前編
私は一人、夜空に打ち上げられた花火を見ていた。
本当なら彼と二人で、このクルーズ船から眺めていたはずだったのに。
彼が若い女の方を選び、私は今、傷心旅行中である。
人気のない場所まで来たはずだが、女の甘えたような声がする。
おっと、お邪魔しちゃったかな。
声のした方をうっかり見ると、男が女の首に噛みついていた。
えー、抱擁とかじゃなく、がっつりかぶりついていた。
一瞬、男と目が合ったような気がした。
まずい、まずいぞ。
とにかくこの場を去らねば。
無我夢中で部屋まで戻った。
どうしよう。
単なる変わった愛情表現ならいいけど、そんな感じじゃなかった。
女の人、酔ったみたいに、ぐったりしてたし。
吸血鬼?まさかね。
何か事件だったら、クルーズ船のスタッフから通達とかあるんじゃない?
明日、様子を見てみよう。
翌日朝食にレストランに行ったが、特に変わった様子はなかった。
スタッフは、きびきびと働いているし、他の客も楽しそうに笑ったりしている。
何事もなかったように。
昨夜の場所にも行ってみたが、何も変なところはなかった。
きっと暗いから見間違えたのよ。
そう自分に言い聞かせた。
レストランから自室に戻る際に異変に気付いた。
人が少ない。
いつもより早い時間とはいえ、朝食へ向かう人と何人かはすれ違うはずなのに。
物陰から突然何かが襲いかかってきた。
とっさに避ける。
見ると、青白い顔をした女性が再び私に襲いかかろうとしている。
口からよだれのようなものをダラダラ流し、皮膚はところどころはがれている。
腐臭もする。
どう見ても普通の人間じゃない。
くるりとUターンして、全速力で逃げた。
途中で掃除用具入れを見つけたので、すばやくモップを見つけ、長い柄を構えて応戦する。
部屋までついてくると面倒だ。
こういう時に限って、だれも通りかからない。
自分が戦うしかない。
中高6年間、剣道部だった私の渾身の突きを受けてみろ。
隙をついて、ひざカックンをお見舞いし、相手がよろめいたところを足を狙って突きを繰り返す。
とうとう片足がもげた。
よし、これで追跡不能だ。
部屋まで逃げよう。
モップを抱え、部屋の鍵を締めると、どっと疲れた。
あれは、どう見てもゾンビだ。
今まで実物を見たことはないけど、ホラー映画とかで見るゾンビそのものだ。
どうしよう。
吸血鬼だけじゃなく、ゾンビまで出た。
スタッフに言う?
頭がおかしいと思われるかも。
こんなこと私だって信じないよ。
何か事件になれば、館内放送とかあるかもしれない。
しばらく待ってみたが、特に放送もなく、部屋の外で騒ぎが起きている様子もない。
スタッフルームの近くまで行ってみよう。
何かわかるかもしれない。
自分からは何も言わないで、聞き耳だけ立てよう。
―――何もわからなかった。
部屋に戻る途中、売店で籠城用の食料のほか、白いTシャツ、マジック、ステッキを買った。
モップがないと再度襲われても戦えないが、持って歩くわけにはいかない。
立派な不審者だ。
ステッキで代用する。
もう少しリーチが欲しい。
ステッキは祖父へのプレゼントだと嘘をついたら、ラッピングまでしてくれた。
すぐ出せる方がいいのに。
ビュッフェにも寄り、丸ごとニンニクを使っている料理を探す。
これがなかなかない。
やっと見つけてニンニクを確保した。
厨房に忍び込まずに済んでほっとした。
部屋に戻って考える。
明日には、次の寄港地に着く。
そこで絶対下船する。
スタッフに話しても信じてもらえるかわからないし、今日一日の辛抱だ。
このまま明日まで部屋に引きこもろう。
念のためTシャツにマジックで十字架を前と後ろに描く。
十字架は売店になかったからね。
手もふさがれなくて、ちょうどいい。
前衛的なTシャツができた。
これを着た姿、知り合いには見られたくない。
ニンニクは穴をあけてひもを通し、首から下げる。
ちょっと臭いけど、命には代えられない。
多分今できる吸血鬼対策は、これしかない。
聖水なんてないし。
ゾンビはステッキで攻撃して撃退するしかない。
早く明日が来てほしい。




