるのよ」
「えっ、何?」
「アタランタは、あたくしに、確かにこう言ったわ。『タウロスさんは、私と勝負したことは、自分が望んだことでもあるって言ってくれた』って……
これ、あなたが聞いてきたタウロスさんの話と、まったく違っているのじゃなくて?」
「言われてみれば、たしかにそうだな」
思わず真顔になって、カリアンドロス。
「タウロスは、俺に、こう言ってたぜ。『彼女は、俺と同じ気持ちだと言ってくれた。俺と同じように、彼女も、俺を思ってくれていると』ってな……」
「………………」
「………………」
二人は先ほどと同じようにまったく同じ姿勢で腕を組み、しばし黙想した。
「これって……アタランタは、相手と勝負の話を……タウロスさんは、相手と恋の話をした、と思っているのよね?」
「完全に食い違ってるよなあ……」
腕組みをしたまま、大きく首をひねって、カリアンドロス。
「タウロスは、ほんの少ししか話してないようなことを言ってたが……そんな短い会話で、ここまで話が食い違うなんてこと、あるか……?」
いったい、何をどう喋ったら、こういうことになるのだろうか。
そして、より事実に近いことを話しているのは、はたしてどちらなのだろうか?
カリアンドロスが、なおも首をひねっているあいだに、
「ちょっと、待ってちょうだい」
不意に表情をこわばらせて、ボイスカが顔をあげた。
「これって……もしかして、とてもまずい状況なのではなくて? もしも、今のままで、アタランタとタウロスさんが、二人っきりになるようなことがあったら――!?」
「……おおう」
カリアンドロスも目を見開き、ボイスカの顔を指さす。
「たしかに、まずいかもしれん。タウロスは、完全に、アタランタちゃんもその気だと思ってる。二人きりになったら、すぐにでも彼女とΤΑΑΦΡΟΔΙΣΙΑしようとするかもッ……」
「ΤΑΑΦΡΟΔΙΣΙΑッ……!」
男の口から出たあけすけな言葉に、思わずよろめくボイスカ。
「す、すまん! だが、好きどうしなら、当たり前のことだろッ!?」
「そッ、それはまあ、そうかもしれないけれどッ! アタランタのほうは、今、そんな気持ちじゃなくて……とにかく彼女は、スタディオン走の真剣勝負で、彼と決着をつけるつもりなのよッ! それなのに、いきなり、そんなことになったら――」
拳を口に当て、顔色をあおざめさせて、ボイスカ。
「アタランタは、誇り高い娘よ。誇りを傷つけられたと思ったら、その相手を、きっと、一生許さないわッ!」
「何ィッ!? そいつはまずいぜ! せっかく完璧にうまくいきそうな二人の仲が、一発で台無しに………………ハッ!?」
その瞬間、カリアンドロスは神託でも受けたかのように目を見開き、茂みのなかで立ち上がった。
自分の姿が周囲から丸見えになったことに気づき、あわてて再び座りなおしながら、目を輝かせて言う。
「待てよ!? アタランタちゃんは、タウロスのほうも自分のことを好きだってことを、今はまだ、知らないんだよな!? てことは……それさえ教えてあげれば、二人はたちまち、恋人同士としてイイ感じになるってことじゃないか! ウオオオオオッ! これで、万事、解決だッ!」
黄金なすキュプリア女神よ、ありがとうございます――と天に手をかかげて愛の女神に礼を述べ始めるカリアンドロスに、
「ダメよっ!」
ボイスカが、鋭く言った。
「えっ。なんで?」
カリアンドロスは、目を白黒とさせた。
友人の欲目を差し引いても、タウロスは――スパルタ人の基準からいっても少しばかり、いや、だいぶ堅物すぎる傾向はあるが――恋人として、夫として、理想的な戦士だと思う。
自分の親友が、そんな男と結ばれようとしているのに、それを「ダメ」だとは、いったいどういうことなのだろう?
もしかしたら、事ここに至って、親友が自分から離れていってしまう可能性に耐えられなくなったとか……
あるいは、親友が立派な男と愛し愛される関係になることに、嫉妬の気持ちがむらむらとわき起こってきたとか、そういうことなのだろうか?
さまざまな疑念を飲みこんで、彼が黙って見つめるうちに、ボイスカは両の拳を握りしめ、まっすぐにカリアンドロスを見返した。
「アタランタは今、人生にただ一度の機会と思って、タウロスさんとの勝負に、すべての力をかけようとしているのよッ! それなのに、そんな大事なときに、タウロスさんもアタランタのことが好きだなんて言って、彼女の集中を乱してはいけないわッ!」
「なんでッ!?」
予想の斜め上を走り抜けるボイスカの発言に、思わず叫ぶカリアンドロス。
「互いに思い思われて、好きな相手と結ばれるんだから、これほど幸福なことはないじゃないか! スタディオン走の勝負なんて――」
「ばか者ッ!!」
ボイスカの怒鳴り声に、カリアンドロスは目を見開いた。
「アタランタはねえ……彼女は、小さい頃からずっとずっと、走ることが好きで、好きで、誰よりも速く、風よりも速く走りたいって、ひたすらに鍛錬を積んできたのよッ!
彼女にとって、走ることは、何よりも好きで、何よりも大切なことなのよ……! それを、スタディオン走の勝負なんて、ですって!? 何てことを! あたくし、そんな言葉、絶対に許せないわッ!」
「ごめん」
目を見開いたままで――
ボイスカの凄まじい剣幕に、という以上に、あまりにも自分の予想を超えた彼女のことばに圧倒されたかたちで、カリアンドロスは、つぶやくように言った。
「俺は、そんな……そんなふうに……そこまでの気持ちで、スタディオン走にかける女の子がいるなんて……これまで、全然、思ってもみなかった」
「いるのよ」
拳をゆるめ、真っ赤になったままの顔でうつむいて、ボイスカもまた、つぶやくように言った。
「そういう子だから……あたくしは、アタランタを、生涯の宿敵と心に決めたのよ……」
そんなボイスカを、カリアンドロスは再び、黙って見つめていたが、
「ようし、分かったッ!」
やがて、彼はどんと自分の胸を叩き、笑顔で言った。
「俺も、全面的に協力する。タウロスとアタランタちゃんの勝負も、恋も、何とかうまくいくように、俺たちで力を合わせようぜ!」
「ありがとう……」
ボイスカは顔を上げ、眉を下げて笑った。
「ばか者なんて言ってしまって、ごめんなさいね。あたくし自身だって、アタランタの話を聞くまでは、彼女の気持ちが、まったく分かっていなかったのに――」
「いいんだ、俺も、考えが足りなかったよ。さて……」
まずはどうしたもんかな、と腕を組んだカリアンドロスは、
「とにかく、俺が、タウロスを説得してだな……スタディオン走の勝負がすむまでは、もしもアタランタちゃんと会う機会があったとしても、決して彼女に手を……手を…………出さない、ように……説得……」
ぶつぶつ言ううちに、だんだん顔色を悪くして、最後には、ぷつりと黙った。
しばしの沈黙の後、
「ボイスカ」
不意に、決然と顔を上げ、まっすぐにボイスカの目を見つめるカリアンドロス。
「もしも俺が、怒り狂ったタウロスに倒されたときは……君は、俺のために、泣いてくれるかい?」
「カリアンドロス……」
ひたむきな男の目を、ボイスカもまた、まっすぐに見返す。
「あなた、一番好きなお花は何?」
「え? そりゃ、アミュクライの花、ヒヤシンスかな……どうして?」
「毎年欠かさずに、あなたのお墓に手向けてあげるわ」
「ひでえ……」




