第21話 カリアンドロスとタウロス、ボイスカとアタランタ
その翌日。
やはり朝から絶好調で鍛錬に励んでいたタウロスは、猛攻撃の末、とうとう土を詰めた革袋を支柱ごとぶっ倒すに至った。
「……さあさあ、タウロス! そのへんで、ちょっと一息いれようぜ!」
大盛り上がりで喝采をあびせる見物人たちのあいだを強引にかき分けて、カリアンドロスは、タウロスをいつもの水がめのそばへと連れていく。
友が器の水の一気にあおるあいだに、カリアンドロスは上下左右をくまなく見て、近くに誰もいないことを確かめた。
それから、タウロスが飲み終えるのを待って、おもむろに口を開く。
「今日も、ずいぶん、調子がよさそうじゃないか?」
「ああ」
タウロスは、数日前までの彼からは想像もつかないような、充実した表情でうなずいた。
「人生で、こんなに調子がよかったことは、これまでにない」
「そこまでッ!? ……ってことは、その、なんだ……これは、あくまでも俺の予想だが……もしかして、アタランタちゃんと、何かいいことがあったんじゃないか?」
カリアンドロスの言葉に、タウロスは目を見開いた。
用心深くあたりを見回してから、小さくうなずき、声をひそめて言う。
「まるでデルフォイの巫女だな、カリアンドロス。なぜ分かった? 実は、二日前に、彼女のほうから、俺を訪ねてきてくれたのだ」
「お……おうッ? そうだったのかぁ~! そりゃ、ぜんっぜん、知らなかったなぁ~!」
友の怪しさあふれる相槌にも不審を抱いた様子はなく、タウロスは、体のあちこちに巻きつけた布にそっと触れ、目を細めた。
「これは、彼女がくれた。傷に効く薬草だ。すりつぶして脂と混ぜ、膏薬にした」
「あ、使ったんだな……なんか、前は、ずっと取っておくとか言ってたのに」
「満月の夜までに、体を万全の状態にしておきたい。彼女も、それを望んでくれている」
「あ、う、お、そうか? それにしても、アタランタちゃんは、ずいぶん親切だよな。兄貴たちと自分を負かした、これから父親と戦う相手に、薬草をくれるなんて……」
「そうだ。――聞いてくれ、カリアンドロス!!」
「うおッ!?」
鼻先がぶつかりそうなくらいに顔を近づけ、さらにはカリアンドロスの手まで握って、タウロスは熱っぽく語った。
「薬草をもらったときに、俺は、アタランタと話したんだ。そのとき、彼女は、俺と同じ気持ちだ、と言ってくれた! 俺と同じように、彼女も、俺を思ってくれていると……!」
「え! ……ほんとかッ!?」
「ああ。そのことが分かった今、俺に、何ひとつ迷いはない!」
「お、おう……そうか……それは、良かったな、ほんとに……」
調子をあわせてうなずきながらも、カリアンドロスは、なんともいえない表情を浮かべて視線を泳がせる。
「どうした?」
そんなカリアンドロスの顔を、さすがに不審そうに、タウロスがのぞきこんだ。
「歯切れが悪いな。いつもの貴様らしくない」
「そそそ、そうかぁ? いやぁ~、別に? うん、とにかく、良かったぜ、うん……」
「見ていてくれ。満月の夜、俺は、必ずエウリュメドン殿に勝利し、アタランタを妻にと求めるつもりだ!」
「う……うん。とにかく、がんばれよ……!」
* * *
同じ頃。
「ウオオオオオオオオオオ~ッ!! 勝った、ぞォォォーッ!!」
少女たちの鍛錬場となっている野原には、いつもの、気迫に満ちた雄叫びが戻っていた。
「やっとアタランタが元気になって、良かったわ!」
「ほんと、ほんと!」
突風のごとく駆け抜けていくアタランタの背中を見送って、仲間の乙女たちは、ほっとしたようにうなずきあう。
「あの雄叫びがきこえなくちゃ、運動した気がしないものね。これですっかり、いつもどおりだわ!」
「ええ、そうね! ……でも、何だか、ちょっと……」
「えっ? 何よ、どうしたのよ?」
「いえ、何、ってほどでもないんだけど……何だか、アタランタのようすが、いつもと違う気がしない?」
「違う? どこが?」
「ほら、あれよ、何ていうのかしら……目つき? 態度?」
「えっ、そう?」
「そうよ! 何ていうかこう……鬼気迫る、っていうのかしら……?」
「あっ、私もそれ、思ってた!」
横から、激しくうなずきながら、別の乙女が賛同する。
「前からもそうだったけど、今日は、前以上に、めちゃくちゃ真剣っていうか……命がけで走ってる! って感じじゃない!?」
「そうそう、それよ! 顔が、ぜんぜん笑ってないの」
「言われてみれば、そうね! アタランタ、いったいどうしちゃったのかしら……?」
「あっ! もしかして」
ぽん! と勢いよく手を打って、最初の乙女が言った。
「一昨日と昨日、調子が悪かったぶんを、今日のうちに、一気に取り戻してやろうってつもりなんじゃない!?」
「……なるほどッ! そういうことね!?」
「それに違いないわね。そこまで真剣に鍛錬に取り組むなんて、さすがはアタランタだわ!」
遠くのほうで納得して盛り上がっている仲間たちの声を、耳に入れた様子もなく、
「……ハーッ……ハーッ……」
ボイスカを大きく引き離して決勝地点を駆け抜けたアタランタは、両ひざに手をつき、ぽたぽたととめどなく汗をしたたらせて、地面を見つめながら荒い息をついていた。
「ねえ……アタランタ?」
その横から――とても珍しいことに――遠慮がちな小声で、ボイスカが呼びかける。
それ以上にめずらしいのは、負けた彼女がまったく悔しがっていない、という事実だったのだが、今のアタランタは、そのことにさえ気づかない様子だ。
「体の調子、もう、すっかりよくなったようね。良かったわ!」
「うん……」
「走りの調子も、とってもいいじゃないの」
「うん……」
ボイスカの言葉に、心ここにあらず、といった調子でうなずいたアタランタは、次の瞬間、
「よしッ! もう一本、行こうかッ!」
急に跳ね上がるように体を起こして、出走地点に走っていこうとする。
「――待ってちょうだいッ!」
「ぐおおッ!?」
ものすごい力で肩をつかまえて、アタランタをぐるりと振り向かせると、ボイスカは、その顔をまっすぐにのぞきこんだ。
「ねえ、アタランタ。今日のあなた、何だか、いつもと違うのではなくて?」
「えっ!? …………いやああぁ~、そう? 全ッ然ッ、まったく、普通だけどなあ~?」
「ごまかし方が、あまりにも露骨に怪しすぎるんだけれど……」
「いやいやいや~! ごまかすなんて、そんなことないってッ! 普通、普通、いつもどおり! さあッ、もう一本グェェッ!?」
「アタランタッ……!!」
背後からアタランタの首にがっちりと右腕をかけ、その右腕に自分の左腕をかけてぎりぎりと締め上げながら、ボイスカ。
「いくら、そんなふうに隠そうとしたって、あたくしには、ちゃあんと分かるんですからねッ! いったい、アミュクライ村で、何があったのッ!? あたくしを心からの宿敵だと思うなら、ごまかさずに、何もかも、包み隠さず話してちょうだいッ!」
「ググググググ!? わッ……分かったよッ! 分かったから、放せってば……ッ!」
「あたくし、心配なのよ」
うなるアタランタの首をがっちりと抱え込んだままで、うめくボイスカ。
「あたくしが、安易にお見舞なんてすすめたせいで、あなたが、アミュクライ村で、何か嫌な目に遭ったんじゃないかって! もしもそうなら、正直に話してちょうだい! あたくし、責任をとって、そいつと刺し違える覚悟だわッ!」
「刺し違えるなよッ!?」
叫びつつ、その勢いでフンッ! とボイスカの腕から逃れて、アタランタ。
「いや、ほんとに、大丈夫だから! 嫌なことなんて、何もなかったよ。ちゃんと、タウロスさんのようすも見られたし、お見舞の薬草も渡せたし!」
「そうなの……?」
ボイスカの眼差しからは、疑いの色が消えていない。
「それじゃあ、どうして今日は、あんなに追い詰められたような顔で、鍛錬に打ち込んでいたの? あなたはこれまで、走るときに、あんな顔したことなかったわ。いつも、真剣だけど、もっと楽しそうだったわよ!
それなのに、今日のあなたは、必死で……そう、まるで、後ろから化け物にでも追いかけられているみたいだったわ」
「えっ!? いや、私はそんな、………………えっ。ほんとに?」
大きくうなずいたボイスカを、アタランタはしばし、迷うような眼差しでじっと見つめていたが、やがて、観念したように、ふっと顔から力を抜いた。
「そうか……さすがは我が宿敵だ。ボイスカの目は、ごまかせないな。……誰にも言うなよ?」
「え、ええ。もちろん、誰にも言わないわ!」
アタランタとボイスカは遠くに立っているクレイオ先生に手で合図を送ると、野原のすみへ行って座った。
アタランタは、しきりにあたりをきょろきょろしてから、
「実は……」
と、ボイスカの耳に口を寄せてささやいた。
「二日前にタウロスさんと会ったとき、私たち、少しだけ、話をしたんだ。タウロスさんは、私と勝負したことは、自分が望んだことでもあるって言ってくれた。それで――」
そこまで言うと、アタランタは急に思いつめた顔つきになり、言葉を切った。
ボイスカは、固唾をのんでその先を待った。
だが、アタランタは、何も言わない。
これは、自分が先をうながすべきか、それとも、もう少し黙ったまま待つべきか、とボイスカが迷った、その刹那――
「どうしよう、ボイスカ!」
アタランタは、いきなりボイスカの両手をとってその目を見つめ、しぼり出すような声で言った。
「私…………ひょっとしたら、タウロスさんに、恋をしてしまったかもしれないッ!」
「ゥボハァッ!?」
固唾をのみ、全身を耳にして聞き入っていたボイスカは、あまりの衝撃に唾を飲みこみそこね、激しくむせ返った。
「こッ……!? こ、こ、こ、こッ」
「ウオオオオオッ! シーッ、シーッ!」
牝鶏のように繰り返したボイスカの頭に、ガシイッ! と頭蓋骨固めをかけて、アタランタ。
「でかい声を出すなよッ! みんなに聞こえちゃうだろ!? 誰にも言うなって、さっき、言っただろうがッ!」
「ハッ!? ごめんなさい、アタランタ! ……でも……えっ!? それって、つまり」
アタランタの頭蓋骨固めから強引に抜け出し、ボイスカは、信じられないという顔で言った。
「つまり、あなたは……タウロスさんのことが……好き……だ、ということ?」
「そうかもしれないんだ」
この上もなく真剣な顔で、アタランタはうなずく。
「だって、タウロスさんのことを考えると、心臓はどきどきするし、顔は赤くなるし、全身が熱くなるし……!」
「まあ……」
「なあ、ボイスカ! これって、絶対、恋の症状だよなッ!?」
「――症状ッ!?」
「大変だッ……これは、やばいぞッ!」
「いや、あの、えっ?」
あらゆる予想を斜め上方向に越えた宿敵の反応に混乱しながら、ボイスカはうなった。
「あなたが言う『やばい』の意味が、あたくし、まったく分からないんだけれど……? えっ? そもそも、今の話と、今日のあなたの鬼気迫る鍛錬ぶりに、どういう関係が……?」
「大ありだよッ!」
固めたこぶしで、どん! と地面を打って、アタランタは力説する。
「私と同じ名の、大昔の英雄、女狩人アタランタ……その神話は、ボイスカも知ってるだろ!?」
「えっ!? ええ、そりゃあ……」
「あのお方は、めちゃくちゃ足が速かったのに、求婚者メラニオンとの競走に敗れてしまったんだ!」
「えっ、ええ……たしかにそうね」
「愛の女神アフロディータさまが、求婚者メラニオンに、黄金の林檎をお与えになった。メラニオンは、女狩人アタランタとの競走中に、その林檎を投げた……彼女は、女神さまの林檎を、どうしても拾いに行かずにはいられなくて、その結果、勝負に負けちゃったんだよ!
ボイスカ! これは、どういうことだと思うッ!?」
「――え!?」
アタランタの問いかけの答えも、意図もわからず、ボイスカは目を白黒とさせる。
「どういうこと、って…………どういうことって……えっ? つまり、どういうこと?」
「つまり!」
うっすら血走ってさえ見えるほどに見開いた目を、さらにカッと光らせて、アタランタは叫んだ。
「相手に恋なんかしたら、競走に負けちゃうってことだよッ!!」
「――ええッ!?」
予想の斜め上から、さらに二回転半ひねりを加えたアタランタの発言に、ボイスカも思わず叫ぶ。
「いや、ちょっと……アタランタ、いったん落ち着きましょう。あたくし、さっきから、あなたが何を言ってるのか、よく分からないのだけど……?」
「いや、分かるだろッ!」
バンと両手で地面を叩き、その両手を胸の前でわななかせて、アタランタはうめいた。
「やばいよ……このままじゃ、私、タウロスさんに負けてしまうッ……!
再戦のときまでに、心を、泉の水面のように静かに――そして、最高の力、自分の最速が出し切れるように、とことん鍛錬を積んでおかなきゃッ!」
「いや、でも……あなたは、タウロスさんのことが好き、なのよね……!?」
「そうだよ!」
「えっ……!? じゃあ……その……そんな相手になら、たとえ負けても――」
「ボイスカッ!」
ガシィッ! とボイスカの両肩をつかんで、アタランタは叫んだ。
「私の心の宿敵ともあろう者が、なんて情けないことを言うんだッ!? スパルタの戦士が敗北を肯定することなど、あり得ないッ! 私は、この足で、かならずタウロスさんを倒してみせるッ!」
「好きなのにッ!?」
「当たり前だッ!」
アタランタは拳を握り、何の迷いもない目で断言した。
「恋と、勝負は関係ないッ……! 戦う以上は、かならず己の全力をもって相手にぶち当たり、打ち負かすんだッ!
私は、速く、もっと速く……誰よりも速く、走りたい! 今を逃したら、私が速く走れるあいだに、男の人と真剣勝負ができる機会なんて、もう二度と巡ってこないかもしれないだろ!? だから、私は、自分が出せる速さのすべてを出し切って、タウロスさんと競走がしたいんだッ!」
「……アタランタ……!」
今度はボイスカのほうが、アタランタの肩をガシィッ! と握る。
「あたくしが間違っていたわ。許してちょうだいね! それでこそアタランタ、あたくしの宿敵よ……! あなたの思いが、やっと理解できたわ。心ゆくまで鍛錬に打ち来んで、タウロスさんを倒してちょうだいッ!!」
「おうッ! それじゃあ、さっそくもう一本だッ!」
「ええ、やりましょう! さあッ、出走地点まで、競走よッ!」
「ウオオオオオオオッ!」
「ハアアアアアア~ッ!」
「………………あの二人……いったい、どうしちゃったのかしら……?」
「さあ……??」
仲間たちがあきれて見守るなか、アタランタとボイスカの鍛錬は、太陽が照りつける真昼まで、延々と続いたのだった。




