第9話 偽造書簡の癖/言葉を失う晩餐
事件は、署名式の翌朝に起きた。クロイツ公爵が王国外務院を侮辱したという書簡が、王都の三つの新聞社に同時に届けられたのだ。差出人は、イザベル・レヴィエ。私の名だった。公文書館に着いた途端、オリーヌが真っ青な顔で新聞を差し出した。見出しは大きい。隣国公爵、王国を愚弄。臨時外交顧問が密書を暴露。そんな言葉が踊っている。
私は新聞を受け取り、本文を最後まで読んだ。サラが隣で怒っている。
「こんなの、イザベル様が書くわけないです!」
「ありがとう。けれど、それを証明しなければなりません」
偽造書簡は、私の筆跡を真似ていた。かなりよくできている。行間の狭さ、古帝国式の修正記号、語尾の癖。私が夫の名で書いてきた文を、長く見ていた者でなければ真似できない。胸の奥が冷えた。長年、名を消されて書いてきた文字が、今度は私を陥れるために使われている。
「公爵は」
「朝から外務卿と面会中です」
オリーヌが答えた。
「怒っていますか」
「分かりません。いつも通りのお顔でした」
それは、怒っているかもしれない。私は偽造書簡を机に置き、拡大鏡を取った。怒るのは後でよい。今は読む。文章は王国語で書かれていた。内容は、クロイツ公爵が王国の外務院を愚かと呼び、ヴァルニエ侯爵を無能と侮辱し、六カ国会議を利用して王国の港を支配するつもりだ、というものだった。
言葉は派手だ。派手すぎる。私なら、こんな危険な内容を王国語だけで書かない。書くとしたら、相手にだけ通じる別言語の婉曲表現を使う。そもそも新聞社へ送らない。けれど、感情的な女が密書を漏らしたという絵には合う。作った者は、私の能力ではなく、社交界の噂を利用している。
「イザベル様、これ」
サラが紙の端を指した。そこには、川町の言葉で小さな単語が一つ書かれていた。本文とは関係ない。インクのにじみのようにも見える。
「読める?」
「『霧』です。でも、川上の人の書き方じゃありません。王都の人が真似したみたいな字です」
私は拡大鏡を近づけた。確かに、川町の言葉を知っているふりをした者の字だった。サラの言う通り、線の曲がり方が違う。偽造者は私の最近の仕事を知っている。救護院、川霧の市場、訂正札。そのどこかで得た単語を、私らしさとして混ぜたのだろう。
「オリーヌ、昨日の署名式に入室した者の名簿を」
「はい」
「サラ、川霧の市場でこの単語を書いていた人を思い出せる?」
「たぶん。倉庫の札に似ています」
倉庫の札。リリーヌ・オルフェの名が浮かんだ。だが、彼女だけでこれほどの偽造はできない。筆跡を真似るには、私の長い原稿が必要だ。夫の南書庫なら、それがある。午前の終わりに、クロイツ公爵が公文書館へ来た。新聞社の騒ぎにもかかわらず、彼はいつも通りだった。ただ、目の下に少し影がある。
「あなたは書いていない」
彼の第一声は、それだった。私は少し驚いた。
「確認しないのですか」
「必要ない」
「外交官としては不用心です」
「あなたが新聞社へ密書を送るなら、少なくとも三言語で相手ごとに表現を変える」
思わず息を漏らした。笑ったのか、安堵したのか、自分でも分からなかった。
「そこまで信じていただけるとは」
「信じているというより、読んだ」
彼は偽造書簡を指した。
「この文は、あなたを知らない者が、あなたの筆跡だけ知って書いている」
その言葉で、胸の奥の冷えが少し緩んだ。信頼と観察は違う。彼は耳に心地よい言葉を並べない。けれど、私がどう書くかを覚えている。
「偽造には癖があります」
私は川町の単語を示した。
「この字から、倉庫の札を書いた者に近いと推測できます。ただし、黒幕は別です」
「ヴァルニエ侯爵か」
「夫は感情的ですが、ここまで新聞社を使う発想は薄いと思います。彼の周囲に、外務院の本会議を潰したい者がいる」
「王国内の誰か」
「はい」
公爵は静かに頷いた。
「調べるか」
「調べます。私の名が使われましたから」
そう言うと、公爵は一瞬だけ何かを言いかけた。けれど、口を閉じた。
「何か?」
「いや」
「公爵閣下」
私が促すと、彼は少し視線を外した。
「あなたが自分の名を取り戻した途端、その名が傷つけられたことに腹が立った」
今度こそ、私は言葉を失った。サラが後ろで小さく「わ」と言った。オリーヌが咳払いをする。公爵は表情を変えない。だが、耳の先がほんの少し赤かった。偽造書簡の調査は、難航するだろう。それでも私は、その日初めて、自分の名前が自分一人だけの重荷ではないと感じた。
◇
偽造書簡の調査は、夜まで続いた。新聞社へ届いた封筒は三つとも同じ紙質で、王宮近くの高級文具店で買えるものだった。封蝋は私の私印を真似ているが、輪郭がわずかに崩れている。決定的ではないが、雑な仕事でもない。筆跡の模倣には、私の原稿が必要だった。
候補は侯爵家の南書庫、外務院の下書き箱、そして過去に夫の名で提出した文書の写し。どれも人の出入りがある。夕方、クロイツ公爵が私を別邸へ招いた。
「食事をしながら情報を整理したい」
そう言われ、業務上の会食だと理解した。しかしマルタは、私の髪をいつもより丁寧に結った。
「業務です」
「存じております」
「では、なぜ真珠のピンを」
「業務上、顔色がよく見える方がよろしいかと」
侍女の言い方には、外交官でも勝てない時がある。クロイツ公爵の王都別邸は、派手な邸ではなかった。石造りの建物に、書庫と執務室が多い。晩餐室の壁には風景画ではなく、古い地図が掛けられていた。食卓には二人分の席だけが用意されている。
「ほかの方は」
「呼んでいない。人が多いと、食事ではなく会議になる」
「二人でも会議にはなります」
「それは、あなた次第だ」
公爵は真顔で言った。冗談なのかどうか分からず、私はナプキンを膝に置いた。料理は温かい豆のスープ、白身魚、香草のパン、柔らかく煮た野菜。豪華すぎず、味が濃すぎない。仕事の後に食べやすいものばかりだった。
「お口に合わなければ」
「いえ。とても食べやすいです」
「あなたは夜に重い料理を食べないと、三年前の記録にあった」
私はスプーンを止めた。
「記録?」
「停戦交渉の時、あなたは夜会の後に控室でパンだけ食べていた。翌日も同じだった。胃が弱いのかと思った」
「観察しすぎではありませんか」
「外交官の悪い癖だ」
彼は平然と答える。私はスープを一口飲んだ。豆の甘みが、疲れた体にゆっくり染みる。
「胃が弱いわけではありません。夜会で食事をすると、急ぎの文書を頼まれた時に眠くなるので」
「それは食事の問題ではなく、頼む側の問題だ」
「侯爵家では、頼む側が家の主人でした」
言ってから、少し苦くなった。晩餐に夫の話を持ち込むつもりはなかった。公爵はすぐに慰めなかった。それがありがたかった。
「偽造書簡の話をしましょう」
私は話題を戻した。
「南書庫にある私の原稿を使った可能性が高いです。ただし、新聞社へ同時に送る手配には、政治的な狙いがあります。六カ国会議を潰したい者、あるいはクロイツ公爵を王国外務院から遠ざけたい者」
「私を遠ざければ、誰が得をする」
「国境の条約を曖昧にしておきたい商人。避難民を安い労働力として使いたい港の組合。王国内では、外務院の失態を隠したい派閥」
「ヴァルニエ侯爵は」
「利用されている可能性が高いです」
「あなたは彼をかばうのか」
「いいえ。能力と悪意を分けているだけです」
公爵は少し目を細めた。
「あなたは厳しいのに、雑に憎まない」
「雑に憎むと、相手を正しく見られません」
「疲れないか」
その問いは、不意に柔らかかった。私はすぐに答えられなかった。疲れる。とても疲れる。夫の無能を憎むだけなら楽だ。リリーヌを愚かだと切り捨てるだけなら早い。けれど、それでは偽造書簡の黒幕を見誤る。私は自分を守るためにも、正確に読まなければならない。
「疲れます」
正直に答えた。公爵は頷いた。
「なら、今夜はこの皿が終わったら仕事を止める」
「調査は」
「明日も紙は逃げない」
「犯人は逃げます」
「紙を残して逃げる者は、また紙で戻ってくる」
その言い方が妙に彼らしくて、私は少し笑った。公爵も、ほんの少し口元を緩めた。晩餐の終わりに、彼は小さな箱を差し出した。
「これは業務上必要なものだ」
「そう前置きされると、かえって怪しいのですが」
「私印だ。あなたの古い印を偽造されたなら、新しい印が必要だろう」
箱を開けると、青い石の小さな印章が入っていた。彫られているのは、レヴィエ家の古い月桂樹と、私の頭文字。贈り物としては実用的すぎる。けれど、私は言葉を失った。
「受け取れないなら、貸与品として契約に記録する」
「いえ」
私は印章を手に取った。
「受け取ります。私の名を守る道具ですから」
「そうだ」
公爵は静かに言った。
「あなたの名は、あなたが守る。私は、その邪魔をしない形で手伝う」
返す言葉が見つからなかった。言葉を扱う仕事をしているのに、この人の前では何度も言葉を失う。その沈黙が、怖くないことに気づいてしまった。




